五十四 赤染衛門、胃痛担当になる
彰子の「合理策」が次々と当たり藤壺が潤う一方で、周囲との軋轢やクレーム処理を一人で背負わされていた赤染衛門。ついに「私の胃が栄花物語(歴史)になります」と胃痛を訴える彼女に対し、彰子は感謝とともに「女房長補佐」の役職を与え、業務の細分化を図る。才女たちが集う華やかな宮中で、才能がぶつかり合わないよう先回りして火加減を調整する「中間管理職」の苦労と重要性が描かれる。
人を動かす策というものは、当たると嬉しい。けれど、当たりすぎると怖い。
これは、前世でもそうでした。新しい仕組みを入れる。会議の進め方を変える。記録を残すようにする。属人化していた仕事を見える化する。曖昧だった責任範囲を整理する。
最初は皆、半信半疑です。
「そんな堅いことを」
「今までこれでやってきたのに」
「空気で分かるでしょう」
「書面に残すなんて、信頼していないみたい」
そう言われます。けれど、いざ問題が起きた時、その仕組みが人を守ります。
記録があるから揉めない。役割が決まっているから慌てない。事前に条件を確認していたから、誰かが責められすぎずに済む。そうなると、周囲は少しずつ認め始めます。
「意外と役に立つ」
「次もこれで」
「こちらにも導入を」
ここまではよい。問題は、その次です。仕組みが当たり始めると、必ず反発も増えます。今まで曖昧さで得をしていた人。その場の空気で押し切っていた人。声の大きさで勝っていた人。記録がないことを利用していた人。身分や古い慣習を盾にしていた人。
そういう人たちにとって、合理策は光です。そして光は、埃も照らします。照らされた埃は、怒ります。
「堅苦しい」
「雅がない」
「中宮様は理屈ばかり」
「女房たちを締めつけている」
「藤壺は新参のくせに出過ぎている」
ええ、分かります。当たる策は、敵も作る。私はそれを、前世で嫌というほど学びました。そして今、藤壺では、まさにその段階に入っていました。
心得。心得。心得。最初は、藤壺の内々で作った小さな紙の束でした。けれど、困りごとが起きるたびに役立ち、女房たちは少しずつそれを頼るようになりました。
「これは心得に照らすと」
「前に姫様が」
「赤染衛門様、これも記録に」
「春枝、この紙で控えを」
「澄子、誰にも騒がせず確認を」
「常盤、流す前に出所を」
よい流れです。たいへんよい流れです。ただし。一人だけ、日に日に顔色が悪くなっている人がいました。
赤染衛門です。その日の朝も、赤染衛門は文台の前に座りながら、眉間を押さえていました。
「衛門」
私が声をかけると、彼女は静かに顔を上げました。
「はい、姫様」
「顔色が、生成りの紙みたいです」
春枝が即座に反応しました。
「生成りにも種類がございます。今日の衛門様は、少し水を吸いすぎた生成りで」
「春枝」
「はい」
赤染衛門は小さく息を吐きました。
「お気遣いなく。ただ、少し考えることが多く」
「少し?」
常盤が首を傾げました。
「昨夜も、定子方に近い女房との言葉の行き違いを調整し、今朝は貸し借り心得を他御殿へ写すかどうかの相談を受け、その前には公卿様の歌への返答文を整え、さらに」
「常盤」
赤染衛門が低く呼びました。
「はい」
「なぜ、そこまで知っているのです」
「噂ではなく観察です」
「同じことです」
「違います。出所が私です」
「余計に悪い」
常盤はしゅんとしました。でも、内容は事実のようです。赤染衛門は、ここ最近、ずっと走り回っていました。私が何か言う。心得ができる。女房たちが使う。他所にも噂が行く。反発が来る。その反発を、赤染衛門が受け止める。
言葉をやわらげる。角を削る。相手の面子を立てる。こちらの意図を説明する。記録の文面を整える。余計な一文を消す。私の前世語を雅な言葉へ直す。つまり、彼女は藤壺の胃です。いえ、そんなことを口にしたら怒られます。
でも、実際そうです。私が頭で考えた合理策を、現実の宮中で飲み込み、消化し、害の少ない形にして外へ出しているのが赤染衛門でした。
「姫様の策は、よく当たります」
赤染衛門が、ぽつりと言いました。
「それは、ありがたいことです」
「ですが」
来ました。
「当たりすぎる策は、敵を作ります」
場が静かになりました。若菜が香炉の灰を均す手を止めます。小少将も衣の袖を整えながら、赤染衛門を見ました。
「そうですね」
私はうなずきました。
「つまり、正しいことをした分だけ、恨みも買う」
赤染衛門は静かに言いました。
「その恨みは、姫様へ向くこともあれば、藤壺の女房たちへ向くこともございます」
その言葉は重かった。赤染衛門は、私の策を否定しているのではありません。むしろ、認めている。認めた上で、その影を見ています。これは、たいへん重要なことです。
「私は、嬉しいのです」
赤染衛門は珍しく、少し感情を滲ませました。
「姫様の御前で、女房たちが守られていく。泣く者が減り、しがらみの紐に絡め取られる者が減り、無理な社交を求められる者が役を得る。これは、本当に嬉しい」
「衛門……」
「ですが、同時に胃が痛いのです」
常盤が小さく吹き出しかけました。赤染衛門が見ました。常盤は即座に姿勢を正しました。
「申し訳ございません」
赤染衛門は額を押さえました。
「このままでは、私の胃が栄花物語になります」
沈黙。そして。
「……胃が?」
菅原の君が恐る恐る聞きました。
「栄花物語に?」
春枝が首を傾げます。
「長く残るということでしょうか」
「それとも、後世に語り継がれるほど波乱に満ちるという意味では」
有子が真面目に考え始めました。赤染衛門は、疲れた顔で言いました。
「どちらでも構いません。とにかく、私の胃が歴史になりそうなのです」
これは、かなり重症です。紫式部が几帳の陰で、ふっと小さく息を漏らしました。笑いましたね。今、笑いましたね。赤染衛門がそちらを見ます。紫式部は何事もなかったように筆を動かしています。
「式部様、笑いましたか」
「記録しておりました」
「何を」
「赤染衛門殿の胃が歴史になる瞬間を」
「やめてください」
珍しく赤染衛門が即座に返しました。場に、少し笑いが戻りました。けれど、笑って済ませてはいけない問題です。私は扇を膝に置きました。
「衛門」
「はい」
「あなたの言う通りです。策は当たれば終わりではありません。広がる時の調整が要る」
赤染衛門は静かに私を見ました。
「私は、つい仕組みを作るところまでを考えます。けれど、その仕組みを場に馴染ませるには、言葉を整え、相手の面子を見て、反発の逃げ道を作り、女房たちの疲れを拾う人が必要です」
「……はい」
「それを、あなたがしてくれている」
赤染衛門は目を伏せました。
「古参ゆえ、多少は」
「多少ではありません」
私は言いました。
「藤壺が今、ただの理屈屋の集まりにならずに済んでいるのは、赤染衛門がいるからです」
場が静かになりました。常盤も、今度は茶化しません。春枝は紙箱を抱えたまま、じっと赤染衛門を見ています。若菜は香炉の前で背筋を伸ばし、小少将は穏やかに微笑みました。
「ですので、正式に役を置きます」
赤染衛門が顔を上げました。
「役、でございますか」
「はい」
私は少し考えました。前世語なら、運営責任者補佐。現場調整役。リスクコミュニケーション担当。
ええ、絶対に却下されます。
「女房長補佐」
赤染衛門の眉が動きました。
「補佐」
「はい。藤壺の心得や仕組みを運用する際、女房たちの相談を受け、文面を整え、他御殿との調整を行う役です」
「それは、今と何が違うのでしょうか」
「今までは、勝手にあなたへ集まっていました」
私は言いました。
「これからは、役として認めます」
赤染衛門は黙りました。
「仕事が増えるのでは?」
常盤が小声で言います。赤染衛門がやや怖い顔で常盤を見ました。
「増えるなら、困ります」
「増やしません」
私は言いました。
「むしろ、減らすために役を明確にします」
「減らすため?」
「はい。赤染衛門が全部飲み込むのではなく、どの相談を誰へ回すか決めます」
私は指を折りました。
「噂の出所確認は常盤。ただし、赤染衛門の許可なく広げない」
常盤がぱっと顔を上げました。
「役をいただけるのですか」
「管理付きです」
「はい……」
「紙と文書の保管は春枝。ただし、箱を増やす時は許可制」
春枝が少し沈みました。
「許可制……」
「紙を守るためです」
「それなら、納得いたします」
「香や場の空気は若菜と澄子。宴や語りの場の設計は小少将。記録と清書は有子。人物観察は紫式部」
紫式部が几帳の陰で、筆を止めました。
「私も入るのですね」
「入ります」
「承知いたしました。ただし、休息日も」
「もちろん」
赤染衛門が、少し驚いたように私を見ました。
「つまり、私がすべてを抱えるのではなく、受け口を分けると」
「そうです」
「私は、その流れを整える」
「はい」
「……それなら、胃が少し物語から短歌程度になります」
「短歌でも痛いのですね」
「痛いものは痛いです」
正直です。でも、顔色は少し戻りました。赤染衛門には、役が必要でした。そして、周囲にも必要でした。
今まで彼女がしていた調整は、あまりにも見えにくかった。場が荒れないよう、先回りして言葉を削る。相手が怒らないよう、文の順を変える。私の言葉が強すぎる時、雅な表現に直す。
常盤の噂が走り出す前に袖を掴む。春枝の紙箱が増えすぎる前に止める。菅原の君が悲劇に酔い始めたら咳払いをする。紫式部が言いすぎた時、沈黙で場を戻す。
これらは、目立ちません。でも、現場を回すとは、そういうことです。才女たちがいるだけでは、場は回りません。才は尖ります。
尖った才が集まると、面白いものも生まれますが、同時に刺さります。その尖りを、互いに折らず、しかし人を傷つけすぎないよう向きを整える人がいる。それが赤染衛門でした。私は言いました。
「衛門は、ただの古参ではありません」
赤染衛門が少し身を固くします。
「あなたは、場の交通整理をしています」
「こうつう……?」
「人と人の行き来を整える、という意味です」
「なるほど」
「誰の言葉をどこへ通し、どこで止め、どこで言い換えるか。それを見ている。これは、才です」
赤染衛門は目を伏せました。
「私は、紫式部様のような物語も、清少納言様のような随筆も、菅原の君のような熱も持ちませぬ」
菅原の君が慌てました。
「私の熱は、時々火鉢になりますので」
「それはそうです」
赤染衛門が即答しました。菅原の君はしゅんとしました。
「でも、衛門」
私は続けました。
「物語を書く人、歌を詠む人、紙を選ぶ人、香を整える人、噂を拾う人、場を見る人。その全員を一つの藤壺として動かす人も必要です」
私は少し笑いました。
「全員が才を振り回したら、誰が後始末をするのです?」
常盤が小声で言いました。
「また毒舌が」
「実務です」
赤染衛門が、今度は少し笑いました。本当に、少しだけ。けれど、確かに笑いました。
「では、私は後始末担当でございますか」
「いいえ」
私は首を振りました。
「未然防止担当です」
「また新しい言葉が」
「問題が起きる前に、場を整える役です」
赤染衛門はしばらく考え、それから静かに頭を下げました。
「お受けいたします」
場に、ほっとした空気が広がりました。すぐに、春枝が紙を取り出しました。
「任命の文を作りましょう」
「紙を増やす口実にしない」
「必要な文でございます」
「一枚だけ」
「……承知いたしました」
赤染衛門が文台の前に座ろうとしました。私は止めました。
「今日は、あなたが書かなくてよいです」
「ですが」
「任命される本人が文面を整えるのは、変です」
「それは……確かに」
「有子、お願い」
有子が少し緊張しながら筆を取りました。
「はい」
私は文言を整えました。
――藤壺における諸心得の運用、女房間の相談、他御殿との言葉の調整につき、赤染衛門をその補佐役とする。諸事を一身に抱えず、各々の役へ分け、場を穏やかに保つことを第一とする。
赤染衛門が聞いて、すぐに言いました。
「『一身に抱えず』は、ぜひ残してください」
「もちろん」
「あと、『場を穏やかに』も」
「残します」
「『姫様の前世語を雅に直す』は」
「書きません」
「ですが重要です」
「書きません」
常盤が笑いを堪えました。紫式部が几帳の陰で筆を動かす音がします。
「式部、今のは記録しなくていいです」
「必要な観察です」
「必要ではありません」
「後世のために」
「後世に残さないで」本当に油断ならない。
その後、藤壺では役割分担が改めて整理されました。常盤は、噂を拾う時に必ず出所を三段階で記すこと。直接聞いたか、人づてか、さらに遠いか。赤染衛門の確認があるまで、外へ流さないこと。
常盤は不満そうでしたが、「情報取扱役」と呼ばれると少し機嫌が直りました。春枝は、文書保管と紙の選定。ただし、紙箱の増設は申請制。
「申請書も紙で」
「増やさない」
「はい……」
若菜と澄子は、場の空気と香、灯、風。小少将は衣と座の配置。有子は控えと清書。菅原の君は、物語会の題の管理。ただし、悲恋や炎上を焚きつけそうな題は赤染衛門へ相談。菅原の君は真剣に頷きました。
「自分の火鉢を自覚いたします」
「よろしい」
紫式部は、人物観察と記録。ただし、休息日あり。
「休息日を明記してください」
「はい」
紫式部はそこだけ強く主張しました。そして赤染衛門は、それらを束ねる調整役。誰かが抱え込みすぎていないかを見る。私の策が強すぎる時、柔らかくする。外からの反発が来た時、正面衝突にならない文面を作る。
必要なら、私にも苦言を呈する。
「苦言も役に含むのですか」
赤染衛門が尋ねました。
「含みます」
「では、遠慮なく」
「少しは遠慮して」
「必要に応じて」
怖い。でも、必要です。上にいる者ほど、耳の痛いことを言ってくれる人を近くに置かなければなりません。褒め言葉だけ聞いていると、国が傾きます。藤壺くらいなら、御殿が傾くでしょう。困ります。
その夕刻、赤染衛門は少し落ち着いた顔で文台を片づけていました。私は声をかけました。
「胃は?」
「まだ痛いです」
「正直ね」
「ですが、少し痛みの種類が変わりました」
「どう変わったの?」
「正体不明の痛みから、役としての痛みへ」
「それは良いこと?」
赤染衛門は少し考えました。
「まだ、分かりません。ただ、私だけが勝手に痛んでいるのではないと分かった分、ましです」
私はうなずきました。見えない負担は、人を疲れさせます。名前のない仕事。誰も気づかない調整。当然のように降ってくる相談。失敗した時だけ責められ、成功しても何も言われない後始末。そういうものは、人を静かにすり減らします。
だから、名前をつけます。役にする。分ける。評価する。それは、とても大事です。
「衛門」
「はい」
「いつも、ありがとう」
赤染衛門は、ほんの一瞬だけ目を見開きました。そして、静かに頭を下げました。
「もったいないお言葉でございます」
「具体的に言うと」
私は続けました。
「私の言葉が強すぎる時に止めてくれること。女房たちの相談を、感情ごと整理してくれること。外への文面から余計な棘を抜いてくれること。常盤を止めること。春枝の紙箱を止めること。菅原の君の火鉢を管理すること。全部、助かっています」
赤染衛門は、少しだけ困った顔をしました。
「……効きますね、具体的な褒め言葉は」
「でしょう」
赤染衛門は目を伏せました。
「ありがとうございます」
その声は、いつもより少し柔らかかった。常盤が、遠くからそれを見て涙ぐみかけていました。
「常盤」
赤染衛門が呼びます。
「はい」
「今のことを美談として広げないように」
「夢にも流しません」
「ならよろしい」
本当に油断ならない。
その夜、藤壺の文箱には、新しい紙が納められました。
――役割分担心得。
一、良い策も、運用しなければ場に馴染まぬこと。
一、調整役の負担を、見えないままにせぬこと。
一、相談は一人に集めすぎず、役に分けること。
一、反発を恐れすぎず、しかし反発の逃げ道を作ること。
一、才ある者だけでなく、才を場に通す者を重んじること。
一、胃が歴史になる前に、仕事を分けること。
一、未然防止も、立派な成果と心得ること。
最後の一文に、赤染衛門は少し照れたような、諦めたような顔をしました。
「胃が歴史になる前に、は残すのですか」
「残します」
「姫様」
「教訓として有用です」
紫式部が几帳の陰で静かに言いました。
「後世にも伝わりやすい比喩です」
「式部様まで」
赤染衛門は深くため息をつきました。でも、そのため息は、朝のものより軽く聞こえました。
才女たちが集う場は、華やかです。紫式部の筆。菅原の君の物語熱。小少将の衣の目。若菜の灰。澄子の静けさ。春枝の紙。常盤の情報網。有子の控え。
それぞれが光ります。けれど、光るものが多いほど、影も濃くなる。その影を見て、場の温度を調整し、言葉の角を削り、仕事を分け、誰かが燃え尽きる前に止める人がいる。それが赤染衛門でした。
派手ではありません。物語の主人公にはなりにくい。でも、現場を回す人間がいなければ、どれほど優れた策も、ただの紙です。どれほど美しい理念も、女房たちの袖には届きません。
私は、火鉢の小さな赤を見つめました。燃えすぎず、消えず。ちょうどよく、部屋を温める火。赤染衛門の仕事は、その火加減に似ています。
藤壺の灯は、その夜も静かに揺れていました。
〜 出典 〜
『栄花物語』
【2021年(令和3年1月)第一回共通テスト 国語 第三問】
次の文章は、『栄花物語』の一節である。藤原長家(本文では「中納言殿」)の妻が亡くなり、親族らが亡骸をゆかりの寺(法住寺)に移す場面から始まっている。これを読んで、後の問い(問1~5)に答えよ。
大北の方も、この殿ばらも、またおしかへし臥しまろばせたまふ。これをだに悲しくゆゆしきことにいはでは、また何ごとをかはと見えたり。さて御車の後に、大納言殿、中納言殿、さるべき人々は歩ませたまふ。いへばおろかにて、((ア)えまねびやらず)。北の方の御車や、女房たちの車などひき続けたり。御供の人々など数知らず多かり。法住寺には、常の御渡りも似ぬ御車などのさまに、僧都の君、御目もくれて、え見たてまつりたまはず。さて御車かきおろして、つぎて人々おりぬ。
さてこの御忌のほどは、誰もそこにおはしますべきなりけり。山の方をながめやらせたまふにつけても、わざとならず色々にすこしうつろひたり。鹿の鳴く音に御目もさめて、今すこし心細さまさりたまふ。宮々よりも思し慰むべき御消息たびたびあれど、ただ今はただ夢を見たらんやうにのみ思されて過ぐしたまふ。月のいみじう明きにも、思し残させたまふことなし。内裏わたりの女房も、さまざま御消息聞こゆれども、よろしきほどは、((A)「今みづから」とばかり書かせたまふ)。進内侍と聞こゆる人、聞こえたり。
契りけん千代は涙の水底に枕ばかりや浮きて見ゆらん
中納言の御返し、
起き臥しの契りはたえて尽きせねば枕を浮くる涙なりけり
また東宮の若宮の御乳母の小弁、
(X)悲しさをかつは思ひも慰めよ誰もつひにはとまるべき世か
御返し、
(Y)慰むる方しなければ世の中の常なきことも知られざりけり
かやうに思しのたまはせても、いでや、もののおぼゆるにこそあめれ、まして月ごろ、年ごろにもならば、思ひ忘るるやうもやあらんと、われながら心憂く思さる。何ごとにもいかでかくと((イ)めやすくおはせしものを)、顔かたちよりはじめ、心ざま、手うち書き、絵などの心に入り、さいつころまで御心に入りて、うつ伏しうつ伏して描きたまひしものを、この夏の絵を、枇杷殿にもてまゐりたりしかば、いみじう興じめでさせたまひて、納めたまひし、((B)よくぞもてまゐりにけるなど、思し残すことなきままに、よろづにつけて恋しくのみ思ひ出できこえさせたまふ)。年ごろ書き集めさせたまひける絵物語など、みな焼けにし後、去年、今年のほどにし集めさせたまへるもいみじう多かりし。((ウ)里に出でなば)、とり出でつつ見て慰めむと思されけり。
問1 傍線部 (ア)~(ウ)の解釈として最も適当なものを、次の各群の①~⑤のうちから、それぞれ一つずつ選べ。解答番号は 22 ~ 24 。
(ア) えまねびやらず [22]
① 信じてあげることができない
② かつて経験したことがない
③ とても真似のしようがない
④ 表現しつくすことはできない
⑤ 決して忘れることはできない
(イ) めやすくおはせしものを [23]
① すばらしい人柄だったのになあ
② すこやかに過ごしていらしたのになあ
③ 感じのよい人でいらっしゃったのになあ
④ 見た目のすぐれた人であったのになあ
⑤ 上手におできになったのになあ
(ウ) 里に出でなば [24]
① 自邸に戻ったときには
② 旧都に引っ越した日には
③ 山里に隠棲するつもりなので
④ 妻の実家から立ち去るので
⑤ 故郷に帰るとすぐに
問2 傍線部A「『今みづから』とばかり書かせたまふ」とあるが、長家がそのような対応をしたのはなぜか。その理由の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は 25 。
① 並一通りの関わりしかない人からのおくやみの手紙に対してまで、丁寧な返事をする心の余裕がなかったから。
② 妻と仲のよかった女房たちには、この悲しみが自然と薄れるまでは返事を待ってほしいと伝えたかったから。
③ 心のこもったおくやみの手紙に対しては、表現を十分練って返事をする必要があり、少し待ってほしかったから。
④ 弔問客の対応で忙しかったが、いくらか時間ができた時には、ほんの一言ならば返事を書くことができたから。
⑤ 大切な相手からのおくやみの手紙に対しては、すぐに自らお礼の挨拶にうかがわなければならないと考えたから。
問3 傍線部B「よくぞもてまゐりけるなど、思ひ残すことなきままに、よろづにつけて恋しくのみ思ひ出できこえさせたまふ」の語句や表現に関する説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は 26 。
① 「よくぞ……ける」は、妻の描いた絵を枇杷殿へ献上していたことを振り返って、そうしておいてよかったと、長家がしみじみと感じていることを表している。
② 「思ひ残すことなき」は、妻とともに過ごした日々に後悔はないという長家の気持ちを表している。
③ 「ままに」は「それでもやはり」という意味で、長家が妻の死を受け入れたつもりでも、なお悲しみを払拭することができずに苦悩していることを表している。
④ 「よろづにつけて」は、妻の描いた絵物語のすべてが焼失してしまったことに対する長家の悲しみを強調している。
⑤ 「思ひ出できこえさせたまふ」の「させ」は使役の意味で、ともに亡き妻のことを懐かしんでほしいと、長家が枇杷殿に強く訴えていることを表している。
問4 この文章の登場人物についての説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は 27 。
① 親族たちが悲しみのあまりに取り乱している中で、「大北の方」だけは冷静さを保って人々に指示を与えていた。
② 「僧都の君」は涙があふれて長家の妻の亡骸を直視できないほどであったが、気丈に振る舞い亡骸を車から降ろした。
③ 長家は秋の終わりの寂しい風景を目にするたびに、妻を亡くしたことが夢であってくれればよいと思っていた。
④ 「進内侍」は長家の妻が亡くなったことを深く悲しみ、自分も枕が浮くほど涙を流していると嘆く歌を贈った。
⑤ 長家の亡き妻は容貌もすばらしく、字が上手なことに加え、絵にもたいそう関心が深く生前は熱心に描いていた。
問5 次に示す【文章】を読み、その内容を踏まえて、X・Y・Z の三首の和歌についての説明として適当なものを、後の①~⑥のうちから二つ選べ。ただし、解答の順序は問わない。解答番号は 28 ・ 29 。
【文章】
『栄花物語』の和歌Xと同じ歌は、『千載和歌集』にも記されている。妻を失って悲しむ長家のもとへ届けられたという状況も同一である。しかし、『千載和歌集』では、それに対する長家の返歌は、
Z 誰もみなとまるべきにはあらねども後るるほどはなほぞ悲しき
となっており、同じ和歌Xに対する返歌の表現や内容が、『千載和歌集』の和歌Zと『栄花物語』の和歌Yとでは異なる。
『栄花物語』では、和歌X・Yのやりとりを経て、長家が内省を深めてゆく様子が描かれている。
① 和歌Xは、妻を失った長家の悲しみを深くは理解していない、ありきたりなおくやみの歌であり、「悲しみをきっぱり忘れなさい」と安易に言ってしまっている部分に、その誠意のなさが露呈してしまっている。
② 和歌Xが、世の中は無常で誰しも永遠に生きることはできないということを詠んでいるのに対して、和歌Zはその内容をあえて肯定することで、妻に先立たれてしまった悲しみをなんとか慰めようとしている。
③ 和歌Xが、誰でもいつかは必ず死ぬ身なのだからと言って長家を慰めようとしているのに対して、和歌Zはひとまずそれに同意を示したうえで、それでも妻を亡くした今は悲しくてならないと訴えている。
④ 和歌Zが、「誰も」「とまるべき」「悲し」など和歌Xと同じ言葉を用いることで、悲しみを癒やしてくれたことへの感謝を表現しているのに対して、和歌Yはそれらを用いないことで、和歌Xの励ましを拒む姿勢を表明している。
⑤ 和歌Yは、長家を励まそうとした和歌Xに対して私の心を癒やすことのできる人などいないと反発した歌であり、長家が他人の干渉をわずらわしく思い、亡き妻との思い出の世界に閉じこもってゆくという文脈につながっている。
⑥ 和歌Yは、世の無常のことなど今は考えられないと詠んだ歌だが、そう詠んだことでかえってこの世の無常を意識してしまった長家が、いつかは妻への思いも薄れてゆくのではないかと恐れ、妻を深く追慕してゆく契機となっている。
〜 なろう風な要約&解答 〜
1. 超VIPな大号泣お葬式
パニック&ガチ泣き:妻が亡くなり、親族一同は転げ回って大パニック。お寺に向かう葬列は言葉にできないほど豪華な大行列だったが、出迎えるお寺のトップ(僧都)もガチ泣きで前が見えないレベルだった。
2. 絶賛メンタル崩壊&既読スルー期
お寺で引きこもり:喪中期間中、秋のエモい風景や鹿の鳴き声にメンタルを削られまくる長家(夫)。
返信はスタンプ感覚:色々な人からお悔やみの手紙が届くが、ぼーっとしていて「あとで連絡するわ…」程度の超塩対応。
激重ポエムの応酬:知り合いの女性たちからの慰めの和歌に対しても、「涙の川で枕が浮いてる」「辛すぎてこの世の理(無常)とかマジでどうでもいい」と病み気味な返信をしてしまう。
3. 亡き妻、実は超ガチの「神絵師」だった
ふとした自己嫌悪:「時が経てばこの悲しみも忘れちゃうのかな…」と想像してしまい、そんな自分に嫌悪する長家。
尊すぎる思い出:顔も性格も字も完璧だった妻だが、何より時間を忘れてうつ伏せで絵を描きまくる姿(超ガチのクリエイター気質)が最高に好きだった。
遺作を心の支えに:「妻の夏の新作イラスト、生前に偉い人に自慢(献上)しておいて本当に良かった!」と心残りはなし。昔の同人誌(絵物語)は火事で燃えちゃったけど、最近の遺作コレクションがたくさんあるので、家に帰ったらそれを眺めて癒やされよう……と心に誓っている。
解答
問1
(ア) 22:④ (表現しつくすことはできない)
(イ) 23:③ (感じのよい人でいらっしゃったのになあ)
(ウ) 24:① (自邸に戻ったときには)
問2 25:①
問3 26:①
問4 27:⑤
問5 28・29:③・⑥ (順不同)
もはや、問題の意味すら分かりませんw 高校生ってすげーなw




