五十八 美文字マウント、読みやすさに敗北
達筆な女房が、字の下手な女房を笑う。彰子は美しいが読みにくい字と、地味だが正確で読みやすい字を並べ、用途別に評価する。恋文なら美、記録なら可読性。「読めない文字は、相手に解読労働を押しつける自己陶酔です」と言う彰子に、場面に応じた価値を示され、美文字女房は押し黙る。
字は、人を映します。
そう言うと、いかにも雅です。筆の運び。墨の濃淡。行の流れ。余白の取り方。紙との相性。香との釣り合い。
この時代、字はただ情報を伝える道具ではありません。
その人の教養であり、育ちであり、情趣であり、時には恋の武器です。文を受け取った相手は、まず紙を見る。次に香を見る。そして、字を見る。文字の姿だけで、送り主の気配を感じる。
たしかに、美しい字は強い。前世でも、手書きの綺麗な人はそれだけで少し得をしていました。メモが整っている。封筒の宛名が美しい。手紙の文字に品がある。それだけで、きちんとした人に見えます。
逆に、字があまりにも読みにくいと、それだけで相手の心が少し遠ざかることもあります。
だから、美文字は大切です。大切なのですが。美しければ何でもよい、というものではありません。
特に、記録に関しては。読めなければ意味がないのです。どれほど流麗でも、どれほど気取っていても、後から読めない文字は困ります。
前世の職場にもいました。本人だけが読める走り書きで議事録を取り、後から誰にも解読できない人。「雰囲気で分かるでしょう」と言う人。
分かりません。分かるわけがありません。雰囲気で契約条件は確認できませんし、雰囲気で納期も守れません。文字は、相手に読まれて初めて働きます。それを忘れると、美文字はただの自己陶酔になります。
その日、藤壺で起きたのは、字をめぐる小さな、しかし放置すると根の深くなる問題でした。
発端は、有子です。有子は、藤壺の控えや清書をよく担当している女房です。派手ではありません。歌で人を驚かせるわけでも、場を沸かせるわけでもない。けれど、字が丁寧です。
特別に華やかな筆跡ではありません。細く、整い、誤字が少なく、行の間が読みやすい。後から見返す時に、とても助かる字です。私は有子の字を、かなり信頼しています。ところが、その有子が、昼下がりに少し沈んだ顔をしていました。
手元の紙を何度も見直し、筆を置いたり取ったりしています。
「有子」
私が声をかけると、有子ははっと顔を上げました。
「はい」
「何かありましたか」
「いえ、その……」
有子は言い淀みました。常盤が、少し離れたところで目を細めています。これは、知っている顔です。
「常盤」
「流しておりません」
「まだ聞いてもいません」
「先に誓いました」
「では、何があったの」
常盤は少しだけ有子を見てから、声を低くしました。
「先ほど、廊の端で、他御殿の女房が有子の字を笑っておりました」
場の空気が、少し変わりました。春枝が紙箱を抱える手を止めます。若菜は香炉の灰を均す指を止めました。赤染衛門が、眉をひそめます。
「どのように」
「『真面目で読みやすいばかりで、色気がない』と。『帳面の字のよう』『恋文を書いても相手は眠るでしょう』とも」
有子の顔が赤くなり、すぐに青くなりました。
「私は……恋文を書くわけではございませんし」
「そこではありません」
小少将が静かに言いました。
「人の字を用途も見ずに笑うのは、見識が浅いです」
さすがです。衣でも字でも、用途を見る人は強い。常盤はさらに続けました。
「その女房は、ご自分の字がたいそう達筆であることを誇っておりまして。文の端に一筆流すだけで殿方が見惚れるとか」
菅原の君が少し首を傾げました。
「それは、それですごいことでは?」
「すごいです」
私は言いました。
「字が美しいこと自体は、立派な才です」
有子が少し俯きました。
「ですが、私の字は……」
「有子の字も才です」
私は即答しました。有子が驚いた顔をします。
「え?」
「読みやすい字は、才です」
赤染衛門も頷きました。
「控えに向いております。後から確認する時、有子の字は迷いが少ない」
「そうです」
私は言いました。
「ただし、言葉だけで慰めても足りませんね」
常盤の目が光りました。
「何か、なさいますか」
「比較します」
「比較」
私は扇を開きました。
「美しいが読みにくい字と、地味だが正確で読みやすい字を並べます」
赤染衛門が、少しだけ笑いました。
「それぞれの字の、真の用ゐどころを、お示しになるのでございますね」
「はい」
「姫様らしいです」
褒められているのでしょうか。たぶん褒められています。
その夕刻、件の達筆な女房――ここでは名を伏せます――が、藤壺へやって来ました。
招いたわけではありません。ですが、常盤が「有子の字の件で、中宮様が筆跡を見たいとおっしゃっている」と、非常に巧みに、しかし嘘ではない形で伝えたようです。
「流しておりません。お誘いです」
「常盤」
「出所は私です」
「最近、その言い方を気に入っていますね」
「はい」
達筆な女房は、たいへん自信ありげでした。衣も美しく、袖の動きも優雅。手には、細い筆。いかにも「私の字を見なさい」という空気です。
「中宮様が、私の筆跡をご覧になりたいと伺いまして」
「はい。ぜひ」
私は穏やかに答えました。
「ちょうど、字の用途について話していたところです」
「用途?」
達筆な女房は、少し不思議そうにしました。おそらく、字は美しいか美しくないかだけで評価するものだと思っているのでしょう。春枝が紙を用意しました。
「恋文向きの紙と、記録向きの紙を」
「二種類?」
「はい」
春枝は嬉しそうです。紙の用途を語れる機会ですからね。
「こちらは薄く香を含みやすい紙。恋文に向いております。こちらはやや厚く、墨が滲みにくく、後から読み返す記録に向いております」
達筆な女房は少し鼻で笑いました。
「記録の紙ですか。ずいぶん実務的ですこと」
「実務は大事です」
赤染衛門が静かに言いました。その声には、胃痛を越えて磨かれた重みがあります。まず、達筆な女房に一文を書いてもらいました。題は、恋文の冒頭。
――月の光に袖濡れて、君を思ふ夜の長さよ。
達筆な女房は、実に美しく書きました。流れるような線。余白の取り方もよい。墨の濃淡も、わざとらしすぎず、情緒がある。菅原の君が、素直に息を漏らしました。
「美しゅうございます」
小少将も頷きました。
「恋文なら、確かに心を惹きますね。袖の流れと筆の流れが合っています」
達筆な女房は、満足そうに微笑みました。
「ありがとうございます」
次に、有子に同じ文を書いてもらいました。有子は緊張しながら筆を取りました。字は整っています。読みやすい。けれど、恋文として見ると、確かに少し固い。
「有子の字は、恋文としては真面目すぎますね」
私が言うと、有子は小さく頷きました。
「はい」
達筆な女房の口元が、少し上がりました。しかし、ここで終わりません。次に、記録用の文を出しました。
――贈答一。薄萌黄金糸入反物一反。某殿より季節の挨拶として受領。受領日、七月十日。仮置き後、南御殿へ誤送。翌日確認のうえ返却。以後、管理札を付すこと。
達筆な女房が、少し眉をひそめました。
「ずいぶん堅い文ですわね」
「記録ですので」
私は答えました。
「これを書いてください」
彼女は少し不満げながらも、筆を取りました。そして、美しく書きました。とても美しく。
……読みにくく。
「贈答一」の一が、装飾的に伸びすぎて、数字なのか飾りなのか分からない。「薄萌黄」は流れすぎて、慣れない者には別の字に見える。「南御殿へ誤送」の部分など、墨のかすれが情緒的すぎて、誤送なのか御送なのか曖昧です。
小少将は黙っています。春枝は紙と墨の相性を見ています。赤染衛門は、目を細めました。
「これは、後で読む時に少し迷いますね」
達筆な女房の表情が変わりました。
「私の字が読みにくいと?」
「美しいです」
私は言いました。
「恋文ならたいへんよい」
「では」
「しかし、記録には向きません」
場が静かになりました。
「記録に必要なのは、情緒より正確さです」
私は続けました。
「品名、日付、数量、場所、経路。これらは、後から誰が読んでも同じように読めなければ困ります」
有子が、緊張した顔で同じ文を書きました。筆は華やかではありません。しかし、日付が分かる。数量が分かる。場所が分かる。どこで誤送が起きたか、誰が見ても読める。赤染衛門が頷きました。
「こちらは、記録として優れております」
春枝も言いました。
「紙の余白も適切です。後から追記できます」
若菜が静かに付け加えました。
「灰の記録にも、この字は向いています。香の名を読み違えにくいです」
澄子も言いました。
「灯の位置や時刻を書くなら、有子の字がよろしいです」
有子の目が、少し潤みました。達筆な女房は、明らかに面白くなさそうでした。
「ですが、字は美しくあるべきではございませんか」
「その通りです」
私は言いました。
「ただし、美しさにも種類があります」
「種類?」
「恋文の美しさ。歌の美しさ。公的な文の美しさ。記録の美しさ。帳の美しさ。読みやすいことは、記録における美しさです」
赤染衛門が、すかさず控えを取りました。
「読みやすいことは、記録における美しさ」
よい一文です。
「源氏物語にも、手習いや筆跡で人物の心や育ちが見える場面があります」
菅原の君が言いました。
「字は、その人そのもののように読まれます」
「そうです」
私はうなずきました。
「だからこそ、字は相手との関係で考えるべきです。恋文なら、相手に自分の気配を届ける。記録なら、相手に正確な情報を渡す」
「相手に……」
有子が呟きました。
「はい。字は、自分を見せるものでもありますが、相手に読んでもらうものでもあります」
私は達筆な女房を見ました。
「読めない文字は、相手に解読労働を押しつける自己陶酔です」
場が凍りました。赤染衛門が、目を閉じました。
「姫様」
「強かった?」
「たいへん強うございます」
「でも本当でしょう」
「本当ですが、強うございます」
達筆な女房の顔は、赤くなったり青くなったりしています。菅原の君は、半分震え、半分感動していました。常盤は「これは流したい」と顔に書いています。
「常盤」
「流しません」
「夢にも」
「流しません」
「毒舌として」
「流しません……」
残念そうです。でも、ここは締める必要があります。
「あなたの字は美しい」
私は達筆な女房に言いました。
「それは間違いありません。恋文や歌、贈答の添え文では大きな力になります」
彼女は少しだけ顔を上げました。
「けれど、その美しさで他人の字を笑うのは違います」
「……」
「有子の字は、あなたの字のように人をときめかせるものではないかもしれません。でも、人を助けます。後から読める。間違えにくい。揉め事を防ぐ。消えた反物を探す時にも、こういう字が人を救う」
有子は、涙をこらえていました。
「字の価値は一つではありません」
私は言いました。
「場面に応じて、求められるものが変わります」
小少将が続けました。
「衣と同じです。宴の衣で台所へ立てば邪魔ですし、作業着で宴へ出れば場に合いません。どちらが上というより、場に合うかどうかです」
春枝が頷きました。
「紙も同じです。恋文向きの紙で管理札を作れば破れます。管理札向きの紙で恋文を書けば、重すぎます」
若菜も言いました。
「香も。強い香がよい場もあれば、薄い香でなければ疲れる場もあります」
達筆な女房は、黙っていました。反論はありません。けれど、完全に納得した顔でもありません。それでいいのです。人は一度で変わりません。ただ、少なくとも有子を笑うことはできなくなったでしょう。
赤染衛門が筆を取り、心得をまとめました。
――筆跡心得。
一、字の美しさは一つではないこと。
一、恋文や歌には情趣ある字が力を持つこと。
一、記録や帳には正確で読みやすい字が力を持つこと。
一、用途を見ずに他人の字を笑わぬこと。
一、読みにくい字を書く時は、相手に解読の手間を負わせていると心得ること。
一、清書は美、控えは可読性を重んじること。
一、読みやすい字は、人を守る才であること。
最後の一文で、有子の肩が震えました。
「読みやすい字は、人を守る才……」
「そうです」
私は言いました。
「あなたの字で、助かったことが何度もあります。贈答品の記録では、日付と品名がはっきりしていて後から確認しやすい。帝の問いの控えでは、誰の意見かが見分けやすい。貸し借り心得の清書では、若い女房にも読み違えが少ない。これは、藤壺の仕組みを支えています」
有子は、とうとう涙をこぼしました。
「ありがとうございます」
達筆な女房は、その様子を見て、少し気まずそうに目を伏せました。
「私は……少し、言いすぎました」
「少し?」
常盤が小声で言いかけ、赤染衛門に止められました。達筆な女房は、有子へ向き直りました。
「あなたの字を笑ったこと、お詫びいたします」
有子は驚いたように顔を上げました。
「いえ……」
「ただ、恋文を書く時は、もう少し余白を遊ばせるとよいかもしれません」
言い方。少し上からですが、まあ、完全には性格は変わりません。小少将がすかさず入りました。
「それは助言として受け取れますね。代わりに、記録を書く時は、有子の字の行間を参考になさるとよいでしょう」
達筆な女房は一瞬固まりました。それから、しぶしぶ頷きました。
「……そういたします」
交換成立です。美文字と可読性の相互学習。よい落としどころです。
その後、藤壺では「用途別の筆跡練習」が始まりました。菅原の君は恋文風の筆に挑戦しましたが、情熱が入りすぎて文字が燃えそうでした。
「菅原の君、少し抑えて」
「恋文ですので」
「火鉢にしない」
「はい」
春枝は、管理札用の小さな文字を練習しました。
「小さい紙にも美しく、しかし読めるように」
「箱を増やす練習ではありませんよ」
「はい……」
若菜は、香の記録を書く時に、香名を読み違えない字を意識しました。澄子は、灯や風の位置を簡潔に書く練習をしました。常盤は、噂の出所記録を読みやすく書く練習をさせられました。
「私の字、そんなに乱れていますか」
赤染衛門が言いました。
「急いでいる時、出所より感情が先に走っています」
「字にも出ますか」
「出ます」
常盤は反省しました。紫式部は、几帳の陰で静かに眺めていました。
「式部は、どう思いますか?」
私が尋ねると、紫式部は少し考えました。
「読みにくい字は、秘密を持ちます」
「秘密」
「美しく読みにくい字は、読む者に近づく努力を求める。恋文なら、それが情になることもあります」
「なるほど」
「けれど、記録に秘密は不要です」
さすがです。
「記録に秘密は不要」
赤染衛門が書き留めました。よい言葉です。
その夜、文箱には「筆跡心得」が納められました。有子が清書した文字は、相変わらず派手ではありませんでした。けれど、誰が読んでも読める。行の間も整い、項目も見やすい。私はその紙を見て、改めて思いました。
これも美しい。
静かな美しさです。相手に負担をかけない美しさ。後から読む人を迷わせない美しさ。情報をまっすぐ届ける美しさ。
美文字は、悪くありません。むしろ素晴らしい。恋文において、字の美しさは心を震わせます。歌の紙面において、筆の流れは余韻を生みます。
けれど、記録には別の価値があります。読めること。間違えないこと。後から確認できること。誰かを責めすぎず、誰かを守れること。
読めない文字は、相手に解読の苦労を押しつけます。本人は気持ちよく筆を流していても、読む側は眉間にしわを寄せて戦っている。それでは、文字の役目を半分捨てています。恋文なら、解読も恋のうちかもしれません。
けれど、管理札や受領記録でそれをされると困ります。反物は迷子になります。帝の問いは誤解されます。赤染衛門の胃は、また歴史になります。それだけは避けなければなりません。
「有子」
私は声をかけました。
「はい」
「明日から、若い女房たちに記録用の字を教えてください」
有子は目を見開きました。
「私が、でございますか」
「はい。あなたの字は、記録の手本になります」
有子は、胸の前で手を重ねました。
「……務めます」
声は小さい。けれど、しっかりしていました。
美文字女房は、その後、有子を笑わなくなりました。時折、恋文向きの筆遣いを教えに来ることもあります。その代わり、記録の字は有子に見てもらう。
不思議なものです。マウントから始まった関係が、用途別の協力に変わることもある。もちろん、完全に仲良しになったわけではありません。達筆な女房は、まだ少し鼻が高い。有子も、完全に自信満々になったわけではない。
それでいいのです。人間関係は、急に美しく整うものではありません。読める程度に整えば、まずは十分です。
藤壺の灯は、その夜も静かに揺れていました。
美しい流麗な文字の上にも。
地味で正確な文字の上にも。
同じように光を落としながら。
〜 出典 〜
『源氏物語』筆跡評価
…宮の御手は、こまかにをかしげなれど、かどや後れたらむ」うちささめきて聞こえたまふ。「故入道宮の御手は、いとけしき深うなまめきたる筋はありしかど、弱きところありて、にほひぞすくなかりし。院の尚侍こそ、今の世の上手におはすれど、あまりそぼれて癖ぞ添ひためる。…
(訳文)…中宮様の御筆跡は、細やかで趣深くはあるが、才気(鋭さ)は少ないだろうか」と、ひそひそと申し上げなさる。「故入道宮の御筆跡は、たいそう深みもあり優美な手の筋はおありだったが、弱々しい点があって、華やかさが少なかった。院の尚侍(冷泉院の尚侍)こそが、今の世の達人でいらっしゃるが、あまりに(趣向を)凝りすぎていて、癖が付いてしまっているようだ。」
※「草子選び(筆跡調べ)」と呼ばれる源氏物語ヲタク界隈で非常に有名なシーンらしいです。娘の嫁入り道具として最高級の「草子(手本となる書物)」を持たせるため、光源氏が秋好中宮や紫の上といった身内の女性たちに和歌を書かせ、集まった書を眺めながらそれぞれの筆跡の個性や美しさを論評しています。
〜 舞台背景 〜
「梅枝」(うめがえ)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第32帖。巻名は宴の席で弁少将(内大臣の次男、後の紅梅大納言)が歌った催馬楽に因む。光源氏39歳の春の話。東宮の元服に合わせ、源氏も明石の姫君の裳着の支度を急いでいた。源氏は女君たちに薫物の調合を依頼し、自分も寝殿の奥に引きこもって秘伝の香を調合する。雨の少し降った2月10日、蛍兵部卿宮を迎えて薫物合わせの判者をさせる。どの薫物も皆それぞれに素晴らしく、さすがの蛍宮も優劣を定めかねるほどだった。晩になって管弦が催され、美声の弁少将が「梅枝」を歌った。出典:wikipedia




