五十二 枕草子リスペクト炎上
彰子方の若い女房が、清少納言風の「にくきもの」リストを書き、定子方を嘲笑してしまう。彰子はすぐに止める。「模倣は敬意がなければ劣化コピーです」。清少納言の才を認めたうえで、相手を貶すだけの文章は長く残らないと教える。彰子サロンはただの反定子勢力ではなく、文化の品位を守る場へ成長する。
文章には、刃が入っています。
柔らかな紙の上に置かれた墨の跡なのに、人の心を温めもすれば、刺しもする。
歌一首で救われる人がいる。文の一行で眠れなくなる人もいる。笑い話が場を和ませることもあれば、同じ笑いが誰かの居場所を奪うこともある。
前世でもそうでした。短い投稿。箇条書き。ランキング。「あるある」。「嫌いなものリスト」。「こういう人、いるよね」という軽い一文。
書いた本人は、冗談のつもり。身内で笑うつもり。少し鋭いことを言って、場を盛り上げるつもり。ところが、言葉は思ったより遠くへ行きます。そして、一度遠くへ行った言葉は、書いた人の手元へ素直には帰ってきません。
宮中では、それがさらに厄介です。文は写されます。歌は口にされます。噂は育ちます。誰かの袖から誰かの耳へ移り、香のように残ります。しかも、香と違って、嫌な言葉ほど長く残ります。
その日、藤壺で起きたのは、まさにその類の出来事です。
きっかけは、一枚の紙でした。春枝が、いつものように紙箱を整理していた時でした。
「姫様」
春枝が、珍しく困った顔で私の前へ来ました。手には、薄い紙が一枚。
普段なら、春枝が紙を持ってくる時は嬉しそうです。紙質が良いとか、墨の乗りがどうとか、折り目が美しいとか、そういう話が始まります。けれど、その時の春枝は、紙を持つ手が少し硬そうです。
「どうしました」
「これが、廊の端に落ちておりまして」
赤染衛門が顔を上げます。常盤の目も光りました。 こういう時の常盤は早い。
「落ち文ですか?」
「常盤」
「流しません!」
「まだ読んでもいない」
「先に誓っておきます」
「よろしい」
春枝は紙を差し出しました。
「筆跡から見て、若い女房の小夜が書いたものかと」
「小夜」
菅原の君が少し驚いた顔をしました。小夜は、最近、藤壺へ出入りするようになった若い女房です。明るく、気が利き、文章を書くのも嫌いではない。御籠もり語りの会にも何度か参加し、菅原の君の影響で物語や随筆めいたものを書き始めたばかりでした。
伸びる子です。伸びる子なのですが。伸びる方向を間違えると、たいへん危険でもあります。
私は紙を受け取り、目を通しました。題には、こうありました。
――にくきもの。
その瞬間、赤染衛門の眉がわずかに動きました。紫式部も、几帳の陰で筆を止めた気配があります。
私は続きを読みました。
にくきもの。やたらと昔の栄華を語る女房。色褪せた衣を「思い出深い」と言い張る女房。定子様の御前ではこうだったと、聞かれもせぬのに申す女房。清少納言様の言葉を、何かにつけて持ち出す女房…
…こちらの新しき語りの会を、内々の慰めと笑う女房。香の強さだけで場の格が上がると思う女房。古き御殿の夢ばかり見て、今を見ぬ女房。
私は、そこで読むのを止めました。場が静かです。常盤ですら、口を閉じています。菅原の君は顔色を変えています。
「これは……」
赤染衛門が低く言いました。
「清少納言様のものづくしを真似たのでしょうね」
「でしょうね」
私は紙を膝に置きました。
清少納言。定子方の輝きそのもの。鋭く、明るく、軽やかで、容赦なく、そして美しい。彼女の筆は、宮中の瞬間を切り取ります。
春の曙。夏の夜。秋の夕暮れ。冬の早朝。
誰もが知っているものを、誰より鮮やかに言葉へする。人の仕草も、場の空気も、鼻につくものも、胸躍るものも、彼女の筆にかかれば、きらりと光る。
私は敵方だからといって、その才を否定するつもりはありません。むしろ、認めています。認めざるを得ません。清少納言の文章は、強い。だからこそ、真似したくなる者が出る。そして、真似は危ない。
「小夜を呼んでください」
私が言うと、澄子が静かに頭を下げました。
「承知いたしました」
常盤がそわそわしました。
「姫様、これは登華殿へ流れたら」
「炎上しますね」
「えんじょう?」
春枝が首を傾げました。また前世語が出てしまいました。
「火がつく、ということです」
若菜が香炉を見ました。
「紙に?」
「比喩です」
「ですが、紙に火がつくのは危のうございます」
「言葉に火がつく方が、もっと危ないです」
赤染衛門が、重く頷きました。
しばらくして、小夜が連れて来られました。小夜はまだ、事態の重さをよく分かっていない顔でした。むしろ少し誇らしげです。
「姫様、お呼びでしょうか」
私は、紙を見せました。
「これは、あなたが書いたものですね」
小夜の顔がぱっと明るくなりました。
「あっ、それは……お恥ずかしいものを。少し、清少納言様の書きぶりを真似てみたのです」
「なぜ、落ちていたの?」
「友の女房に見せようと思いまして。途中で落としたのかもしれません」
赤染衛門が目を閉じました。
落とすな。…本当に、落とすな。
宮中で悪口の紙を落とすなど、火鉢に油を注ぐようなものです。
「小夜」
私は静かに言いました。
「これは、すぐに止めます」
小夜の表情が固まりました。
「え……」
「写しも作らない。人にも見せない。すでに見せた人がいるなら、回収します」
「な、なぜでございますか」
小夜は慌てました。
「私はただ、定子方の女房たちが、こちらを笑うものですから。少し言い返したくて。それに、清少納言様の『にくきもの』のように、鋭く、面白く」
「面白いと思いましたか」
「……はい。少し」
「誰を笑わせるために?」
小夜は口をつぐみました。
「藤壺の皆さまを、でございます」
「誰を笑うために?」
さらに沈黙。
小夜の視線が揺れます。
「定子方を……少し」
「少し?」
私は紙に目を落としました。
「『色褪せた衣』『古き御殿の夢ばかり』『今を見ぬ女房』。これは少しですか」
小夜の顔が赤くなりました。
「でも、あちらもこちらを笑います」
「だから同じことをするの?」
「同じではございません。私は、清少納言様をお手本として、敬意を込めて」
「敬意があるなら、なぜ相手を貶すために使うのですか」
場が、しんとしました。小夜が息を呑みます。私は言いました。
「心なき模倣は、ただの劣悪なまがい物です」
誰も動きませんでした。赤染衛門の筆が止まっています。菅原の君は胸を押さえました。春枝は紙を見つめ、若菜は香炉の灰を静かに均しています。小夜は、目を見開いていました。
「まがい物……」
「はい」
前世の言葉で言えば、劣化コピーというやつです。私は続けます。
「清少納言の『にくきもの』が強いのは、ただ悪口だからではありません。観察があるからです。言葉の切れ味がある。場面が浮かぶ。読んだ者が『分かる』と思う。時に意地悪でも、そこには筆の才と、瞬間を捉える目があります」
紫式部が几帳の陰で、わずかに動いた気配がしました。彼女が清少納言をどう思っているか。そこには複雑なものがあるでしょう。それでも、才は才です。認めるべきものは認める。それができなければ、こちらの品位が落ちます。
「けれど、小夜のこれは」
私は紙を指しました。
「相手を貶す目的が先に立っています。観察より、嘲笑が前に出ている。清少納言風の形だけを借りて、定子方への悪口を並べている」
小夜の目に涙が浮かびました。
「私は……藤壺のために」
「藤壺のためなら、なおさら止めます」
私は言いました。
「藤壺が、ただの反登華殿の勢力になってはいけません」
その言葉に、女房たちの空気が変わりました。
「反登華殿の勢力」
赤染衛門が静かに繰り返します。
「相手を下げることで、自分たちを上げようとする場。相手の過去を笑い、相手の才を歪め、相手の言葉を借りて相手を刺す場。そんなものは、長く残りません」
常盤が、小さく言いました。
「でも、笑いは広がります」
「広がります」
私はうなずきました。
「悪口は、よく広がります。ですが、長く尊ばれるとは限りません」
前世でも、炎上する文章はよく読まれました。刺さる言葉、嘲笑、暴露、皮肉。人はそういうものに引き寄せられる。けれど、消費される速さも早い。
残る文章は、ただ誰かを下げるだけではありません。そこに観察があり、普遍があり、書いた人の目がある。怒りや皮肉があっても、それだけで終わらない。
「相手を貶すだけの文章は、火花です」
私は言いました。
「一瞬明るい。でも、すぐ消えます。そして焦げ跡だけが残る」
若菜が香炉の灰を見ました。
「灰も、焦げた匂いは長く残ります」
「そう」
私は小夜を見ました。
「あなたの文章が残すのは、光ですか。焦げ跡ですか」
小夜の涙がこぼれました。
「……焦げ跡かもしれません」
「今気づいたなら、まだ間に合います」
私は紙を折りました。
「書くなとは言いません。むしろ書きなさい。でも、相手を笑うだけの紙を増やしてはいけません」
春枝が小声で言いました。
「紙も、かわいそうです」
「春枝」
「はい。でも本当に」
少し笑いが漏れました。張りつめていた空気が、ほんの少し緩みます。私は赤染衛門を見ました。
「心得を作りましょう」
「はい」
赤染衛門は筆を取りました。春枝が、慎重に紙を選びます。
「これは……派手な紙ではございませんね」
「ええ」
「けれど、薄すぎてもいけません。言葉の重さを受け止める紙がよいかと」
「任せます」
春枝は真剣な顔で、やや厚みのある白い紙を出しました。赤染衛門が題を書きます。
――模倣と批評の心得。
一、敬意なき模倣は、なまがい物と心得ること。
一、才ある相手は、敵方であっても才を認めること。
一、形だけを借りて、悪口の器にせぬこと。
一、相手を貶すだけの文章は、長く残らぬこと。
一、批評するなら、観察と根拠を持つこと。
一、藤壺は、文化の品位を守る場であること。
最後の一文で、場の空気が少し引き締まりました。
文化の品位。
大げさに聞こえるかもしれません。けれど、宮中で言葉を扱うなら、そのくらいの覚悟が必要です。
「文化の品位……」
菅原の君が呟きました。
「私たちに、守れるでしょうか」
「守ろうとしなければ、すぐ落ちます」
私は答えました。
「品位は、最初からあるものではありません。毎回の言葉選びで保つものです」
紫式部が、几帳の陰から静かに言いました。
「才を恐れて貶す者は、結局、その才の影から出られません」
小夜が、涙に濡れた顔でそちらを見ました。紫式部は続けます。
「真似るなら、形ではなく、目を学ぶことです。何を見るか。どこで切るか。何を残すか」
菅原の君が震えました。
「式部様……」
「今のは書き留めてもよいです」
赤染衛門がすでに書いていました。さすがです。小夜は深く頭を下げました。
「私は、清少納言様の才を、利用しようとしていたのですね」
「利用というより、借り方を間違えました」
私は言いました。
「借りたなら、返礼が必要です」
「返礼……」
「敬意です」
小夜は何度も頷きました。
「書き直します」
「何を書く?」
小夜は少し考えました。
「『にくきもの』ではなく……『惜しきもの』を」
「惜しきもの?」
「敵味方に分かれてしまうと、相手のよい言葉まで素直に読めなくなること。昔の栄華を語る声を、ただ古いと笑ってしまうこと。新しい場を作る時、古い場から学ぶことを忘れること」
場が静かになりました。菅原の君が目を潤ませています。
「小夜、それは……よいです」
赤染衛門も、少し表情を和らげました。
「嘲笑ではなく、省みる文章になりますね」
「はい」
小夜は紙を握りしめました。
「私、自分が笑われた悔しさで、相手を笑い返したかったのです。でも、それでは同じところへ落ちるだけですね」
「そうです」
私はうなずきました。
「笑い返すなら、上へ向かう笑いにしなさい。誰かを踏むのではなく、愚かさや弱さを一緒に見られる笑いに」
「難しいです」
「難しいです」
私は即答しました。
「だから価値があります」
その後、藤壺では、小夜が落とした「にくきもの」の紙を回収しました。すでに二人ほどが読んでいましたが、赤染衛門と澄子が静かに事情を伝え、写しを作らぬようにしました。常盤が行きたそうにしていましたが、もちろん止めました。
「私なら早く回収できます」
「あなたは早く広げる可能性もあります」
「信用がないのですか?」
「あります。噂処理以外では」
「ひどいです」
赤染衛門は冷静です。
「今回は澄子に任せます」
澄子は、まるで香の煙のように動き、紙も口も静かに抑えました。本当に頼もしい人です。
数日後、小夜は新しい文章を持ってきました。題は、確かに「惜しきもの」。そこには、定子方を直接嘲笑する言葉はありませんでした。代わりに、こんなことが書かれていました。
惜しきもの。よき言葉を、誰の側のものかで曇らせて読む心。昔の光を語る人を、すぐに今を見ぬ人と決めること。新しき灯をともす時、古き灯から火をもらったことを忘れること…
…才ある人を恐れて、ただ悪く申すこと。笑ううちに、自分の顔が醜くなっているのに気づかぬこと。
読み終えた時、藤壺は静かでした。誰もすぐには笑いません。けれど、それは悪い沈黙ではありませんでした。菅原の君が、そっと息を吐きました。
「小夜、よくなりました」
春枝が紙を撫でます。
「この紙に書かれてよかったです」
若菜が言いました。
「焦げた匂いがしません」
小夜は、少し泣き笑いになりました。紫式部は几帳の陰で一言だけ言いました。
「こちらの方が残ります」
その一言で、小夜は今度こそ泣きました。よかった。叱って終わりでは、ただ傷になる。書き直して、何かを得るところまで行けたなら、それは学びになります。
そして藤壺もまた、学びました。清少納言の才を、ただ定子方の武器として見ないこと。敵方だからといって、優れたものを貶さないこと。相手を笑う時、自分たちの顔がどう歪むかを見ること。
言葉で戦うなら、品位を捨てないこと。これは簡単ではありません。定子方から笑われれば、こちらも悔しい。昔の栄華を持ち出されれば、腹も立つ。
「藤壺は地味」
「新しいだけで浅い」
「物語会など内々の慰め」
そんなことを言われれば、反撃したくなる。でも、反撃の仕方で場の格が決まります。ただの悪口で返せば、同じ土俵です。観察で返す。創作で返す。品位で返す。そして、必要なら黙って実績を積む。それが、藤壺の戦い方であるべきです。
その夜、文箱には「模倣と批評の心得」が納められました。春枝が選んだ白い紙は、灯を受けて静かに光っています。常盤はまだ少し口惜しそうでした。
「でも、『にくきもの』は広がればかなり刺さったと思います」
「刺さったでしょうね」
私は言いました。
「だから止めたのです」
「刺さる文章は、だめですか」
「だめではありません」
私は首を振りました。
「ただ、刺した後に何が残るかです」
常盤は少し考えました。
「血だけなら、よくない」
「そう」
「考える余地が残れば?」
「文章になります」
紫式部が、静かに頷きました。菅原の君は「惜しきもの」をもう一度読み返しています。小夜はその横で、恥ずかしそうに、しかしどこか晴れた顔をしていました。
私は、その様子を見ながら思いました。
清少納言は、強い。その強さに憧れて真似る者は、これからも出るでしょう。それでいい。才ある文章は、誰かの筆を動かすものです。
けれど、真似るなら、切れ味だけを盗んではいけない。見る目を学ぶこと。一瞬を掴む力を学ぶこと。自分の立つ場所まで笑う勇気を学ぶこと。
相手を貶すためだけに借りれば、それは敬意ではなく盗用です。劣化コピーです。そして劣化コピーは、長く残らない。
藤壺は、ただ定子方に対抗するための場ではありません。反対するだけなら、誰でもできます。けれど、文化を守る場になるには、相手の才を認め、自分たちの言葉を磨き、怒りをそのまま紙に投げつけない強さが必要です。
その日、藤壺の灯は、少しだけ高く見えました。誰かを焼く炎ではなく。
言葉の品位を照らす灯として。
〜 出典 〜
『枕草子』ものづくし
【令和7 年度 小学校教員資格認定試験 教科及び教職に関する科目(Ⅱ)国語】
問8 次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。
【 】、他人を呼ぶに、「わがぞ」とさし出でたる。物など取らすをりは、いとど。おのづから、人のうへなどうちいひ謗りたるに、幼き子どもの聞き取りて、その人のあるに、いひ出でたる。(清少納言『枕草子』)
上の文章は、『枕草子』のいわゆる「類聚的章段」と呼ばれる段の冒頭部分である。文章中の空欄【 】に入る語として正しいものを、次のア〜エの中から一つ選んで記号で答えなさい。
ア すさまじきもの
イ はしたなきもの
ウ ありがたきもの
エ たのもしきもの
問9 問8の文章中の傍線部「の」と同じ意味で用いられている「の」を、次のア〜エの中から一つ選んで記号で答えなさい。
ア 人のもとに、わざと清げに書きてやりつる文の返り言、
イ 女どちも、契りふかくて語らふ人の、末まで仲よき人、かたし。
ウ 草の花は、羅・唐のはさらなり。
エ なでふことなき人の、笑がちにて、ものいたうひたる。
〜 正解 〜
問8 イ 「はしたなきもの」=きまりが悪いもの
問9 エ 「の」=主格「が」
もちろん、私はさっぱり解けませんでしたw




