六十七 貂蝉、美人局を逆探知
美しい女房を使って彰子方の蔵人を誘惑し、情報を抜こうとする策略が発覚。彰子は貂蝉の連環の計を思い出し、逆に偽情報を流して黒幕を炙り出す。誘惑を仕掛けた側は、利用しているつもりで利用されていたと知り震える。
色仕掛けは、古い。古いが、効きます。
前世で会社員をしていた頃も、露骨なものから微妙なものまで、似たような話はいくらでもありました。
取引先の懇親会で、やたら距離の近い人。情報を聞き出すために、親しげに飲みに誘う人。「ここだけの話」を引き出すために、秘密を共有したふりをする人。恋愛感情と承認欲求を混ぜて、相手の警戒心をゆるめる人。
人は、自分が好かれていると思うと、判断が甘くなります。特に、「自分だけに心を許してくれている」と思った時が危ない。
秘密を話す。内輪の愚痴をこぼす。まだ外に出してはいけない予定を漏らす。誰が何を決めたかを言う。誰と誰が対立しているかを教える。恋愛のふりをした情報収集。それは、かなり危険です。
そして、ここは平安宮中。
恋と情報の距離が近すぎる。文を送る。歌を返す。袖の香を覚える。誰が誰に会ったかが噂になる。誰の女房が、どの公卿と親しいか。その公卿が、どの御殿の出入りを知っているか。
恋愛は、ただの恋愛ではありません。情報経路です。
藤壺では、これまで多くの危機管理をしてきました。文の期限管理。贈答品返却。写本の持ち出し。女房の安全。夜間移動。非常時対応。
だが、今回の相手は少し違いました。相手は、笑顔で来ました。香をまとい、柔らかな文を添え、恋の形をして近づいてきた。
狙われたのは、藤壺に出入りする蔵人の一人。名を、橘の少進といいます。地位は高くない。だが、実務に関わることが多い。
紙や香の受け渡し。朗読会の日程。来客の出入り。誰がどの覚を写したか。どの公卿が藤壺に好意的か。そういう細かなことを知っている。
高官ではないが、実務情報を持つ人間。前世で言えば、役員ではなく、現場のスケジュール管理者である。こういう人の情報は、意外と価値が高い。そして、こういう人は狙われやすい。
気づいたのは、常盤でした。常盤は、外の噂の流れを読む。誰が誰に近づいたか。どの御殿で何が囁かれたか。どの言葉が不自然に広がっているか。そういうものを拾うのがうまい。
ある日、常盤が珍しく真顔で言いました。
「姫様。橘の少進殿の周りに、不自然な香がございます」
「香?」
「若菜の香ではございません。花橘の君の儀礼の香でもございません。もっと、相手の判断を甘くさせるような……」
若菜が少し眉を寄せた。
「甘い香ですか」
「はい。甘く、柔らかく、近づいた者だけが気づく香です」
花橘の君が静かに言う。
「個人へ向ける香ですね」
「そうです」
花橘の君は、美貌のリスク管理で儀礼演出役になってから、距離と視線と香の使い方に敏感になっている。
「誰ですか」
私が尋ねると、常盤は答えた。
「定子方に近い女房、夕霧の君です」
夕霧の君。
聞いたことがある。美しい女房だ。花橘の君ほど華やかに場を奪う美ではない。もっと柔らかい。霞のように近づき、気づくと袖に香が残っているような人だという。
花橘の君が、少し目を細めた。
「あの方は、相手に『自分だけが分かっている』と思わせるのが上手いです」
「経験がありますか」
「遠くから見ておりました」
「十分です」
常盤は続けた。
「夕霧の君が、橘の少進殿に文を送っています。恋文の形です」
「少進殿は?」
「浮かれております」
有子が記録帳を開いた。
「どの程度」
「藤壺の朗読会の日程を、少し早く外で話した形跡があります」
空気が変わった。春枝が紙箱を抱える。若菜が香炉を見る。菅原の君が顔を青くする。真葛の君の棍棒が出かける。
朝顔の君が「それは」と言いかけて止まる。薄墨の君は、場の緊張を見ている。榊の君は、出入りの動線を思い返しているようだった。赤染衛門は、静かに筆を構えた。紫式部は、筆を止めたまま目を伏せている。
これは、恋愛ではない。情報工作です。
もちろん、橘の少進本人は、そう思っていないだろう。彼はただ、自分に美しい女房が関心を寄せてくれたと喜んでいる。でも、相手が聞いているのは何か。
「藤壺は近頃お忙しいのでしょう?」
「次の朗読はいつ?」
「どなたがいらっしゃるの?」
「中宮様は、どの公卿を重んじておられるの?」
「紫式部様の草子は、もう次ができているの?」
軽い会話に見せて、かなり危ない。私は扇を手に取った。
ぱちり。
藤壺が静まる。
「貂蝉です」
赤染衛門が、わずかに眉を上げた。
「姫様」
「はい」
「また異国の女性ですね」
「今回も唐土です」
「題は」
「貂蝉、美人局を逆探知」
「……つつもたせ?」
「美人局、だめですか」
「雅ではございません」
「ですよね」
赤染衛門は少し考えた。
「『色を用いた謀への備えの覚』でいかがでしょう」
「採用します」
菅原の君が身を乗り出す。
「貂蝉とは、どのような方ですか」
「『三国志演義』に出てくる美女です」
私は言った。
「董卓と呂布という二人の男の間に入り、その心を乱し、互いに争わせる連環の計に使われた女性です」
藤壺の空気が静かになる。
「美しさを使った策略、でございますか」
花橘の君が言う。
「そうです」
私は頷く。
「貂蝉本人をどう見るかは難しいです。彼女もまた、男たちの政治に利用された女性です。ただ、物語としては、美貌と恋情が権力者を動かし、情報と感情が絡む危険を教えてくれます」
夕霧の君が自分の意思で動いているのか。誰かに命じられているのか。その両方なのか。まだ分からない。でも、こちらの蔵人が狙われていることは確かです。
「恋愛工作に対して、怒りで正面から騒ぐのは悪手です」
私は言った。
「橘の少進殿を責めれば、彼は恥をかき、かえって隠します。夕霧の君をすぐ問い詰めれば、黒幕は逃げます」
常盤が頷く。
「では、泳がせますか」
「言い方」
「見守りますか」
「近いです」
真葛の君が言った。
「情報漏洩の可能性があるのに、放置するのですか」
「放置ではありません」
私は答える。
「偽情報を流します」
藤壺が、少しざわめいた。有子の筆が止まる。
「偽情報、でございますか」
「はい。橘の少進殿に、少しずつ違う情報を渡します」
常盤の目が輝く。
「誰に流れるかを見るのですね」
「そうです」
誰にどの情報が渡り、どこで噂になるかを見る。前世で言えば、逆探知。情報に印をつけます。違う相手に違う内容を渡して、漏れた経路を特定する。
もちろん、ここは平安。電子メールもない。透かしもありません。でも、噂と文には癖があります。日程。来客名。題。香の趣向。紙の種類。少しずつ変えた情報を用意できる。
春枝が恐る恐る言った。
「紙にも印を?」
「今回は紙ではなく、言葉です」
若菜が続ける。
「香の趣向を偽ることもできます」
「はい。ただし、実害が出ない範囲で」
紫式部が静かに言った。
「物語の次の場面を偽るのは避けた方がよいです」
「なぜですか」
「読者が怒ります」
「確かに」
菅原の君が強く頷いた。
「それは駄目です」
「では、物語の内容は使いません」
有子が冷静に言う。
「日程、来客、香の趣向、題札の紙、席順。このあたりなら、偽情報として分けられます」
「お願いします」
赤染衛門が覚にまとめる。
一つ、誘惑の形をした情報収集を疑う。
二つ、狙われた者をすぐ責めず、情報の流れを確認する。
三つ、実害のない範囲で異なる情報を渡す。
四つ、どの情報がどこで噂になるか記録する。
五つ、黒幕が判明するまで直接対決しない。
六つ、利用された者を切り捨てず、再教育する。
七つ、美貌や恋情を用いた謀には、感情ではなく構造で対処する。
最後の一行が、少し強い。
よい。
作戦が始まりました。まず、橘の少進には、次の朗読会が「五日後、月を題にした小宴」と伝える。別の経路には、「六日後、香を題にした小宴」と伝える。さらに正式な内部記録には、本当の予定である「七日後、紙と文の趣向」を残す。
橘の少進へ渡す情報には、微妙な特徴を入れた。月。五日後。源中納言が来る。この三つがセットで外に出れば、橘の少進経由と分かります。
常盤が見張る。有子が記録する。薄墨の君は、橘の少進の様子を見る。花橘の君は、夕霧の君の距離の取り方を観察する。
榊の君は、夜の文の受け渡し経路を見る。若菜は、香に不自然な変化がないか嗅ぎ分ける。
数日後。
常盤が報告に来た。
「姫様。出ました」
「何が」
「『五日後、月の小宴に源中納言が来る』という噂が、定子方の周辺で流れております」
「確定ですね」
「はい」
橘の少進から夕霧の君へ。夕霧の君から誰かへ。そして定子方周辺へ。でも、黒幕はまだ分からない。夕霧の君本人が利用しているだけかもしれない。それとも、背後に指示した者がいるのか。
次に、第二の偽情報を流した。
今度は橘の少進に、「中宮様は次の宴で、ある公卿に特別な贈答をされるらしい」とだけ伝える。
ただし、相手名を少し変えました。橘の少進には「藤原の宰相」。別経路には「源中納言」。実際には、特別な贈答などありません。
数日後、常盤が戻る。
「夕霧の君が、定子方に近い女房へ『藤壺は藤原の宰相を取り込みたいらしい』と話したそうです」
「よし」
「さらに、その女房が、ある公卿へ」
「誰ですか」
常盤は少し声を低くした。
「右近少将です」
右近少将。
以前から定子方に近く、藤壺の歌合運営を少し面白く思っていない男だ。そこそこ才があり、そこそこ自尊心が強い。
「黒幕候補ですね」
「はい」
有子が記録する。
まだ足りない。もう一つ。最後の偽情報は、少し危険だが効果があるものにした。
橘の少進へ、「藤壺内部で、写本の持ち出し手順が緩められるらしい」と伝える。もちろん嘘です。絶対に緩めません。写本に手を出したい者なら、反応する。
この情報を流す時、私は橘の少進を呼んだ。彼は、少し浮ついた顔で来た。夕霧の君との文のやり取りが続いているのだろう。私はあえて、軽く言った。
「近頃、外の方から物語を読みたいという声が増えております。写しの扱いも、少し柔らかくした方がよいかもしれませんね」
橘の少進は、目を輝かせた。
「それは、皆喜びましょう」
「まだ内々の話です」
「もちろんでございます」
もちろん、が軽い。
私は微笑む。有子が横で、表情を変えずに記録している。
翌日。
常盤が走るように戻ってきた。
「姫様」
「はい」
「右近少将に近い公卿が、写本を借り受ける経路を探り始めました」
来た。
「夕霧の君から?」
「はい。夕霧の君が、右近少将に近い女房へ『藤壺の写しが近々ゆるくなる』と伝えた形跡があります」
「確定です」
黒幕、右近少将。
夕霧の君は、その手先。あるいは協力者。橘の少進は、情報源として利用された。
さて。
ここからが大事です。ただ暴けばよいわけではありません。恋愛工作は、暴き方を間違えると、女側だけが「色を使った」と責められ、男側は「騙された」と被害者ぶる。あるいは、橘の少進が恥をかき、藤壺を逆恨みする。構造で処理する必要があります。
私は扇を手に取った。
ぱちり。
「場を設けます」
赤染衛門が頷く。
「正式な確認の場ですね」
「はい」
参加者は、右近少将に近い公卿、夕霧の君、橘の少進。立会いに源中納言。藤壺からは私、赤染衛門、有子、常盤、花橘の君。
紫式部は出さない。物語の作者を矢面に立てる必要はない。場は、責める宴ではない。
「写本管理と情報確認のための場」とする。
有子が三つの偽情報の記録を並べる。
一つ、五日後の月の小宴。
二つ、藤原の宰相への贈答。
三つ、写本手順緩和。
いずれも、橘の少進へだけ伝えた情報。いずれも、夕霧の君経由で右近少将側へ流れた情報。証拠としては十分です。
確認の場で、右近少将に近い公卿は最初、しらばっくれた。
「ただの噂では」
有子が静かに記録を示す。
「三つの噂が、すべて同じ経路で流れております」
「偶然では」
常盤が微笑んだ。
「偶然が三度重なると、運用でございます」
赤染衛門がちらりと私を見る。
それ、以前私が言った。常盤、使ったな。
夕霧の君は、顔色を失っていた。自分が利用していたと思っていた相手が、最初から印つきの情報を持たされていたと気づいたのだろう。橘の少進も、ようやく事態を理解し始めた。
「私は……」
彼の顔は真っ青だった。
恥と恐怖と、少しの未練。夕霧の君への感情が本物だったのかどうかは、彼にしか分かりません。でも、情報を漏らしたのは事実です。
私は、まず橘の少進を見た。
「あなたは、藤壺の実務情報を、個人的な文の中で漏らしました」
「申し訳ございません」
「恋を責めているのではありません」
彼が顔を上げる。
「情報の扱いを責めています」
ここは分ける。
「今後、藤壺の予定や写本、贈答、来客については、正式な範囲以外で話してはなりません。あなたには、しばらく実務情報から離れてもらいます」
橘の少進は深く頭を下げた。
「承知しました」
次に、夕霧の君を見る。彼女は震えていた。
「夕霧の君」
「……はい」
「あなたは、橘の少進から聞いた情報を、右近少将側へ流しましたね」
沈黙。沈黙は長かった。やがて、彼女は小さく言った。
「頼まれました」
「誰に」
彼女は、右近少将側の公卿を見た。公卿の顔がこわばる。
「藤壺の動きが知りたいと。私は、ただ文を交わすだけでよいと」
花橘の君が、静かに言った。
「ただ、ではありません」
夕霧の君が震える。花橘の君の声は冷たいが、怒鳴らない。
「相手に自分だけだと思わせて、情報を引き出す。それは恋ではありません」
夕霧の君の目から涙が落ちた。
「私も、利用されていたのでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。たぶん、そうだ。右近少将側は、夕霧の君の美貌と柔らかさを利用した。
夕霧の君は、橘の少進の浮かれた心を利用した。そして藤壺は、偽情報でその経路を利用した。利用の連鎖。貂蝉の連環の計とは、そういうものでもある。
美しい女性が、男たちの権力争いの道具にされる。そしてその美貌が、また別の者を動かす。私は静かに言った。
「あなたは、利用された面もあるでしょう。ですが、あなたも人を利用しました」
夕霧の君は泣きながら頷いた。
「はい」
「ならば、ここで止めなさい」
私は言った。
「これ以上、誰かの恋心や承認欲求を、情報の道具にしないこと」
右近少将側の公卿には、源中納言が厳しく言った。
「これは、ただの恋文遊びでは済まぬ。藤壺の写本に手を出そうとした疑いもある」
公卿は平伏した。右近少将本人には、後日、正式な抗議と警告が送られた。
直接名指しは避けつつも、経路と証拠を示す。今後、藤壺の女房・男房への私的接触による情報収集を禁じる。写本管理への接近を監視する。再発時は、より上位へ報告する。赤染衛門の文は、雅だった。でも、刃だった。
事件後、橘の少進はしばらく沈んだ。薄墨の君が、少し様子を見た。
「恥じておられます」
「当然です」
「でも、自分が恋をしたこと自体を恥じているようにも」
「そこは違いますね」
私は橘の少進を呼んだ。
「恋をするなとは言いません」
「はい」
「ただし、恋と職務を混ぜてはいけません」
「……はい」
「美しい人に笑いかけられた時ほど、自分が何を話しているかを見なさい」
橘の少進は、深く頭を下げた。
「私は、自分だけが選ばれたと思っておりました」
「人は、そう思いたいものです」
「情けないことです」
「情けないですが、学べます」
厳しいようだが、切り捨てはしない。彼には再教育が必要です。有子が、出入りの蔵人向けの情報取扱い覚を作った。
一、予定・来客・写本・贈答・内部の役割は私的な文で話さない。
二、恋文の中で仕事の話を聞かれたら、答えず話題を変える。
三、繰り返し聞かれた場合は報告する。
四、美貌や親密さを理由に、情報範囲を広げない。
五、漏らした場合は、速やかに申告する。
常盤が笑った。
「恋文にも情報管理」
「必要です」
「藤壺らしいです」
「喜んでよいのか分かりません」
花橘の君は、夕霧の君の件を重く見ていた。
「美貌を武器にする人は、最後には自分も武器として扱われます」
「そうですね」
「私は、儀礼演出役に回されてよかったのかもしれません」
「回した側としては、そう思っていただけると助かります」
花橘の君は少し笑った。
「美しさを場に置くことと、人の隙に差し込むことは違います」
「その違いを、藤壺では守りましょう」
紫式部は、静かに言った。
「恋が情報になるのは、物語としては面白いですが」
「現実では困ります」
「ええ」
「書きますか」
「いつか、形を変えて」
「黒幕が震える程度にしてください」
「それは強めですね」
「強めで」
定子方からは、妙な静けさが届いた。常盤によると、右近少将側はしばらく動きを止めたらしい。
「利用しているつもりで利用されていた、と気づいたようです」
「よいことです」
「夕霧の君も、しばらく文を控えております」
「それもよいことです」
「ただ、外では『藤壺は恋文にまで罠を張る』という噂も」
「罠ではありません。情報経路の確認です」
「雅に言えば?」
赤染衛門が横から言った。
「『言の葉の流れを見定むること』でしょう」
「さすがです」
藤壺の棚に、また一枚、覚が増えた。
――色を用いた謀への備えの覚。
そこには、こう記された。
一、恋の形をした情報収集を警戒する。
二、狙われた者を即座に責めず、経路を見極める。
三、偽情報は実害のない範囲に限る。
四、情報ごとに特徴を持たせ、流れを記録する。
五、黒幕を炙り出すまで、感情的に動かない。
六、利用された者は切り捨てず、情報取扱いを再教育する。
七、美貌を用いた謀は、人を道具にするものであり、恋とは呼ばない。
最後に、赤染衛門が一行を加えた。
――人の心を釣り糸とする謀は、いずれ己をも絡め取る。
重い。
でも、今回には合っています。
貂蝉は、美しい。連環の計は、鮮やかです。でも、その鮮やかさの裏には、人の心を鎖にする怖さがあります。
藤壺は、その鎖にただ絡め取られない。もし恋を装って情報を抜きに来るなら、こちらはその情報に印をつける。誰が誰を使い、どこへ流し、何を狙っているかを見る。そして、必要な時に静かに鎖を引く。
私は扇を手に取った。
ぱちり。
女房たちが姿勢を正す。
「恋は、情報を引き出す道具ではありません」
赤染衛門が筆を構える。
「美貌も、親密さも、文の甘さも、人の隙につけ込むために使えば謀です。謀には、感情で返さず、構造で返します」
常盤が満足そうに頷く。有子は記録を閉じる。花橘の君は静かに香を整える。若菜は、甘すぎる香を避けた。菅原の君は、今回の話を物語にしたくて震えている。
春枝は、覚に使う紙を少し厚めにした。薄墨の君は、橘の少進が必要以上に沈まないよう見ている。真葛の君は、情報管理の指摘を棍棒にしないよう深呼吸している。
榊の君は、文の受け渡し経路も安全の一部だと理解している。赤染衛門が最後の一行を書いた。紫式部は、その文字を見て、かすかに目を伏せた。
――人の心を釣り糸とする謀は、いずれ己をも絡め取る。
藤壺はまた一つ、恋の陰にある危険を覚えました。
宮廷の恋は美しい。歌も、香も、文も、胸を震わせる。けれど、その美しさを使って人を釣り、情報を抜き、御殿を揺らそうとするなら。恋愛工作には、カウンター諜報で返す。
……と心の中で言った瞬間、赤染衛門がこちらを見た。
「姫様」
「はい」
「また妙な言葉をお考えですね」
「少しだけ」
「雅に直すなら、『恋の謀を見破る備え』でしょうか」
「採用します」
その後、藤壺では蔵人たちの間で、妙な合言葉が流行った。
「美しい女房ほど、仕事の話はするな」
色気はありません。でも、よく効きました。
〜 出典 〜
『三国志演義』第八回 王司徒巧使連環計
『汝可憐漢天下生靈』言訖、淚如泉涌。貂蟬曰、『適間賤妾曾言。但有使令、萬死不辭。』允跪而言曰、『百姓有倒懸之危、君臣有累卵之急、非汝不能救也。賊臣董卓、將欲篡位。朝中文武、無計可施。董卓有一義兒、姓呂、名布、驍勇異常。我觀二人皆好色之徒、今欲用連環計。先將汝許嫁呂布、後獻與董卓。汝於中取便、謀間他父子反顏、令布殺卓、以絕大惡。重扶社稷、再立江山、皆汝之力也。』
(三國志演義はテストに出ませんが、一応訳文)「どうか、漢王朝の苦しむ民たちを救ってくれ!」王允はそう言い終わると、泉から水が湧き出るように涙を流しました。貂蝉は言いました。「先ほども申し上げましたが、私にご命令とあらば、命を落とすことになっても決して断りません」王允はひざまずいて言いました。「民衆は逆さ吊りにされるような苦痛を味わっており、国は積み上げた卵のようにいつ崩れてもおかしくない危機にある。これはお前でなければ救えないのだ。あの逆賊の董卓は、今まさに皇帝の座を奪い取ろうとしている。だが、朝廷の役人たちは誰も打つ手がない。董卓には呂布という養子がいて、並外れて強い。私が見るに、あの二人はどちらも大変な女好きだ。そこで今、『連環の計(二つの罠を連動させる作戦)』を使おうと思う。まずはお前を呂布の妻にすると約束しておき、あとから董卓に差し出すのだ。お前はその間でうまく立ち回って二人の仲を引き裂き、いがみ合わせ、最終的に呂布の手で董卓を殺させて、この巨悪を終わらせるのだ。国をもう一度救い出し、天下を立て直すことができるかは、すべてお前の力にかかっている」
〜 舞台背景 〜
貂蝉は、小説『三国志演義』に登場する架空の女性。実在の人物ではないが楊貴妃・西施・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられる。出典:wikipedia




