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転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜  作者: 条文小説


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62/102

六十一 公卿のセクハラ和歌を添削する

挿絵(By みてみん)


 公卿が若い女房にしつこく恋歌を送る。女房は断りづらい。彰子は返歌を作り、相手の面子を潰さず距離を取る表現にする。さらに女房個人ではなく御殿全体の方針として対応し、相手が追撃しにくい構造を作る。恋歌文化の圧力を、組織対応で跳ね返す。

 恋歌は、美しいものです。


 本来は。月を見て、相手を思う。風の音に、会えぬ夜を重ねる。袖の露に、涙を隠す。返らぬ文を待ちながら、夜の長さを数える。そういう歌には、確かに心があります。


 この時代、恋は歌で始まることが多い。歌を贈る。返歌を待つ。返歌が来る。その言葉の濃さや薄さ、紙の選び方、香の移り方、筆跡の揺れ。そこから相手の心を読む。


 たいへん雅です。


 たいへん雅なのですが。雅という言葉は、ときどき暴力の包み紙になります。相手が望んでいないのに、何度も歌を送る。返事が薄いのに、気づかぬふりをして重ねる。身分や年齢や立場の差で、相手が断りづらいことを利用する。周囲に「恋歌を無下にするのは無粋」と思わせる。


 本人は風流のつもり。周囲も「まあ、恋の戯れ」と笑う。けれど、受け取る側は笑えません。前世なら、これはかなり分かりやすく言えます。


 セクハラです。


 立場のある相手から、しつこく好意を向けられ、断ると角が立つ。職場の上下関係、取引先、偉い人、常連客。


「冗談だよ」


「本気にするな」


「可愛いからつい」


「返事くらいしてくれても」


「大人の付き合いだろう」


 その言葉のどれもが、受け取る側の逃げ道を狭くする。宮中でも同じです。違うのは、そこに和歌と香と美しい紙がつくこと。厄介さが、雅に包まれているだけです。


 その日、藤壺に持ち込まれたのは、一通の恋歌でした。正確には、一通ではありません。何通もです。


 若い女房の真木が、青い顔で赤染衛門の前に座っていました。真木は、近頃藤壺へ出入りするようになった女房です。


 有子の下で控えの取り方を学び、春枝から紙の扱いを少し教わり、若菜の香炉の灰を見て「灰にも作法があるのですね」と感心していた子です。真面目で、控えめで、まだ宮中の力関係に慣れていない。そういう子です。


 その真木の膝の上に、数枚の文が置かれていました。紙は上等。香も悪くない。筆跡も、いかにも慣れた男性の手。差出人は、ある公卿でした。


 名は伏せます。伏せますが、かなり面倒な方です。年齢は真木よりずっと上。身分も上。歌の才は、それなりにある。ただし、自分の恋歌が相手を困らせる可能性を、あまり考えていない。最悪の組み合わせです。


「最初は、ただ季節の歌のようでした」


 真木は震える声で言いました。


「梅の香がどうとか、袖がどうとか。それで、失礼のないように薄く返したのです」


「薄く返した」


 赤染衛門が確認します。


「はい。御歌ありがたく、春の景色に心慰みました、と」


「恋の含みは?」


「入れておりません」


「よろしい」


 赤染衛門が頷きました。


「それで終わらなかったのですね」


 真木は小さく首を振りました。


「次の歌で、夜の夢に見た、と」


 菅原の君が、少しだけ身を乗り出しかけました。私が視線を向けると、すぐに戻りました。


「悲恋ではございませんね」


「違います」


「はい」


 真木は続けました。


「それにも、私は返さずにおりました。すると、また次が」


 文を開くと、歌がありました。


 ――逢はぬ夜も 夢路に袖を 重ねつつ 君が面影 離れざりけり


 うん。重い。


 そして、相手が若い女房で、返事を控えている状況を考えると、かなりしつこい。


 もう一通。


 ――つれなきを 恨みも果てぬ 朝ぼらけ 待つ身の袖は 露に朽ちなん


 さらに重い。


「返事をしない相手へ、恨みと待つ身を出していますね」


 赤染衛門が低く言いました。


「これは圧でございます」


「圧」


 真木が小さく呟きました。


「私は……どう返せばよいのか分からなくて。返さなければ失礼かと。返せば、また続くかと」


「その通りです」


 私は言いました。真木がはっと顔を上げます。


「あなたの迷いは正しい」


「正しい、のでしょうか」


「はい」


 私は文を膝に置きました。


「この状況で、若い女房一人に判断させるのが間違いです」


 場が静かになりました。常盤が、珍しく真剣な顔をしています。


「相手が公卿様ですものね」


「そうです」


「真木殿がどれだけ丁寧に断っても、相手が『照れている』と解釈したら終わりです」


「その通り」


 小少将が静かに言いました。


「衣でも、相手が勝手に意味を読み込むことがあります。薄色を選んだだけで、思わせぶりだと」


「怖いですね」


 有子が呟きました。


「怖いです」


 恋歌文化は、読み合いの文化です。でも、読み合いは、相手が都合よく読む時に暴力になります。


 返事がない。ならば恥じらいだ。


 薄い返歌。ならば本心を隠している。


 断りの歌。ならば恋の駆け引きだ。


 こうなると、何をしても好意の証拠にされます。前世の言葉で言えば、受け取り手に逃げ道がない。


「姫様」


 赤染衛門が言いました。


「どうなさいますか」


「返歌を作ります」


 真木が青ざめました。


「私が、でございますか」


「いいえ」


 私は首を振りました。


「藤壺として返します」


「御殿として?」


「はい」


 場がまた静かになりました。


「相手は、真木個人へ送ってきています」


 私は言いました。


「けれど、真木個人で対応すれば、相手はまた個人へ追ってきます。だから、御殿全体の方針として返す」


 赤染衛門が、すぐに理解した顔になりました。


「個人間の恋歌ではなく、御前の作法の問題にするのですね」


「そうです」


「相手の面子は潰さず」


「はい」


「しかし、追撃しにくい形にする」


「はい」


 常盤が小声で言いました。


「組織対応」


「その通り」


「おお……」


 なぜ感動しているのでしょう。でも、これが大事です。セクハラ対応で、一番してはいけないのは、被害を受けた個人にだけ対応を任せることです。


「上手く断って」


「波風立てないで」


「あなたも隙があったのでは」


「嫌なら返さなければいい」


 そうやって、困っている人をさらに孤立させる。違います。立場の差がある時は、場が守る必要があります。


「ただし」


 私は文を見ました。


「返歌は慎重に作ります」


 菅原の君が手を上げました。


「強く拒絶する歌では駄目でしょうか」


「駄目です」


「なぜですか」


「相手が公卿だからです。面子を潰すと、今度は恨みになります」


「では、柔らかく?」


「柔らかく、しかし隙なく」


 赤染衛門が頷きました。


「難しい文でございますね」


「難しいです」


「恋歌ではなく、距離を置く歌」


「はい」


 和泉式部のような恋歌の才があれば、燃えるような返歌もできるでしょう。日記に残るような、濃い言葉のやり取りも。けれど、今回必要なのは燃やす歌ではありません。火を消す歌です。


 しかも、相手に水を浴びせて怒らせるのではなく、静かに灰を整えて火勢を落とす歌。若菜の領域ですね。


「若菜」


「はい」


「強い香を薄める時、どうしますか」


 若菜は少し考えました。


「いきなり消そうとすると、煙が立ちます。灰を整え、火を離し、別の穏やかな香へ移します」


「それです」


「恋歌も?」


「恋歌も」


 赤染衛門が筆を取りました。


「まず、相手の歌への礼は入れる」


「はい」


「ただし、恋情は受け取らない」


「はい」


「こちらが若い女房個人ではなく、御殿の作法として返していることを示す」


「はい」


「今後は季節の歌や公的な挨拶に留めてほしい、という含みを入れる」


「はい」


 真木が、少しだけ息をしました。一人で背負わなくてよいと分かって、少し楽になったのでしょう。まず、相手の歌を見ます。


「夢」「袖」「待つ」「恨み」。


 この語を正面から受けると、恋の土俵に乗ってしまいます。だから、返歌では個人的な夜や袖を避ける。代わりに、御殿、春、花、遠くからの風、などに移す。


「個人の袖ではなく、御殿の花」


 小少将が言いました。


「よいです」


「袖を出すと近すぎます。花なら距離が取れます」


「採用」


 菅原の君が考えました。


「相手の面子を立てるなら、『御歌の風はありがたい』という形でしょうか」


「よいです」


 赤染衛門が整えました。いくつか案が出ます。


 案一。


 ――吹きかよふ 御歌の風は ありがたく 花の御垣に 春をとどめん


 悪くありません。ただ、少し受け入れすぎている。


 案二。


 ――夢の路は 人それぞれに 遠ければ 花見る庭に 風を聞かまし


 これは断りが強い。少し冷たい。


 案三。


 ――御歌には 春の心を 受けとめて 花の便りに 返すばかりぞ


 かなりよい。恋ではなく、春の歌として受け取る。


 返すのも花の便りに留める。赤染衛門がさらに整えました。


 ――御歌には 春の心を 承り 花の便りに 返すばかりぞ


「承り」


 有子が言いました。


「個人の恋ではなく、御殿として受けた感じが出ますね」


「そうです」


 小少将が頷きます。


「『返すばかりぞ』で、これ以上深くは受けないと分かります」


 若菜が言いました。


「香を移しすぎない返しです」


 紫式部が、几帳の陰から静かに言いました。


「夢を夢で返さないところがよいです」


「夢で返すと?」


 菅原の君が尋ねます。


「相手は続きを見るでしょう」


 鋭い。その通りです。相手が夢の歌を送ってきた時、こちらも夢で返せば、同じ夢路に立ったことになる。


 それは危険です。


「では、この返歌で」


 私は言いました。真木が震える声で尋ねました。


「私の名で、でしょうか」


「いいえ」


「では」


「藤壺の女房一同、という形では重すぎます。赤染衛門が文面を整え、私の御前よりの返答として出します」


 赤染衛門が頷きました。


「姫様が直接返すほどではなく、しかし真木個人ではない」


「はい」


「ちょうどよい位置です」


 これが大事です。個人に戻さない。しかし、大事件にも見せない。静かに、構造を変える。添え文も作ります。


 ――御歌、春の御心としてありがたく拝見いたしました。若き女房らへの私的な御文は、返答の作法も定まりかねますゆえ、今後は御前への季節の御歌として承りたく存じます。


 赤染衛門が少し考え、言葉を柔らげました。


「『私的な御文』は少し強いです」


「では?」


「『内々に過ぎたる御文』では」


「それも強くない?」


「相手によります」


 赤染衛門は、相手の顔を思い浮かべているのでしょう。


「『若き女房どもには、御返しの作法もおぼつかなく』とすれば、相手を責めず、こちらの未熟さに寄せられます」


「なるほど」


「その上で、『以後は御前への季節の御歌としてありがたく』と」


「採用」


 自分たちの未熟さを理由にする。本当は相手がしつこいのですが、それを正面から言わない。相手の面子を保ちながら、今後の経路を変える。赤染衛門、さすが胃痛担当です。


「私の胃は、また少し和泉式部日記になりました」


「なぜ?」


「恋歌対応は、胃に来ます」


「分かります」


 その日のうちに、返歌と添え文は整えられました。春枝が紙を選びます。


「恋文に見えない紙がよろしゅうございますね」


「はい」


「しかし失礼ではないもの」


「はい」


「香は?」


 若菜が言いました。


「薄く。個人の袖を思わせぬ香にいたします」


「採用」


 小少将が、結び方を見ました。


「恋の文に見える結びは避けます。御前からの返答らしく、整ったものに」


「よいです」


 こうして、文は送られました。真木は、まだ不安そうでした。


「これで、怒られませんでしょうか」


「怒る可能性はあります」


 私は正直に言いました。真木の肩が震えます。


「でも、怒るなら、その怒りは御殿へ向きます。あなた一人が受けるものではありません」


 真木は、そこで初めて少し泣きました。


「ありがとうございます」


「あなたが悪いのではありません」


 私は言いました。


「断りづらい状況を作られたことが問題です」


 その言葉を、真木は何度も心の中で繰り返すように頷きました。翌日、相手の公卿から返事がありました。


 場は緊張しました。


 文を開くのは赤染衛門です。


「……ふむ」


「どう?」


「面白くはなかったようですが、表向きは収まっています」


 内容はこうです。


「若き女房を困らせるつもりはなかった。春の戯れが過ぎたようである。以後は御前へ季節の歌を贈る」


 よし。完璧ではありません。


「戯れ」という言葉で軽くしようとしているところは腹立たしい。でも、追撃は止まりました。少なくとも、真木個人への文は止まる。


「勝ちましたか」


 常盤が小声で聞きました。


「勝ち負けではありません」


 赤染衛門が言いました。


「被害拡大を防ぎました」


「つまり、勝ちでは」


「常盤」


「はい」


 菅原の君は、返歌を何度も見ています。


「恋歌を、恋歌でなく返す……勉強になります」


「あなたは燃やしがちだから、よく覚えて」


「はい」


 紫式部が、几帳の陰から言いました。


「恋の言葉は、受け取る形で意味が変わります」


「どういうことですか?」


 菅原の君が尋ねます。


「同じ歌でも、個人が袖で受ければ恋になります。御殿が花で受ければ、季節の挨拶になります」


 場が静かになりました。赤染衛門が、すでに書いています。


「式部様、名言が多いです」


「記録に向く場面でしたので」


 さすが観察者です。その後、藤壺では新しい心得が作られました。


 ――恋歌対応心得。


 一、望まぬ恋歌を受けた者を、一人で対応させぬこと。

 一、相手の身分が高い時ほど、御殿として経路を整えること。

 一、返歌は相手の面子を潰さず、しかし恋情を受け取らぬ形にすること。

 一、夢、袖、夜など近すぎる語を返さず、花、季節、御前など距離のある語へ移すこと。

 一、返答の窓口を個人から御前へ変えること。

 一、しつこい文は保存し、時刻と受領経路を記録すること。

 一、恋歌文化の雅を、断りづらさの圧力にせぬこと。


 有子が清書しながら、最後の一文で筆を止めました。


「雅が圧力になる……」


「あります」


 私は言いました。


「ありますね」


 真木が小さく頷きました。


「断るのが無粋だと思われるのが怖かったです」


「それが圧力です」


「恋歌なのに」


「恋歌だからこそ、です」


 恋の形をしていると、周囲は問題を軽く見がちです。


「好かれているだけ」


「歌をもらえるなんて」


「少し返してあげれば」


「公卿様なのに失礼では」


 そうやって、受け取る側の苦しさを消してしまう。でも、好意は押しつけた瞬間、好意ではなくなります。相手が断りづらい立場にいるなら、なおさら。


「相手は悪気がなかったのかもしれません」


 真木が言いました。


「そうかもしれません」


 私は答えました。


「でも、悪気がなくても、困るものは困ります」


「悪気がないなら我慢すべき、ではないのですね」


「違います」


「……よかった」


 真木は、ようやく息を深く吸いました。その姿を見て、私は改めて思いました。組織対応は、人を楽にします。一人で抱えている時、人は自分が悪いのかもしれないと思いやすい。自分の返し方が悪かったのか。隙があったのか。大げさに受け取っているだけなのか。


 けれど、御殿として扱えば、問題は個人の気にしすぎではなく、場の作法の問題になります。


「あなたが悪い」ではなく、「この経路は危険だから変える」。


 それだけで、ずいぶん違う。数日後、公卿からは本当に季節の歌が一首届きました。内容は、梅雨の晴れ間に関するもの。恋の含みは、かなり薄くなっていました。


 赤染衛門が確認し、藤壺として返しました。真木は関わりません。これでよいのです。相手を完全に敵にしない。しかし、個人へ近づかせない。距離を保つ。


 常盤が報告しました。


「件の公卿様、少し面白くなさそうですが、周囲には『若い女房を困らせぬよう、御前へ歌を送ることにした』とおっしゃっているそうです」


「自分から配慮した形にしたのですね」


 赤染衛門が言いました。


「面子の着地点です」


「よい着地点です」


 私はうなずきました。本人の認識が完全に改まったかは分かりません。けれど、行動が変わればまずは十分です。面子を残すことで、再発を防げるなら、その方がよい場合もあります。もちろん、悪質であれば別です。強い対応が必要になることもあります。


 でも今回は、静かに線を引くことで止められました。その夜、藤壺の文箱には「恋歌対応心得」が納められました。


 春枝が選んだ紙は、恋文ほど艶やかではなく、記録ほど堅くもない。ほどよい距離感の紙です。


「紙にも距離感があります」


 春枝が言いました。


「具体的に?」


 私が聞くと、春枝は嬉しそうに答えました。


「色は柔らかいですが、香を強く含みません。折り目も整い、個人の恋より御前の返答に向いております」


「よいです」


 若菜が香炉の灰を整えました。


「今日は、香も薄くいたしました。余韻は残しますが、追ってこない香です」


「それもよいです」


 小少将は真木の衣を見て言いました。


「しばらく、目立つ色は避けましょう。ただし、怯えているようには見せません」


「大事ですね」


「はい。守ることと、隠すことは違います」


 本当に、その通りです。真木は、少しずつ落ち着きを取り戻しました。有子の下で控えの練習をし、常盤に「出所確認は大事です」と教えられ、若菜の香炉を手伝う。日常へ戻っていきます。それが一番大事です。問題対応は、解決して終わりではありません。その人が日常へ戻れるところまで見なければなりません。


 紫式部は、几帳の陰で静かに言いました。


「恋歌は、相手の心へ近づく橋にもなりますが、逃げ道を塞ぐ縄にもなります」


 菅原の君が震えました。


「式部様……」


「記録してよいです」


 赤染衛門が書きました。もう完全に名言の供給源です。私は、文箱を見ながら思いました。和泉式部のように、恋歌で心を渡り合う人もいます。それは才です。


 濃く、危うく、美しい世界です。けれど、誰もがその場へ立ちたいわけではありません。恋歌をもらったからといって、恋の舞台へ上がる義務はない。


 藤壺の灯はその夜も静かに揺れていました。恋歌の紙の上ではなく、心得の紙の上に。そしてそこには、赤染衛門の整った字で、はっきりと書かれています。


 ――望まぬ恋歌を受けた者を、一人で対応させぬこと。


 私はその一文を見て、心の中でそっと呟きました。


 恋歌は美しい。けれど、相手が困っているなら、それはもう風流ではありません。面子を保ち、距離を取り、経路を変える。恋の圧力は、個人ではなく、御殿で受け止める。


 それが、藤壺の作法です。

〜 出典 〜

『紫式部日記』第2章 渡殿に寝た夜の事 道長の夜這い


 渡殿わたどのたるをたたくひとありとけど、おそろしさに、おともせでかしたるつとめて、

  よもすがら 水鶏くひなよりけに なくなくぞ まき戸口とぐちに たたきびつる

 かへし、

  ただならじ とばかりたたく 水鶏くひなゆゑ あけてはいかに くやしからまし。


(テスト向け訳文)夜更けに自室の戸を叩く音が、はっきりと聞こえました。恐ろしさのあまり声も出さずに夜を明かした翌朝、道長様から歌が届きました。一晩中、水鶏という鳥以上に泣きながら、あなたの戸を叩きあぐねていたのですよ。私は返します。ただ事ではないほど激しく戸を叩く水鶏ですから、もしもあの時戸を開けていたなら、私はどれほど後悔したことでしょう。


※最高権力者である藤原道長から、彰子が出産のため不在の隙をついた紫式部への強引な夜這いと恨み言の和歌に対し、紫式部が居留守を使い和歌で優雅に撃退した痛快な場面です。


〜 舞台背景 〜

 ※テスト向けではなく歴ヲタ読者様向け


 「紫式部日記」について、沢山の様々な解釈があるのはググらせて頂きました。それらを踏まえた上で。


 紫式部の日記の行間からは、道長の強引さや図々しさに対する辟易、警戒心、そして恐怖がはっきりと読み取れます。


 道長の行動(朝の局に押し入る、夜に屏風を取り払って怯えさせる、「好色な女」とからかう、夜這いをかける)は、絶対的な身分差・権力差を背景にしたセクハラそのもので、2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」の道長と紫式部まひろの「仲良し」「甘い恋人」ラブストーリー設定は明確に否定されると思いました。


 ただ同時に、道長は紫式部の才能を誰よりも理解していたのも事実だと思います。


 二人の関係が「警戒し、牽制し合いながらも、互いの才能と権力・財力を利用し合う、緊張感のあるビジネスパートナー」だった点、そして道長の強迫的なアプローチに対して、紫式部がただ泣き寝入りするのではなく、「和歌という雅な武器」を使って見事に撃退している点が文学的にも歴史的にも面白い部分なのかなと思いました。

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