五十五 道長、娘に経営報告を求められる
藤原道長が娘の活躍を聞き、得意げに支援を申し出る。彰子は逆に、支援物資の用途・費用対効果・人材投資計画を説明させる。道長は「父にそこまで言うか」と驚くが、娘の成長に感服。以後、道長は単なる金主ではなく、彰子サロンの後方支援者として動く。親子の権力関係が変化する。
父親というものは、時々、娘を子どものままだと思っています。
いえ、もちろん、親にとって子はいつまでも子なのでしょう。
それは分かります。
前世でも、成人して働いて、税金を払い、会議で胃を痛め、後輩の資料を直し、深夜に洗濯機を回すような年齢になっても、実家へ帰れば「ちゃんと食べているの」と言われました。
ありがたい。ありがたいのですが。こちらにも、こちらの生活があります。こちらにも、こちらの判断があります。
それなのに、親という存在は、時々とても自然に言うのです。
「困っているなら言いなさい」
「お父さんが何とかしてあげる」
「必要なものを送ってあげよう」
「任せておきなさい」
善意です。基本的には善意です。ただし、善意は時に大きすぎます。大きすぎる善意は、相手の場を押し潰します。
そして宮中における父の善意は、ただの親切では終わりません。なにしろ、私の父は藤原道長です。この世をば、我が世とぞ思う人です。
権力も人脈も財も、普通の父親とは桁が違います。前世で言えば、実家から仕送りが届くと思ったら、なぜか大型予算と役員人事権が一緒に来るようなものです。
怖い。とても怖い。
そして、その怖い父が、その日、たいへん得意げな顔で藤壺へやって来ました。
「彰子」
御簾の向こうから聞こえる声は、いつもより少し弾んでいます。父・道長は、最近の藤壺の評判を聞いたのでしょう。
心得。内々の仕組みとして始まったものが、少しずつ他御殿にも知られ始めています。
「聞いておるぞ」
道長は、いかにも満足そうに言いました。
「そなたの御前は、近頃たいそう評判がよいそうではないか」
常盤が、そっとこちらを見ました。
「流しておりません」
「まだ疑ってもいません」
「先に申しておきました」
赤染衛門が小さく咳払いをしました。常盤は姿勢を正します。御簾の向こうで、父・道長は続けました。
「女房どもをよくまとめ、妙な揉め事も減らし、文や記録まで整えておるとか。さすが我が娘よ」
出ました。父の「我が娘」褒め。褒められるのは、悪い気はしません。でも、ここで気を抜いてはいけません。父・道長が満足している時は、たいてい何か大きいものを動かそうとしています。
「ありがたきお言葉にございます」
私は丁寧に答えました。
「ついてはな」
来ました。
「必要なものがあれば、遠慮なく申せ。紙でも、香でも、人でも、何でも用立てよう。そなたの御前が栄えるなら、父として惜しむものはない」
春枝の目が、紙という言葉で輝きました。
「姫様」
「春枝」
「紙でも、と」
「聞こえています」
「何でも、と」
「聞こえています」
「父君様が」
「静かに」
春枝は紙箱を抱えて沈みました。常盤は「人でも」のあたりで目を光らせました。
「情報網を増やせますね」
「増やしません」
小少将は、人が増えるなら席と衣の調整が必要だと考えている顔。若菜は、香が増えると管理が大変そうだと眉を下げています。澄子は、外から入る人の流れをすでに頭の中で整理している気配。赤染衛門は、額にうっすら胃痛の影を浮かべました。
「私の胃がまた……」
「まだ歴史にしません」
私は小声で言いました。そして、御簾の向こうの父へ向き直ります。
「父上」
「何だ」
「ありがたいお申し出です」
「うむ」
道長の声は得意げです。
「ですが、支援をいただく前に、用途を確認させてください」
「用途?」
声が少し止まりました。
「はい。何に、どの程度必要で、どのような効果を見込むか。人を増やすなら、どの役に置き、誰が教育し、どの時期までに何を担えるようにするか。紙や香であれば、使用目的と保管方法、費用対効果も確認したく存じます」
御簾の向こうが、静かになりました。藤壺の内側も、静かになりました。道長が、ゆっくり言いました。
「彰子」
「はい」
「父に、そこまで言うか」
「言います」
即答しました。赤染衛門が小さく目を閉じました。春枝は紙箱を抱えたまま固まっています。菅原の君は、明らかに「これは物語になる」と思っている顔です。常盤は、噂にしたくてたまらない顔。紫式部は、几帳の陰で筆を構えています。
「式部」
私が小声で言うと、紫式部は淡々と答えました。
「歴史的瞬間ですので」
「記録の加減を考えてください」
「承知いたしました」
本当に承知しているのでしょうか。道長は、しばらく沈黙した後、低く笑いました。
「面白いことを言うようになったな」
「必要なことでございます」
私は答えました。
「父上の御支援は、たいへん大きな力です。だからこそ、何となく受け取ることはできません」
「何となく、ではない。そなたを助けたいのだ」
「はい。そのお気持ちは、ありがたく受け取ります」
私は、少し声を柔らげました。
「けれど、助けたいというお気持ちだけで大量の紙や人が入れば、藤壺の運用は乱れます」
「運用」
道長が面白そうに繰り返しました。
「また、そなたの妙な言葉か」
「場を回す仕組み、という意味です」
赤染衛門が小声で補足しました。
「父上」
私は続けます。
「藤壺は、ただ物を多く持てばよい場ではありません。紙が増えれば保管が要ります。香が増えれば管理が要ります。人が増えれば教育が要ります。支援が大きくなれば、他御殿から『左大臣様の力で押している』と見られることもあります」
道長の気配が、少し変わりました。父の顔から、政治家の顔へ。
「それは、避けたいか」
「避けたいです」
私ははっきり言いました。
「藤壺が育てているのは、父上の財による豪華さではありません。女房たちが自分たちで考え、記録し、支え合う力です」
赤染衛門が、静かに顔を上げました。紫式部の筆が、さらりと動く音がしました。
「だから、支援は必要です。けれど、過剰な支援は毒になります」
「娘に、毒と言われるとはな」
父・道長の声は、怒ってはいませんでした。むしろ、少し楽しんでいる。
「では、そなたは父に何を求める」
私は、あらかじめ考えていたわけではありません。けれど、藤壺の課題は見えています。私は一つずつ挙げました。
「まず、紙です」
春枝が息を吸いました。
「ただし、上等な紙を大量にではありません」
春枝が息を吐きました。
「記録用に、丈夫で墨が滲みにくく、長期保管に向く紙を一定数。華美なものではなく、心得や記録を残すためのものです」
春枝は少し考え、真剣に頷きました。
「それなら、必要です」
「次に、人です」
常盤が顔を上げます。
「女房を増やすのではなく、読み書きと記録に慣れた若い者を一、二名。赤染衛門や有子の下で、控えの取り方、文の分類、貸し借りや贈答の記録方法を学ばせます」
赤染衛門が少し驚いた顔をしました。
「私の下で?」
「はい。ただし、負担を増やすためではありません。将来、衛門の仕事を分けるためです」
赤染衛門の表情が、少しだけ緩みました。
「それなら、胃に優しいかもしれません」
「三つ目に、情報の通り道です」
常盤がさらに顔を上げました。
「噂を広げる道ではありません」
「はい……」
「病や行事の変更、物資の不足など、必要な知らせが早く届くようにすること。出所の確かな連絡を、藤壺へ通していただきたい」
道長は、御簾の向こうで小さく唸りました。
「なるほど。噂ではなく、報せか」
「はい。常盤には、その報せと噂を分ける訓練をさせます」
「私、訓練されるのですか」
常盤が小声で言いました。
「すでにされています」
赤染衛門が答えました。
「四つ目に、口を出さないこと」
御簾の向こうが、また静かになりました。
「彰子」
「はい」
「支援を求めておきながら、口を出すなと申すか」
「申します」
赤染衛門が、今度こそ胃を押さえました。
「姫様……」
しかし、ここは譲れません。
「父上の御支援をいただくことで、藤壺が父上の命で動いているように見えては困ります。父上には、後方支援者でいていただきたいのです」
「後方支援者」
「はい。前に出て采配するのではなく、必要な時に必要なものを、適量で支える役です」
父・道長は黙りました。長い沈黙でした。常盤すら息を潜めています。やがて、道長が低く笑いました。
「わしに、後ろへ下がれと言う娘に育ったか」
「下がれではありません」
私は答えました。
「支え方を変えてください、と申しております」
「同じようなものではないか」
「違います」
「どこが違う」
「前に出る者は目立ちます。後ろで支える者は、場を長く持たせます」
道長は、また黙りました。その沈黙は、不機嫌なものではありません。考えている沈黙です。私は続けました。
「父上が前へ出れば、皆、父上を見ます。父上の意向を読み、父上へ取り入り、藤壺の女房たちの声は小さくなるでしょう」
「……」
「けれど、父上が後ろで支えてくだされば、女房たちは自分たちで動けます。必要な紙を使い、記録を残し、人を育て、場を整える。その結果が出れば、それは藤壺の力になります」
「そなたの力ではないのか」
「私一人の力ではありません」
私は言いました。
「赤染衛門の調整、有子の控え、春枝の紙、若菜の香、澄子の静けさ、小少将の場作り、常盤の情報、菅原の君の物語、紫式部の観察。皆の力です」
道長は、しばらく何も言いませんでした。そして、ぽつりと呟きました。
「ずいぶん、多くを見ておるな」
「父上の日記ほどではありません」
道長が、はっとしたように笑いました。
「わしの日記を引くか」
父・道長は、日々のことを記す人です。政務、行事、出来事、病、吉凶、人の動き。書くことの力を、父は知っているはずです。記録が、後から意味を持つことも。
「父上が日々を書き留めるように、藤壺もまた、日々の運用を記録しております」
私は言いました。
「記録は、後で人を守ります。だから、その土台への支援をお願いしたいのです」
御簾の向こうで、道長が息を吐きました。
「……費用対効果、と申したな」
「はい」
「それは、どのように見る」
赤染衛門が小さく目を見開きました。道長が乗ってきました。私は落ち着いて答えます。
「紙を増やした結果、貸し借りや贈答のトラブルが減るか。記録係を育てた結果、赤染衛門や有子の負担が減るか。確かな報せが早く届くことで、噂による混乱が減るか。宴の記録によって、次の場の失敗が減るか。これらを見ます」
「数で見るのか」
「数で見られるものは数で。数で見えないものは、記録と言葉で」
「なるほど」
道長の声に、先ほどまでの父親の甘さとは違うものが混じりました。摂関家の主としての、冷静な関心です。
「人材投資計画は?」
藤壺の内側で、常盤が「父君様が言った」と小声で呟きました。赤染衛門が袖を掴んで止めました。
「若い記録係候補を二名。最初の三月は有子の下で清書と控えを学ばせます。次の三月は赤染衛門の下で文面の整え方、相談の分類を学ぶ。その後、一人は文書管理、一人は宴や贈答の記録補助へ」
「半年か」
「はい。ただし、途中で向き不向きを見ます。書くのは得意でも、聞き取りが苦手な者もおります。逆もあります」
紫式部が几帳の陰で、そっと頷いた気配がありました。観察特化型の才にも、向き不向きがあります。
「教育役の負担は?」
「赤染衛門に集中させません。清書は有子、紙の扱いは春枝、情報の出所確認は常盤、場の観察は紫式部から少しずつ。ただし、教育項目を分け、同じ日に詰め込みません」
赤染衛門が、非常に真剣な顔で頷きました。
「同じ日に詰め込まない。大事です」
本当に大事です。人材育成は、善意で詰め込むと潰れます。
「よかろう」
道長が言いました。
「紙は、そなたの言う通り、記録に向くものを選ばせる。人は、読み書きに向く若い者を探そう。ただし、そちらで使えぬと見れば返せ」
「承知しました」
「報せの通り道も整える。行事、病、物資、人の出入り。確かなものを早く届けるようにしよう」
「ありがとうございます」
「そして」
道長は少し間を置きました。
「口は、なるべく出さぬ」
「なるべく?」
「父に完全な沈黙を求めるな」
少し笑ってしまいました。
「では、必要な時は赤染衛門を通してください」
赤染衛門がこちらを見ました。
「私でございますか」
「女房長補佐ですから」
「私の胃が、御堂関白記になります」
道長が御簾の向こうで吹き出しました。
「胃が、わしの日記になるのか」
赤染衛門は、しまったという顔をしました。
「恐れながら、比喩でございます」
「面白い。覚えておこう」
赤染衛門が絶望的な顔をしました。場に笑いが広がりました。緊張が、ようやく解けたのです。
その後、道長はしばらく藤壺の様子を尋ねました。ただし、以前とは少し違います。「何が足りぬ」ではなく、「何に使う」と聞く。「誰を送ろうか」ではなく、「どの役に人が要る」と聞く。「父が何とかしよう」ではなく、「後ろから何を支えればよい」と聞く。
親子の会話が、少し変わりました。父が娘を守るだけではなく。娘が自分の場を説明し、父がその場の支援者として動く。権力の流れが、ほんの少しだけ変わった瞬間でした。
道長が去った後、藤壺にはどっと疲れた空気が残りました。赤染衛門は文台に手をつきました。
「姫様」
「はい」
「父君様に、費用対効果と人材投資計画を説明させる娘は、なかなかおりません」
「説明させたというより、共有したのです」
「言い方の問題でございます」
「衛門の文面で整えてください」
「私の胃が」
「御堂関白記になる?」
「なりかけております」
常盤が笑いを堪えきれず、今度は赤染衛門も止めませんでした。春枝は、すでに記録用の紙の仕様を考え始めています。
「丈夫で、長持ちし、墨が滲まず、しかし高価すぎず……父君様の御支援なら、選び放題では」
「選び放題ではありません」
「費用対効果ですね」
「そうです」
春枝は少し寂しそうでしたが、真剣でした。若菜は言いました。
「香も、増やすなら管理表が必要ですね」
「作りましょう」
澄子が頷きました。
「外から入る人の流れも、記録します」
小少将は、新しく来る若い者の席と衣の扱いを考えています。
「教育中の者が目立ちすぎぬよう、しかし軽んじられぬように」
菅原の君は、何か感動した顔です。
「父と娘の権力関係が変わる話……これは物語に」
「しません」
私と赤染衛門が同時に言いました。紫式部は何も言いませんでした。それが一番怖い。
その日の夕刻、藤壺では新しい心得が作られました。
――支援受入心得。
一、支援は、気持ちだけで受け取らず、用途を明らかにすること。
一、物資は、保管・管理・使用目的を決めてから受け取ること。
一、人を受け入れる時は、役割と教育計画を定めること。
一、支援が大きいほど、外からの見え方に注意すること。
一、金主を前面に出しすぎず、後方支援者として位置づけること。
一、数で見える効果と、記録で見える効果を分けて見ること。
一、親の善意にも、運用設計を求めること。
最後の一文で、赤染衛門が少し悩みました。
「親の善意にも、は強くありませんか」
「強いですか」
「強いです」
「では、どうします?」
赤染衛門は考え、筆を入れました。
――大きな善意ほど、受け方を設計すること。
「こちらで」
「さすがです」
その夜、藤壺の灯は、少し違って見えました。父からの支援が決まったからではありません。その支援を、こちらの言葉で受け取れたからです。
藤原道長は、ただの金主ではなくなりました。少なくとも、藤壺にとっては。道長は、前に出て全てを決める父ではなく、後ろで支える後方支援者になり始めました。
もちろん、完全に変わったわけではありません。藤原朝臣道長です。権力の人です。黙っていろと言われて、本当に黙り続ける人ではありません。
でも、今日、彼は聞きました。何に使うのか。どんな効果があるのか。誰を育てるのか。自分はどこに立つべきか。
それだけで、大きな変化です。親子とは、ただ守る者と守られる者ではありません。時には、娘が父に説明を求める。父が娘の場を認める。そして、支援の形を変える。
紙。人。報せ。後方支援。どれも、藤壺を強くするでしょう。ただし、強くなりすぎれば、また敵も増える。その時は、赤染衛門の胃がまた物語になりかけるかもしれません。
でも、今度は一人で抱えさせません。支援も、仕事も、責任も。受け方を設計する。それが今日の学びです。
藤壺の灯は、静かに揺れていました。父の大きな影を、ただ恐れるのではなく。その影を後ろに置き、自分たちの足元を照らすために。
私は心の中で、そっと呟きました。
父上。娘はもう、ただ支援を受け取るだけの子どもではありません。何に使い、誰を育て、どう場を強くするか。
その説明を求めるくらいには、育っております。
〜 出典 〜
『御堂関白記』道長の日記文化
九月十一日、戊辰、午時平安男子産給、候僧、陰陽師等賜禄、各有差、同時御乳付、切臍緒、造御湯殿具初、…
(訳文)9月11日、正午ごろ、中宮は男子(後の後一条天皇)を無事出産なさった。加持祈祷の僧や陰陽師らには禄を与えたが、それぞれ差があるものだった。同じ時刻に御乳付があり、へその緒を切った。御湯殿の道具を揃えて配置し始めた。※なお道長は関白にはなってません。テスト向け引っ掛けポイントです。
〜 舞台背景 〜
『御堂関白記』(みどうかんぱくき)は、藤原道長が著した日記。『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』などとも称される。近衛家の陽明文庫が所蔵する自筆本14巻、古写本12巻が伝わる。国宝に指定。現存する世界最古の直筆日記とされ、平成23年(2011年)5月には、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に推薦、平成25年(2013年)6月18日に登録された。出典:wikipedia




