五十七 贈り物に GPS はないのでタグを付ける
高価な反物が行方不明になる。女房たちは盗難だと騒ぐが、彰子は管理札と受領記録を導入する。雅ではないと反発されるが、後に別の御殿へ誤送されていたことが判明。誰も傷つけず問題が解決する。彰子は「人を疑わないために、物を管理するのです」と説明する。
物は、勝手に歩きません。
少なくとも、普通は。反物が夜中に自分で箱から抜け出し、廊を渡り、別の御殿へ出奔する。そんなことはありません。
……ありませんよね?
平安の宮中は、時々、物語より物語めいたことが起こるので、完全には言い切れないのが怖いところです。
けれど、たいていの場合、物が消える理由は決まっています。誰かが動かした。誰かが置き間違えた。誰かが受け取ったまま忘れた。誰かが別の荷と混ぜた。誰かが「後で記録しよう」と思って、後で記録しなかった。
前世でもそうでした。
備品がなくなる。資料が見つからない。誰かが持っていったはずなのに、誰も覚えていない。倉庫には似たような箱が並び、ラベルは古く、台帳は更新されず、担当者は異動済み。そして最後に、誰かが言います。
「盗まれたんじゃないですか」
早い。疑うのが早い。
いえ、盗難の可能性を考えることは大事です。高価な物ならなおさら。けれど、記録も管理も曖昧なまま、いきなり人を疑うと、場が壊れます。
「あの人が怪しい」
「最近、あの女房が近くにいた」
「下働きの者では」
「他御殿の者が紛れたのでは」
こうなると、物が見つかっても、疑われた傷は残ります。袖口の香染みより厄介です。だから、私は思うのです。人を疑わないために、物を管理する。これは冷たいことではありません。むしろ、人間関係を守るための、たいへん優しい技術です。
その日、藤壺に届いたのは、たいへん美しい反物でした。薄い萌黄に、光の加減で金糸がほのかに浮く。派手すぎない。けれど、見る人が見れば高価だと分かる。
父・道長からの支援の一環ではありません。別の筋から、季節の挨拶として届けられたものです。小少将が反物を広げ、静かに目を細めました。
「これは、よいものです」
小少将がそう言う時は、本当に良いものです。春枝も、包み紙を見て頷いています。
「紙もよろしゅうございます。包み方も丁寧です」
若菜が香を確かめました。
「強すぎません。反物に移りすぎぬ程度です」
「どなたから?」
赤染衛門が尋ねます。有子が添え文を確認しました。
「某殿より、中宮様へ。季節の御挨拶として」
常盤が、少しだけ目を細めました。
「某殿……最近、父君様に近づこうとしている方ですね」
「常盤」
「流しません。ただ、出所確認です」
最近の常盤は、本当に出所確認という言葉を盾にします。まあ、間違ってはいません。贈り物には、紐がつくことがあります。ただ、この反物は、文面を見る限り、直接的な要求はありません。
季節の挨拶。
品も高価ではあるが、過剰すぎるほどではない。受け取ってもよい範囲でしょう。
「では、いったん保管し、返礼を整えましょう」
私が言うと、春枝が包み紙を丁寧に戻し、小少将が畳み方を確認しました。ここまでは、いつも通りです。
問題は、その翌日でした。反物が消えました。
「ございません!」
最初に声を上げたのは春枝です。いつも紙箱の前で落ち着いている春枝が、かなり青ざめています。
「昨日、こちらの棚に置きました。包み紙も、添え文も、仮置きの控えも」
「控えは?」
赤染衛門がすぐに尋ねました。
「添え文の写しはございます。ですが、受領後の移動記録はまだ」
「まだ」
赤染衛門の眉間に、深い影が落ちました。
「後で整えようと」
春枝の声が小さくなります。
「反物の状態を小少将様に見ていただいた後、紙の記録を作ろうと……」
「後で」
常盤が呟きました。
「物が消える時の、たいへん危険な言葉ですね」
「常盤、今は責めない」
「はい」
しかし、常盤の言うことは正しい。「後で記録する」は、たいてい記録しない。そして記録しない間に、物は動く。藤壺の女房たちは、一気にざわめきました。
「盗まれたのでは」
「高価な反物ですもの」
「昨日、廊に見慣れぬ下働きが」
「他御殿の者が出入りしていたとか」
「誰が最後に見たのです」
「春枝が」
「でも、小少将様も」
「包みを持っていたのは誰?」
空気が悪い方向へ転がり始めました。疑いの煙です。こういう煙は、香炉の煙よりずっと早く広がります。
春枝は顔を青くし、小少将は静かに眉を寄せ、若菜は香炉の灰を整える手を止めました。澄子は、すでに出入口の人の流れを思い出している顔です。赤染衛門は胃を押さえています。
「姫様」
常盤が言いました。
「調べますか」
「調べます」
私は扇を閉じました。
ぱちり。
「ただし、誰かを疑う前に、物の流れを確認します」
「物の流れ」
有子が筆を構えました。
「はい。昨日の反物が、いつ、どこで、誰の手を通ったか」
「聞き取りですね」
赤染衛門が言います。
「ただし、犯人探しの聞き取りではありません」
私は強調しました。
「物を探すためです」
この違いは大事です。同じ質問でも、目的が違えば相手の受け取り方が変わります。「あなたが盗ったのか」と聞くのではなく。
「最後にどこで見たか」
「誰へ渡したか」
「何と一緒に置いたか」
「似た包みはなかったか」
物を追う。人を責めるのではなく、物の足跡を見る。ただし、困ったことに反物には足がありません。そこで、私はうっかり呟きました。
「贈り物に GPS はないので、タグを付けるしかありませんね」
「じーぴー……?」
場が固まりました。しまった。また前世語です。
「ええと」
私は咳払いしました。
「遠くにある物の居場所が分かる仕組み、のようなものです」
「そのような術があるのですか」
菅原の君が目を輝かせました。
「術ではありません」
「陰陽道では?」
「違います」
「では、異国の」
「今はそこではありません」
赤染衛門が、冷静に筆を持ち直しました。
「つまり、物の居場所が分かる印を付ける、ということですね」
「そうです」
「タグとは?」
「札です」
「最初から札とおっしゃってください」
「はい」
ごもっともです。私は言い直しました。
「贈り物には管理札を付けます。今後、受け取った時点で、札と受領記録を作ります」
春枝が、紙箱を抱えたまま顔を上げました。
「管理札……」
「紙が必要ですね」
「必要でございます!」
嬉しそうです。ただし、今回は増やす理由があります。
「反物だけではありません。高価な贈答品、衣、装身具、香木、文箱。動く可能性があるものは、受け取った時点で札を付ける」
赤染衛門がすぐに項目を作ります。
一、受領日。
一、差出人。
一、受取人。
一、品名。
一、数量。
一、保管場所。
一、受け取った者。
一、次に渡した者。
一、返礼の有無。
一、備考。
「備考には、香や包み紙の特徴も」
春枝が言いました。
「よいです」
小少将も続けます。
「反物なら、色、織り、傷や染みの有無。畳み方も記しておくとよろしゅうございます」
「採用」
若菜が言いました。
「香が移っている場合は、どの香か。後で別の御殿の香と混じると分かりにくくなります」
「採用」
澄子が静かに言いました。
「誰がどの出入口を通したかも、必要な時だけ控えましょう」
「採用。ただし、全部の出入りを細かくしすぎない」
「はい」
常盤が少し不満そうに言いました。
「噂の経路図のように、物の経路図も作れますね」
「高価な物だけです」
「全て作ると」
「赤染衛門の胃が日記になります」
赤染衛門が深く頷きました。
「すでに数冊分です」
それは困ります。さて、今回の反物です。まず、昨日の動きを整理しました。有子が控えます。
昼過ぎ、反物が届く。春枝が包み紙を確認。有子が添え文を写す。小少将が反物を広げ、状態を見た。若菜が香を確認。春枝が再び包む。その後、いったん西側の棚へ仮置き。夕刻、別の御殿から届いた返礼用の品々が同じ部屋に運び込まれる。
その中に、似た大きさの包みがいくつかあった。
「ここですね」
赤染衛門が言いました。
「混ざった可能性があります」
「昨日、夕刻の品を運んだのは?」
「下働きの者が二人と、藤壺の若い女房が一人」
常盤が答えました。
「そのうち一人は、他御殿へ返す品を運んだそうです」
「どの御殿?」
「南の御殿です」
「似た包みは?」
「確認します」
澄子と常盤が動きました。もちろん、相手を疑う言い方ではありません。
「昨日の荷に、こちらの品が紛れた可能性があるので確認したい」
この言い方なら、角が立ちにくい。待つ間、女房たちはまだ落ち着きません。
「本当に誤送でしょうか」
「盗みでは」
「もし盗まれていたら」
「誰が」
私は、静かに言いました。
「今、誰かの名を出さない」
場が止まりました。
「証拠もないまま人の名を出せば、その名は残ります。後で物が見つかっても、疑われた記憶は消えません」
春枝が俯きました。
「私、先ほど、下働きの者ではと少し思ってしまいました」
「思うだけなら、まだ止められます」
私は言いました。
「口に出す前に、物の流れを見ましょう」
小少将が頷きました。
「人を疑う前に、反物の畳み目を疑うのですね」
「そうです」
「畳み目は嘘をつきにくいです」
「名言ですね」
「衣に関しては」
小少将らしいです。しばらくして、澄子と常盤が戻りました。常盤の顔が、報告したくてたまらない形になっています。
「姫様」
「見つかった?」
「はい!」
場に、ほっとした空気が広がりました。
「南の御殿へ誤って運ばれておりました。昨日の返礼品の包みと大きさが似ており、荷をまとめる時に一緒に」
春枝が、その場にへたり込みそうになりました。
「よかった……」
「反物の状態は?」
小少将が尋ねます。
「無事です。包みもそのまま。南の御殿の方々も、今朝まで気づいておられなかったようで」
「つまり、盗難ではなく誤送」
赤染衛門が確認しました。
「はい」
「誰も盗っていない」
「はい」
私は息を吐きました。よかった。本当に。物が見つかったこともですが、誰かを名指しして疑う前でよかった。
もし、あの場で「下働きの者が怪しい」「他御殿の者が盗んだ」と口にしていたら、今ごろどうなっていたでしょう。反物は戻っても、関係は裂けていたかもしれません。南の御殿との間にも、余計な棘が残ったでしょう。
「姫様」
春枝が、まだ青い顔で言いました。
「私の管理が甘うございました」
「甘かったです」
私は言いました。春枝は肩を落とします。
「でも、あなた一人の責任ではありません」
「え?」
「仕組みがなかったのです」
私は女房たちを見回しました。
「高価な品を受け取るのに、仮置き、移動、保管、返礼までの流れが曖昧でした。人の記憶に頼りすぎていた。だから、春枝が失敗したというより、失敗しやすい場だったのです」
赤染衛門が静かに頷きました。
「仕組みで防ぐべきことですね」
「はい」
「では、心得を作りましょう」
「作ります」
春枝が、今度は真剣な顔で紙を選びました。
「管理札用には、丈夫で小さく切れる紙が必要です」
「切る前提なら、端が裂けにくいものを」
小少将が言います。
「品に直接結ぶなら、紐も必要ですね」
澄子が続けました。
「札が外れないように、結び方も統一しましょう」
若菜が言いました。
「香の強い品と一緒に置くと札にも香が移ります。保管場所も分けた方が」
常盤が手を上げました。
「受領記録と札の番号を合わせると、追いやすいです」
「番号」
有子が筆を止めました。
「一番、二番、と?」
「はい。贈答品ごとに番号を付けます」
私は言いました。
「品名だけだと似た物が混ざります。番号があれば、札と記録を照合できます」
赤染衛門が少し遠い目をしました。
「姫様の前世語がなくても、かなり実務になっておりますね」
「よいことです」
「雅からは遠いですが」
「人を疑うより雅です」
その一言に、場が静かになりました。私は続けました。
「物を管理するのは、人を疑うためではありません」
女房たちがこちらを見ます。
「人を疑わないために、物を管理するのです」
春枝の目が、少し潤みました。
「管理していれば、誰かを疑わずに済むのですね」
「少なくとも、疑う前に確認できます」
「それは……大事です」
「ええ」
私は頷きました。
「高価な物が消えた時、人は不安になります。不安になると、弱い立場の人や外の人を疑いやすくなる。下働き、他御殿の者、新しく来た者。そういう人たちへ、疑いの目が向く」
澄子が静かに目を伏せました。
「疑われた側は、何もしていなくても傷つきます」
「はい」
「だから、札と記録で物の道を残す」
「そうです」
赤染衛門が題を書きました。
――贈答品管理心得。
一、高価な品を受け取った時は、すぐ管理札を付けること。
一、受領日、差出人、品名、数量、保管場所を記録すること。
一、品を移動する時は、渡した者と受け取った者を控えること。
一、仮置きのままにせず、仮置きにも札を付けること。
一、似た包みは一緒に置かぬこと。
一、紛失時は、まず物の流れを追い、人の名を出さぬこと。
一、人を疑わないために、物を管理すること。
有子が清書しながら、最後の一文をゆっくり書きました。
「人を疑わないために、物を管理する」
「はい」
人を疑わないために物を管理する。記録や管理は、冷たいものだと思われがちです。けれど本当は、感情を守るための器でもあります。
その後、戻ってきた反物には、最初の管理札が付けられました。番号は、贈答一。
春枝が少し嬉しそうに、しかし丁寧に札を結びます。
「贈答一……」
「名前を付けないでくださいね」
赤染衛門が言いました。春枝がぎくりとしました。
「付けようとしていましたか?」
「少し」
「何と?」
「萌黄様」
「だめです」
「はい……」
常盤が吹き出しました。
「反物に様」
「常盤、流さない」
「夢にも流しません」
南の御殿へは、丁寧に礼と確認の文を送りました。
「こちらの管理が行き届かず、誤って品が紛れたようでございます。気づいてお戻しいただき、感謝申し上げます」
責めない。相手を疑わない。こちらの仕組みを整える。すると南の御殿からも、穏やかな返事がありました。
「こちらも荷を確かめず失礼いたしました。今後は受け取りの際に確認いたします」と。
よい方向です。問題が、関係改善へ変わることもあるのです。もし盗難と騒いでいたら、こうはならなかったでしょう。数日後、管理札と受領記録は藤壺で本格運用され始めました。最初は、反発もありました。
「札など付けると、商家の荷のよう」
「雅ではありませんわ」
「贈り物に番号とは」
「品の風情が薄れます」
私は言いました。
「風情で行方不明は防げません」
赤染衛門が咳払いしました。
「もう少し柔らかく」
「では、品の心を守るためにも、行き先を明らかにいたしましょう」
「よろしゅうございます」
雅に変換されました。赤染衛門、さすがです。小少将も助けてくれました。
「札は、品を損なわぬ位置に付ければよいのです。美しい結び方を選べば、見苦しくはありません」
春枝が頷きました。
「紙も、控えめな色を選びます。品より目立たぬように」
若菜が言いました。
「香の強い札は避けます。品の香を邪魔しません」
こうして、管理札は少しずつ宮中仕様になっていきました。ただの札ではありません。品を傷めず、見苦しくなく、必要な情報が分かる札。実務と雅の折衷です。これなら受け入れられます。前世の管理表そのままでは、宮中では浮きます。でも、宮中の美意識に合わせて形を整えれば、仕組みは根づく。
赤染衛門が、しみじみと言いました。
「姫様の策は、最初は商家めいて見えても、整えれば宮中でも使えるのですね」
「衛門のおかげです」
「具体的に?」
「強すぎる実務を、相手が受け取れる言葉と形へ整えてくれるところが、いつも助かっています」
赤染衛門は、少し満足そうでした。
その夜、藤壺の文箱には「贈答品管理心得」が納められました。隣には、管理札の見本。
贈答一の反物は、今度こそ正しい棚に収まっています。札が小さく揺れています。まるで、私はここにいます、と静かに知らせているように。
贈り物に、見えない居場所確認の術はありません。ならば、札を付ける。記録を残す。誰の手から誰の手へ渡ったか、道を作る。それだけで、疑いの煙はかなり薄くなります。
物が迷子になることはあります。人は忘れます。荷は混ざります。似た包みは紛れます。だからこそ、仕組みが要る。人を責める前に、物の道をたどる仕組みが。
藤壺の灯は、その夜も静かに揺れていました。反物の金糸が、ほんの少し光を返します。札は小さく、目立ちません。
けれど、その小さな札が、誰かを盗人にしないで済ませました。誰かの名を傷つけずに済ませた。南の御殿との関係も、春枝の心も、下働きの者たちの立場も守った。
管理とは、冷たいものではありません。雑に扱えば、人を縛る鎖になります。けれど、正しく使えば、人を疑いから守る結び目になります。
私は、贈答一の札を見ながら、心の中でそっと呟きました。贈り物に、勝手に居場所を知らせる術はない。だから、札を付けるのです。
人を疑わないために。物の道を、紙の上に残すのです。
〜 出典 〜
『源氏物語』絵合 平安贈答文化
…えならぬ御よそひども、御櫛の筥、打乱の筥、香壺の筥ども、世の常ならず、くさぐさの御薫物ども、薫衣香、またなきさまに、百歩の外を多く過ぎ匂ふまで、心ことに調へさせ給へり。…
(訳文)…何とも言えないほど素晴らしい装束の数々、櫛の箱、化粧道具の箱、香を入れる箱など、世間の並大抵のものではなく、種々の薫物や薫衣香など、他に類を見ないほど(素晴らしい匂いで)、百歩も離れた遠くからでも匂ってくるほど、格別に調合させなさった。…
※ 作中では彰子があっさりと『タグ(管理札)』をつけてしまいますが、当時のトップ層の贈答品は、箱の材質から香りの調合に至るまで、狂気的なほどの美意識が詰め込まれた『総合芸術』でした。そんな「恐れ多さ」が本話のオチです。(のつもりですw)
〜 舞台背景 〜
「絵合」(えあわせ)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第17帖。準拠として、天徳内裏歌合が古来指摘されている。光源氏31歳春の話。内大臣光源氏の後見のもと、斎宮は入内して梅壺に入り女御となった。若い冷泉帝は始め年上の斎宮女御になじめなかったが、絵画という共通の趣味をきっかけに寵愛を増す。先に娘を弘徽殿女御として入内させていた権中納言(頭中将)はこれを知り、負けじと豪華な絵を集めて帝の気を引こうと躍起になった。出典:Wikipedia




