六十八 西王母の桃、アンチエイジング騒動
若返りの薬だという怪しい桃菓子が女房たちに流行する。定子方の女房が「美を保てぬ者は負け」と煽る。彰子は成分も効能も不明なものを口にする危険を説き、食事・睡眠・肌の保湿という現実的な美容法を広める。怪しい秘薬商売は失速。美容マウントを健康リテラシーで制す。
若返り。この言葉は、危ない。
前世でも危なかった。
「飲むだけで若返る」
「塗るだけで十歳若く見える」
「一週間で肌が変わる」
「有名人も愛用」
こういう言葉が並ぶと、かなり危ない。
特に危ないのは、「何が入っているのか分からないものを、ありがたがって口にする」ことです。
美容そのものは悪くない。美しくありたい。肌を整えたい。疲れて見られたくない。年齢を重ねても、自分の顔を好きでいたい。そう思うのは自然です。
宮中ならなおさらです。女房たちは見られる。帝に。公卿に。蔵人に。他の女房に。定子方に。味方にも、敵にも。衣の色、髪の艶、肌の白さ、声、香、立ち居振る舞い。すべてが評価されます。だから、美容への関心は高い。
問題は、そこに商売と焦りとマウントが混ざることだ。
「美を保てない者は負け」
「若さを失えば価値がない」
「疲れて見える女房は主の恥」
こういう空気が生まれると、人は冷静さを失います。そして、冷静さを失った人間は、よく分からない桃菓子を食べます。
……そう。
桃菓子です。その日、藤壺に怪しい流行が持ち込まれました。最初に気づいたのは若菜だった。
彼女は香を扱うので、匂いに敏感だ。女房たちの袖や髪に残る香だけでなく、口にしたものの甘い匂いにも気づく。
「姫様」
若菜は、少し眉を寄せて言った。
「近頃、女房たちの間に、不思議な甘い香がございます」
「香?」
「いえ、焚きしめたものではありません。口に含む菓子のような……桃の香です」
「桃」
「はい。ただ、自然な桃よりも甘すぎます」
常盤がすぐ反応した。
「それ、外でも流行しております」
「何ですか」
「西王母の桃菓子、と呼ばれております」
西王母。
私は、思わず目を上げた。唐土の神話に出てくる女仙。崑崙山に住むとされ、不老長寿の桃を持つ存在として語られる。その桃を食べれば長生きする、若さを保つ、という伝説がある。
もちろん、神話としては面白い。桃は長寿の象徴でもある。仙境、女神、不老不死。物語としては魅力的です。
でも、現実に「西王母の桃菓子」と名付けたものが宮中で売られているなら、それはかなり怪しい。
「誰が売っているのですか」
私が尋ねると、常盤は少し顔をしかめた。
「外の菓子商いです。ただ、定子方に出入りする女房が広めているようです」
「なるほど」
もう嫌な予感しかしません。有子が記録帳を開く。
「効能は?」
「若返る、肌が明るくなる、髪が艶やかになる、目元の疲れが消える、など」
「全部盛りですね」
「全部盛り?」
「いえ、こちらの話です」
菅原の君が興味津々に言った。
「西王母様の桃……物語としては、とても美しいですね」
「物語としては」
私は強調した。
「口にするものとしては、別です」
春枝が紙箱を抱えながら不安そうに言う。
「でも、皆さま召し上がっているのですか?」
常盤が頷いた。
「特に若い女房たちの間で。少し年上の女房にも、焦りを煽るように売られております」
「焦り」
「はい」
その時、朝顔の君が入ってきた。手に、小さな包みを持っている。
「姫様。これです」
包み紙は美しかった。淡い桃色。金の粉を少し散らしている。表には、雅な文字でこう書かれていた。
――西王母御桃菓。
怪しい。とても怪しい。
中を開くと、小さな丸い菓子が数個入っていた。桃の形を模している。表面は艶やかで、甘い香が強い。
若菜が顔をしかめた。
「香が強すぎます」
榊の君が少し身を乗り出す。
「保存は、どうされているのでしょう」
さすが実戦知担当。安全目線が鋭い。有子が包み紙を見る。
「成分の記載はございません」
「でしょうね」
前世なら食品表示法、と言いたくなる。言わない。赤染衛門が雅に直す前に飲み込む。その時、花橘の君が静かに言いました。
「定子方の女房が、これを配りながら言っておりました」
「何と」
「美を保てぬ者は負け、と」
藤壺の空気が変わった。若菜の眉が寄る。春枝が紙箱を抱え直す。菅原の君が怒りで潤む。真葛の君の棍棒が、かなり出そうになる。
朝顔の君が「それは」と言いかけ、担当表がないのでそのまま言いそうになる。薄墨の君は、若い女房たちの不安を思い出したように目を伏せる。紫式部は、筆を止めた。赤染衛門は、静かに私を見た。
美容マウントです。美を保てない者は負け。
この言葉は、ただの美容宣伝ではない。女房たちを不安にさせ、競争に追い込み、怪しい菓子を買わせるための呪いだ。
私は扇を手に取った。
ぱちり。
「西王母です」
赤染衛門が筆を構えた。
「姫様」
「はい」
「覚ですね」
「覚です」
「題は」
「西王母の桃、アンチエイジング騒動」
「……あんちえいじんぐ」
「若返り騒動」
「では、『若さをうたう怪しき菓子への備えの覚』でいかがでしょう」
「採用します」
私は包みの桃菓子を見た。
「西王母の桃は、神話では不老長寿の象徴です」
菅原の君が少し嬉しそうに聞く。
「遠い仙境にある桃。食べれば長く生き、若さを保つという話は、物語としては美しい」
そこで私は声を変えた。
「ですが、神話の桃と、この包みの中身は別物です」
女房たちが静まる。
「成分が分からない。作った場所も分からない。保存の仕方も分からない。どれだけ食べればよいのか、食べすぎるとどうなるのかも分からない」
榊の君が頷く。
「危険です」
「はい」
「特に、香が強すぎるものは、傷みや異臭を隠していることもあります」
藤壺が少しざわつく。
「そうなのですか?」
春枝が怖そうに聞く。
「可能性です」
榊の君は淡々と答える。
「甘味や香を強くすれば、元の状態が分かりにくくなります」
さすがだ。榊の君、実戦知が美容分野にも効く。若菜も言った。
「この香は、自然な桃ではありません。何かを足しています」
「何か、とは」
「分かりません」
「分からないものを口にするのは?」
「危険です」
「そうです」
私は女房たちを見回した。
「美しくなりたいと思うことは悪くありません」
ここは大事です。美容を馬鹿にしてはいけない。それをすると、女房たちは黙って裏で続ける。
「肌を整えること、髪を大切にすること、疲れた顔を休ませること。それは自分を大事にすることでもあります」
花橘の君が静かに頷く。彼女は美貌のリスク管理を経て、自分の美しさを場のために使うことを学んだ人です。
「ですが、美を保てぬ者は負け、という言葉には従いません」
真葛の君が、低く言った。
「勝ち負けにされる筋合いはございません」
「その通りです」
私は続けた。
「美しさは、恐怖で買わせるものではありません」
赤染衛門の筆が走る。
「では、どうすればよいのでしょう」
菅原の君が尋ねた。私は答えた。
「現実的な美容法を広めます」
藤壺が少しきょとんとした。
「現実的」
「はい。食事、睡眠、肌の保湿です」
沈黙。とても地味な三つです。西王母の桃、仙境、不老不死という華やかな話の後に、食事、睡眠、保湿。
地味。
でも、効きます。前世でも、結局そこでした。栄養を取る。寝る。乾燥させない。紫外線は……平安宮中ではそこまで外に出ないので置いておきます。でも、肌をこすりすぎない、香や白粉を落とす、休む。怪しい秘薬より、よほど現実的です。
若菜が少し考えた。
「食事は、どのように」
「甘い菓子ばかりではなく、米、汁、魚や豆、野菜をきちんと。空腹のまま香や白粉だけで整えても、顔色は悪くなります」
春枝が頷く。
「忙しい時、菓子だけで済ませる女房もおります」
「それはよくないです」
澄子が言う。
「睡眠は……難しいですね。夜の宴や文の返事もあります」
「だからこそ、交代を作ります。夜更けまで起きる役を固定しない」
有子が記録する。
「役割交替表に休息欄を追加します」
「お願いします」
朝顔の君が言った。
「保湿とは?」
「肌を乾かさないことです」
前世の化粧水やクリームはない。だが、平安にも髪油、香油、米のとぎ汁、白粉の扱い、湯浴み後の手入れなどはある。
「湯の後に肌をこすりすぎない。乾く前に、合う油や水分で整える。白粉を重ねすぎて肌を荒らさない。香の強いものを直接肌に多くつけない」
若菜が頷いた。
「香は、衣に移すもの。肌へ強くつけるのは荒れることがあります」
「それです」
花橘の君が少し微笑む。
「姫様。急に美容指南の御殿になりましたね」
「必要です」
「確かに」
薄墨の君が小さく言った。
「若い女房たちの中に、疲れているのに桃菓子を食べれば大丈夫と言っている方がいます」
「大丈夫ではありません」
私は即答した。
「疲れているなら寝るのです」
藤壺が妙に静かになった。全員、心当たりがある顔だ。
「寝るのです」
私はもう一度言った。赤染衛門が筆を止めて、少しだけ笑った。
「姫様、そのまま書きましょうか」
「書いてください」
書かれた。
――疲れたる時は、まず眠ること。
雅だが、かなり直接です。こうして、藤壺の美容対策が始まった。まず、桃菓子の調査。榊の君と若菜が、匂いと状態を確認した。口にしない。見るだけ、嗅ぐだけ、少し水に溶かして様子を見るだけ。
「色が水に強く出ます」
若菜が言う。
「桃の自然な色ではありませんね」
「甘味も強そうです」
榊の君が言う。
「保存が不明な菓子を長く持ち歩くのは危険です」
有子が、販売経路を記録した。常盤が外の噂を拾う。
「売り文句は、『西王母の桃を模した秘法』『三日で肌に明るさ』『食べ続ければ老いを遠ざける』です」
「三日」
「はい」
「肌は三日で仙女になりません」
赤染衛門が咳払いした。
「姫様」
「はい。雅に」
「三日にして仙女となることは、いささか疑わし」
「採用」
次に、藤壺内で「健やかな美の覚」を作った。題名は赤染衛門が整えた。
――肌髪を健やかに保つ覚。
項目はこうだ。
一、成分や作り手の分からぬ菓子・薬は口にしない。
二、若返りを急がせる売り文句を疑う。
三、食事を抜いて菓子で補わない。
四、夜更かしの役を偏らせず、休む日を作る。
五、湯の後は肌をこすりすぎず、乾燥を防ぐ。
六、白粉や香を重ねすぎず、肌に合わぬ時は控える。
七、美を勝ち負けにする言葉に乗らない。
八、疲れたる時は、まず眠ること。
八番が強い。女房たちは最初、少し笑った。だが、笑いながらも、効きました。その日の夜から、有子が休息表を作った。
「菅原の君、今夜は語り札の整理を早めに終えてください」
「ですが、続きを」
「寝ます」
「はい」
「若菜、香の準備は補助をつけます」
「助かります」
「春枝、紙箱の整理は明日の朝に」
「紙は夜でも」
「寝ます」
「はい」
有子、強い。韓非子の制度化と、老子の配置換えと、榊の安全意識が混ざって、休息まで制度になり始めた。藤壺、ますます組織です。
次に、食事。
女房たちは忙しい時、菓子や果物だけで済ませることがあった。それを改め、簡単な汁や飯を取る時間を作る。朝顔の君が明るく言った。
「美のために食べましょう」
「それは良い宣伝文句です」
「西王母の桃より地味ですが」
「地味でよいです」
若菜が、食後に合う淡い香を考えた。強い香で空腹をごまかすのではなく、食事の後に落ち着く香。春枝は、美容覚を写す紙を選んだ。
「桃色にしますか?」
「怪しい桃菓子と混同されませんか」
「では、薄い若草色で」
「健康そうです」
「健康そうな紙」
「いいですね」
花橘の君は、肌の手入れについて実践的だった。
「白粉は重ねればよいものではありません。肌が荒れると、かえって厚くしなければならなくなります」
「悪循環ですね」
「ええ。まず荒らさぬことです」
彼女が言うと説得力がある。美人は美容を語る時、強い。ただし、今回は「美で勝つ」ためではなく、「自分を傷めない」ためだ。その違いが大事です。
薄墨の君は、桃菓子に手を出していた若い女房たちの話を聞いた。
「皆、焦っていたようです」
「何に」
「定子方の女房に、『最近疲れて見える』『若さはすぐ過ぎる』『中宮様の御殿は物語ばかりで肌がくすむのでは』と言われたと」
「最後の何ですか」
「物語ばかりで肌がくすむ、と」
菅原の君が立ち上がりかけた。
「物語は肌をくすませません!」
「落ち着いて」
「むしろ心を輝かせます!」
「それは言っていいです」
怒りの方向が少し可愛い。だが、煽りは悪質だ。女房たちの疲れや不安につけ込み、「若く美しくなければ価値がない」と刷り込む。そこへ西王母の桃菓子を売る。美容マウントと秘薬商売の合わせ技です。
私は、これに対抗する言葉を用意しました。常盤に外へ流してもらう。
「藤壺では、若返りの秘薬より、寝ることを勧めている」
「それ、少し地味すぎませんか」
「むしろ効きます」
「確かに、噂としては面白いです」
「さらに、成分不明の菓子を食べるのは肌より腹を壊す方が早い、と」
赤染衛門が咳払いした。
「姫様」
「はい。雅に」
「中身の知れぬ甘き物は、美の前に身を損なう恐れあり」
「採用」
常盤が笑った。
「これなら流せます」
「お願いします」
流れた噂は、思ったより効いた。最初、定子方の女房たちは笑った。
「藤壺は若返りも知らず、寝ろ食べろと言うばかり」
「なんと所帯じみた」
「仙女の桃より、飯と眠りですって」
でも、数日後。桃菓子を食べすぎた女房が腹を壊した。誰か一人ではない。二人、三人。甘味が強く、保存状態もよくなかったのだろう。あるいは、何か合わないものが入っていたのかもしれない。詳細は分からない。分からないからこそ危ない。
常盤が報告した。
「姫様。桃菓子、少し勢いが落ちております」
「理由は」
「腹を壊した方が出たこと。それから、『三日で若返るなら、売っている商人が仙人のように若くないのはなぜか』という声が」
「誰が言いました?」
「真葛の君です」
真葛の君を見る。彼女は静かに言った。
「正論ですが、棍棒にならぬよう、遠回しに申しました」
「どのように?」
「桃を扱う方々にも、時の流れは等しく見えますね、と」
「十分刺さっています」
「礼は保ちました」
「はい」
商人の信用は揺らいだ。さらに、有子が販売経路と価格を整理したことで、桃菓子がかなり高値で売られていることも分かった。
「普通の桃菓子の三倍ほどです」
「高い」
「西王母代でしょうか」
「神話使用料みたいに言わないでください」
赤染衛門がこちらを見る前に、私は口を閉じた。
春枝が言った。
「包み紙だけは良い紙です」
「そこにお金がかかっていますね」
「中身より紙が高いかもしれません」
「本末転倒です」
藤壺では、代わりに健やかな小菓子を出すことにした。怪しい効能はうたわない。ただ、疲れた時に少し食べる甘味。食事の代わりにはしない。保存のきくもの。作り手が分かるもの。
春枝が包み紙を選び、若菜が香を淡くし、榊の君が保存場所を確認する。有子が作り手と日付を記録する。菅原の君が言った。
「名前はどうしましょう」
「普通でよいです」
「西王母に対抗して、藤壺仙女菓など」
「やめましょう」
「では、健やか菓子」
「急に現実的」
赤染衛門が整える。
「『養いの小菓子』でいかがでしょう」
「採用します」
その小菓子は、思いのほか好評だった。若い女房たちは、桃菓子を食べて肌が変わるかどうか不安になるより、きちんと食べて休む方が顔色が良くなることに気づき始めた。若菜が言った。
「睡眠を取った方の香は、翌朝落ち着いております」
「香で分かりますか」
「分かります。疲れている方は、香が乱れます」
薄墨の君も頷く。
「寝た方は、話す時の息が浅くありません」
澄子も言った。
「灯の下で顔色を見ると、休んだ方は白粉が少なくても明るく見えます」
花橘の君が微笑む。
「結局、肌は体の外に出た体調ですから」
「名言ですね」
赤染衛門が即座に書く。
――肌は、身の内の調いを映すものなり。
「雅です」
「花橘の君の言葉です」
「採用」
定子方の美容マウントは、完全には消えなかった。そもそも、こういうものは消えない。また別の秘薬、別の香油、別の白粉が流行るでしょう。でも、西王母の桃菓子は失速した。
理由は単純です。腹を壊す。高い。効能が不明。商人も若返っていない。藤壺の方が顔色が良い。
最後が一番効いた。常盤が笑いながら報告した。
「姫様。外では、『藤壺は桃を食べずに寝ているらしい』と噂です」
「それは良い噂ですか」
「半分笑い、半分羨望です」
「ならよし」
「さらに、『寝ると肌が整う』という当たり前の話が、なぜか新しい知恵のように広がっております」
「人は当たり前を忘れますから」
前世でもそうでした。睡眠、食事、保湿。健康診断。休息。ストレスを減らす。当たり前ですが、難しい。難しいから、楽な秘薬に飛びつく。だから、当たり前を仕組みにする必要があります。
藤壺はまた一つ、仕組みを得ました。休息表。食事確認。肌荒れ時の白粉控え。成分不明の菓子禁止。美容マウントへの返答例。
返答例も作った。「美を保てぬ者は負け」と言われたら、
――美は勝ち負けにあらず、身を健やかに保つことこそ長く残る趣にございます。
赤染衛門作。
「西王母の桃を食べないのか」と言われたら、
――仙桃は物語にてこそ甘く、口に入れるものは作り手を確かめたく存じます。
真葛の君作。少し刺さる。
「若さはすぐ過ぎる」と言われたら、
――過ぎぬ若さより、重ねて乱れぬ身の調いを望みます。
花橘の君作。美人が言うと強い。
私は扇を手に取った。
ぱちり。
女房たちが姿勢を正す。
「神話の桃は、美しい物語です」
赤染衛門が筆を構える。
「ですが、成分も効能も分からないものを、若返りの名で口にしてはいけません」
若菜が頷く。榊の君も頷く。春枝は包み紙を見ている。有子は記録を閉じる。
「美しさを恐怖で買わせる言葉に、乗らないこと。食べる、眠る、肌を乾かさない。まずは身を健やかに保つこと」
花橘の君が静かに言う。
「肌は、身の内の調いを映すもの」
「採用済みです」
赤染衛門が最後の一行を書いた。
――美は秘薬にて奪い合うものにあらず、身を養い、時を重ねて保つものなり。
藤壺の棚に、また一枚、覚が増えました。
――肌髪を健やかに保つ覚。
西王母の桃は、仙境にあるから美しい。でも、宮中で高値で売られる怪しい桃菓子は、ただの商売です。
美しくなりたい心を否定しない。若さを惜しむ気持ちも笑わない。でも、その不安につけ込む者には、きちんと線を引く。
美容マウントには、健康リテラシーで返す。
……と心の中で言った瞬間、赤染衛門がこちらを見た。
「姫様」
「はい」
「また妙な言葉をお考えですね」
「少しだけ」
「雅に直すなら、『身を知り、美を守る心得』でしょうか」
「採用します」
その後、藤壺では夜更かししている女房に、有子が静かに言うようになった。
「西王母より、寝床です」
雅ではありません。でも、よく効きます。
〜 出典 〜
『拾遺和歌集』巻五・賀歌 凡河内躬恒
三千年になるてふ桃のことしより花咲く春にあひにけるかな
(訳)三千年に一度実を結ぶという桃が、今年から花を咲かせる――そんなめでたい春に、私は巡り会ったことだなあ。
ここでいう「三千年の桃」が、まさに西王母が持つ不老長寿の仙桃です。「西王母の桃」という固有名詞を直接出していません。ポイントは漢籍の教養がある人には意味が通じる句であることです、三十六歌仙の一人で紀貫之らと並び称される名歌人、凡河内躬恒の句でした。
〜 舞台背景 〜
西王母は、中国で古くから信仰された中国神話の仙女・女神。姓は緱(あるいは楊)、名は回、字は婉姈、一字は太虚。道教の西王母はすべての女仙の頭首で、仙界の主神でもある。東王父に対応する。中国の民俗宗教では、王母娘娘と呼ばれており、玉皇大帝の配偶神として傍らに座しているとされ、七人の娘(七仙女)がいるとされる。天界にある瑶池と不老不死を司る蟠桃園の女主人でもある。中国民間では旧暦三月三日の「桃の節句」が西王母の誕辰で、この日には神々が彼女の瑶池に集まって蟠桃会を行なうと伝えている。また、西王母は民間伝説の「牛郎織女」や「董永と七仙女」にも登場する。民話では、西王母が髪飾りで宇宙をさっと裂き、その割け目が天の川となり、織姫と彦星を分けた。物語の終わりに、西王母は二人の真摯な恋心に感動し、七夕に年に一度会うことを許した。出典:wikipedia




