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転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜  作者: 条文小説


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三十八 写本流出事件

挿絵(By みてみん)


 紫式部の草稿が外部に流出し、定子方で笑いものにされる。彰子は怒る紫式部をなだめ、流出箇所ごとに微妙に違う語句を仕込んでいたことを明かす。どの写しから漏れたか特定できる、現代でいう透かし技術である。犯人の女房は逃げられず、彰子方の情報管理能力が知れ渡る。

 情報は、漏れる。


 前世で会社員をしていた頃、何度この言葉を思い知らされたか分かりません。


 会議資料。まだ公開前のプレスリリース。部署内だけのつもりだった愚痴。軽い気持ちで送ったチャット「ここだけの話」と前置きされた時点で、もうここだけでは済まない話。


 情報は、必ず漏れます。


 だから重要なのは、「絶対に漏らさない」と祈ることではありません。漏れる前提で、どう管理するかです。


 誰に何を渡したか。どの版を渡したか。どこまでなら外に出ても致命傷にならないか。漏れた時、どこから漏れたか追えるか。前世では、それを情報管理とか、アクセス制御とか呼んでいました。


 そして、ここは平安宮中。


 紙は歩く。文は袖に入る。噂は風より早い。女房の口は、時に渡殿より長く宮中をつなぐ。


 つまり、情報管理の難易度は高い。高いのに、皆、雅な顔をして簡単に漏らす。


 困ります。非常に困ります。


 だから私は、紫式部の物語草子が藤壺で読み継がれ始めた時から、ずっと考えていました。いつか、必ず流出する。


 そしてその日が、来ました。


「姫様!」


 朝の藤壺に、常盤が駆け込んできました。


 ただし、走ってはいません。宮中の女房としてぎりぎり品位を保った早足です。でも顔は全力疾走していました。


「顔が走っています」


「それどころではございません!」


「声も走っています」


「草子が!」


 その一言で、藤壺の空気が変わった。


 春枝が紙箱を抱えた。有子が記録帳を開いた。菅原の君が扇を握った。若菜は香炉の灰をならす手を止めた。


 澄子は灯の芯を切り損ねそうになった。小少将は几帳の端を握りしめた。赤染衛門は、すでに筆を取っています。


 紫式部は、少し離れたところで顔を上げました。


「草子が、どうしました」


 その声は静かでした。少し、静かすぎました。


 常盤は一度息を整え、言いました。


「紫式部様の草稿の写しが、定子方で読まれております」


 沈黙。藤壺の空気が、冷えます。


「……写しが」


 紫式部の声が、ほんの少し低くなる。


「はい」


「どの部分ですか」


「まだ整え途中だった、女君が文を返さぬ場面でございます」


 紫式部の指が、膝の上で固まった。


 それは、完成稿ではありませんでした。帝にも一部だけ聞かせましたが、未定稿として扱うと明確にした箇所です。語句もまだ揺れています。心の流れも、まだ深めている途中でした。


 作者にとって、未完成のものを勝手に読まれるほど嫌なことはありません。しかも、定子方で。


「それで」


 紫式部は静かに尋ねた。


「どのように読まれているのですか」


 常盤は珍しく口ごもった。


「申してよいものか……」


「言いなさい」


 私が促すと、常盤は顔をしかめた。


「『返事もしない女を、これほど長々と書くとは、藤壺はよほど暇なのですね』と」


 菅原の君が息を呑んだ。常盤は続けます。


「『男君も女君も、はっきりものを言えば済むことを、紙を重ねて嘆くばかり』」


 春枝が紙箱を抱く腕に力を込めた。


「『清少納言様なら、一言で片づけられるでしょうに』」


 小少将の顔が青くなった。最後に常盤は、悔しそうに言った。


「……『あはれというより、まだるい』と」


 紫式部の目が、すっと細くなった。


 あ、まずい。これは怒っている。


 静かな怒りだ。清少納言のように鋭く笑って返す怒りではない。深い井戸の底に石を落としたような怒りである。音が遅れてくるやつだ。


「姫様」


 紫式部は私を見た。


「私は、筆を折ってもよろしいでしょうか」


 藤壺が凍った。菅原の君が悲鳴のような声を上げかけ、赤染衛門に袖を押さえられる。


 有子の筆が止まる。春枝の紙箱がぎゅっと鳴った気がした。私は紫式部を見た。


 怒るのは当然です。


 未完成の草稿を盗まれた。それを敵対的な場で笑いものにされた。しかも、自分の文体の根幹である「あはれ」を、「まだるい」と切り捨てられた。


 これで怒らない方がおかしい。でも、ここで一緒に怒りに流されてはいけない。怒りは燃料になる。でも、舵を取らなければ火事になります。


「式部」


「はい」


「筆は折らなくてよいです」


「でも…」


「折るのは、相手の逃げ道です」


 紫式部が黙った。


「あなたが筆を折れば、相手は喜びます。『ほら、藤壺の物語などその程度』と言うでしょう」


 紫式部の唇が、わずかに引き結ばれる。


「では、どうせよと」


「特定します」


「特定?」


「どの写しから漏れたかを」


 藤壺の女房たちが、同時にこちらを見た。赤染衛門だけが、少し目を細めた。


「姫様」


「はい」


「やはり、あの仕込みでございますね」


「ええ」


 有子が顔を上げた。


「仕込み……?」


 春枝も目を丸くした。


「紙ではなく、語句の方でございますか?」


「そうです」


 私は扇を置いた。


「以前、写しを外へ出す時、少しずつ語句を変えました」


 紫式部の目が動いた。


「姫様、まさか」


「物語の筋は変えません。文の美しさも壊さない程度に、ほんのわずかな違いです」


 私は有子に合図した。


「控えを」


「はい」


 有子はすぐに記録箱から数枚の控えを取り出した。


 帝にお見せした写し。源中納言に渡した写し。左少弁を通じて読まれた写し。信頼できる女房に回した写し。藤壺内の朗読用控え。それぞれ、同じ場面で、ほんの少し語句が違う。


 例えば。


 ある写しでは、女君の沈黙を「返す言の葉もなく」と書いた。別の写しでは「返すべき言の葉もなく」。また別の写しでは「返す言の葉さえ見えず」。さらに別の写しでは「返す心の葉も散りぬるように」。


 筋は同じ。意味もほとんど同じ。でも、言い回しが違う。前世で言うなら、文面の透かしです。画像に見えない印を入れるように、文章の中に出所を追う印を入れる。誰に渡した写しが外へ出たか、漏れた文言を照合すれば分かります。


「写しごとの語句対応表を作ってあります」


 私が言うと、常盤がぽかんとした。


「姫様……怖いです」


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めております。半分」


「半分でも構いません」


 紫式部は、控えを見つめていた。


「私の文を、変えたのですか」


 その声には、少し棘がありました。


 当然です。作者に無断で語句を変えるのは、かなり危うい。私は深く頭を下げた。


「はい。申し訳ありません。あなたの文を守るためとはいえ、事前にすべてをお伝えしなかったのは、私の判断です」


 藤壺が静まる。


「ただし、草稿本体は変えていません。外へ出る写しだけです。筋や心の流れを損なわぬ範囲に限りました」


 紫式部は黙っています。


 怒っている。けれど、考えてもいる。


 私は続けた。


「あなたに言えば、あなたは嫌がったでしょう」


「当然です」


「だから、言いませんでした」


「姫様」


「はい」


「かなり強引でございます」


「自覚しています」


 紫式部は、しばらく私を見た。


 やがて、静かに息を吐いた。


「……それで、漏れたのはどの写しですか」


 よし。怒りが前に進んだ。私は常盤に向き直った。


「定子方で読まれていた文言を、できるだけ正確に」


「はい」


 常盤は目を閉じ、聞いてきた言葉を再現した。


「『返すべき言の葉もなく、袖の香ばかりが夜に残りて』と読まれておりました」


 有子がすぐに控えをめくる。


「『返すべき言の葉もなく』……この語句は、左少弁様経由の写しでございます」


 春枝が別の紙を見た。


「紙質は、やや薄手の鳥の子紙。左少弁様の侍女へ渡したものです」


 赤染衛門が筆を走らせる。


「日時は?」


 有子が答える。


「三日前の申の刻。受け取りは、左少弁様のもとに仕える女房、名は小萩」


 常盤が「あっ」と声を上げた。


「小萩様なら、昨日、定子方の女房と渡殿で長く話しておられました」


「内容は?」


「草子の話をしているようでした。ただ、その時はまだ確証がなく……」


「十分です」


 私は扇を手に取った。


 ぱちり。


「小萩を呼びなさい」


 藤壺の空気が、一段冷えた。菅原の君が小声で言った。


「姫様、怖いです」


「怒っていますから」


「静かに怒るのですね」


「大声を出すと、相手が被害者の顔をします」


「なるほど」


 しばらくして、小萩が呼ばれてきた。


 若い女房だった。顔立ちは整っているが、目が落ち着かない。藤壺に入った瞬間、空気の違いを感じたのだろう。膝をつく動作がわずかに乱れた。


「小萩」


 私は静かに声をかけた。


「はい」


「左少弁様のもとへ渡した草子の写しを、あなたが受け取りましたね」


「……はい。確かに」


「その写しは、今どこにありますか」


「左少弁様の御許に」


「本当に?」


 小萩の肩が揺れた。常盤が目を細める。有子が記録を取る。赤染衛門は無表情で筆を構えている。紫式部は何も言わない。


 小萩は、かすれた声で言った。


「い、一時、別の女房に見せました」


「誰に」


「登華殿に近い……少納言の君に」


 藤壺の女房たちが息を呑んだ。


 少納言の君。


 定子方寄りで、何度かこちらと接触してきた女房だ。半分敵、半分理解者。しかし今回に限っては、かなり黒い。


「なぜ見せたのです」


 小萩は俯いた。


「少しだけなら、と。皆、もう読んでいるものだと思い……」


「未定稿です」


 紫式部が初めて口を開いた。低い声だった。


「私がまだ整えていない文です」


 小萩は震えた。


「申し訳ございません」


 紫式部は何も言わない。私は問う。


「見せただけですか。写させましたか」


「……少し、写されました」


「少し?」


「女君の場面だけ、と」


「その少しが、定子方で笑いものになっています」


 小萩の顔が青ざめた。


「そんなつもりでは」


 出た。そんなつもりではなかった。


 情報漏えいの現場で、最もよく聞く言葉です。悪気はなかった。少しだけだった。皆知っていると思った。喜ばせたかった。断りにくかった。


 全部、漏れた後では意味がありません。私は静かに言いました。


「盗むなら、盗まされている可能性くらい考えなさい」


 藤壺が凍った。


 常盤が小さく「ひっ」と言った。菅原の君は扇で口元を覆った。赤染衛門の筆が一瞬だけ止まり、すぐ動いた。紫式部が、ほんの少しだけ目を伏せた。


 小萩は顔を上げられなかった。


「あなたは自分が賢く立ち回ったと思ったかもしれません。珍しい草子を見せれば、登華殿の女房に近づける。話題の中心になれる。自分が情報を持つ側になれる」


 私は続けた。


「でも、相手はあなたを使っただけです。あなたの手から写しを取り、笑いものにし、漏れた責任はあなたに残る」


 小萩の肩が震えた。


「……申し訳、ございません」


「謝る相手は、私だけではありません」


 小萩は紫式部に向き直り、深く頭を下げた。


「紫式部様。未定の御草子を勝手に見せ、写させましたこと、申し訳ございません」


 紫式部は、長い間黙っていた。やがて言った。


「私の文を笑った者の言葉より、あなたがなぜ渡したかの方が、今は重い」


 小萩は震えている。


「物語を軽んじたから渡したのでしょう。草子など、少し見せてもよいと」


「いえ、そのような」


「いいえ。そうです」


 紫式部の声は静かだった。


「大切なものだと思っていれば、袖に入れて渡したりはしません」


 小萩は何も言えなかった。私はそこで口を挟んだ。


「処分は左少弁様にも伝えます。今後、藤壺の草子に関わる写しを扱うことは禁じます」


 赤染衛門が頷いた。


「また、左少弁様経由の写しは一時停止といたします」


「はい」


 有子が記録した。


「少納言の君には?」


 常盤が尋ねる。


「直接責めても、のらりくらりと逃げるでしょう」


「では」


「逃げられない形で知らせます」


 私は、赤染衛門に文を用意させた。内容は簡潔。


 ――定子方で読まれた文言は、左少弁様経由の写しにのみ含まれる語句であること。


 ――未定稿を無断で写したことを把握していること。


 ――今後、藤壺の草子を読む場合は、正式な朗読の場でのみ願いたいこと。


 責めすぎない。しかし、分かっていると示す。相手に逃げ道は残す。だが、こちらが見えていることも知らせる。これが一番効きます。


 文が届いた翌日、定子方の笑いは止まりました。


 もちろん完全に止まったわけではありません。でも、表立って草子をからかう声は消えた。代わりに、別の噂が広がった。


「藤壺の写しには、出所を見分ける仕掛けがあるらしい」


「同じ草子でも、渡す相手によって語句が違うとか」


「漏らせば、誰から漏れたか分かるそうです」


「中宮様は、そこまでなさるのか」


 はい。そこまでします。


 なぜなら、物語は藤壺の柱だからです。柱を守るためなら、釘の位置まで管理するものです。


 常盤は少し興奮していた。


「姫様。もはや、『藤壺の草子は、どこから漏れたかすぐ知れる』と宮中で評判にございます」


「嬉しいような、怖がられているような」


「両方です」


「でしょうね」


 菅原の君は、まだ少し怒っていた。


「それでも、笑われたことは許せません」


「許さなくていいです」


「よろしいのですか」


「感情としては。ただし、行動は管理します」


「また管理」


「怒りほど管理が必要です」


 紫式部は、事件の後しばらく筆を持たなかった。私は急かさなかった。代わりに、若菜に香を整えさせ、澄子に灯をやわらかくさせた。


 春枝は新しい紙を用意したが、紫式部の前には出しすぎないようにした。有子は流出記録を整理した。赤染衛門は、今回の件を「草子の写し扱いに関する覚」としてまとめました。


 そこには、次のように書かれた。


 一、未定稿は原則として外へ出さない。

 二、外へ出す写しには、出所を識別できる語句を置く。

 三、受け渡し日時、相手、紙質、語句差を記録する。

 四、写しを受け取った者に、再筆写禁止を明示する。

 五、流出時は怒りで動かず、まず照合する。

 六、作者の感情を最優先に扱う。


 最後の一項は、私が入れさせました。情報管理だけなら、犯人を特定して終わりです。でも、物語は人が書く。人が傷つけば、続きは生まれない。


 数日後。


 紫式部が、静かに私の前へ来た。


「姫様」


「はい」


「筆を、戻します」


 藤壺の空気が、ふっと明るくなった。


 菅原の君が泣きそうになる。春枝が紙箱を抱えそうになる。有子が筆を構える。常盤が外へ知らせたそうな顔をする。


 全員、落ち着いてほしい。私は紫式部に微笑んだ。


「ありがとうございます」


「ただし」


「はい」


「私の文を変える時は、次から先にお知らせください」


「承知しました」


「嫌だと言うかもしれません」


「その時は、説得します」


「強引ですね」


「はい」


 紫式部は、ほんの少し笑った。


「では、説得される余地くらいは残しましょう」


 それは、許しに近い言葉だった。私は深く息を吐いた。物語は守られた。


 完全にではない。これからも漏れるだろう。からかわれることもあるだろう。盗もうとする者も出るだろう。けれど、藤壺は学んだ。


 紙は歩く。言葉は盗まれる。才は狙われる。ならば、仕組みで守る。怒りで燃やすのではなく、記録で追う。嘆きで終わるのではなく、再発防止にする。


 ……前世の監査報告書みたいになってきました。


 でも、宮中に監査はありません。たぶん。


 でも藤壺には、ほぼあります。私は扇を手に取った。


 ぱちり。


 女房たちが姿勢を正す。


「大切なものは、信じるだけでは守れません」


 赤染衛門が筆を構える。


「誰に渡したかを記録し、どこへ流れたかを追えるようにし、傷ついた人を置き去りにしないこと」


 私は小萩の去った方を見た。


「そして、情報を盗む者は覚えておきなさい」


 常盤が、ごくりと喉を鳴らす。


「盗むなら、盗まされている可能性くらい考えなさい」


 菅原の君が小声で言った。


「姫様、やはり怖いです」


「今日は怖くていい日です」


 紫式部は、静かに筆を取った。新しい紙に、黒い文字が落ちる。その一文字目を見た時、藤壺の女房たちは誰も声を出さなかった。ただ、じっと見守った。


 流出した草稿。笑われた未定稿。怒り。悔しさ。仕込み。照合。特定。謝罪。そして、再開。


 物語は、傷つきながらも続きます。


 藤壺の棚には、また一つ、新しい覚が増えました。


 ――草子の写し扱いに関する覚。


 紙の中には、見えない印。人の心には、見えない傷。その両方を見落とさないための記録。


 宮中では、それ以来、藤壺の写しを盗もうとする者が少し減りました。少しだけです。人間は懲りない。


 けれど、少なくとも皆、こう思うようになりました。藤壺の紙には、目がある。


 そして中宮彰子は、盗まれた後に泣く女ではありません。盗ませた道筋の上で待っている女です。

〜 出典 〜

『更級日記』源氏物語への憧れ


 むらさきのゆかりをて、つづきのまほしくおぼゆれど、人語ひとかたらひなどもえせず、たれもいまだみやこれぬほどにて、えつけず…


〜 舞台背景 〜

 更級日記さらしなにっきは、平安時代中期頃に書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女・菅原孝標女。母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母である。夫の死を悲しんで書いたといわれている。作者13歳(数え年)の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間が綴られている。全1巻。『蜻蛉日記』『紫式部日記』などと並ぶ平安女流日記文学の代表作の一に数えられる。江戸時代には広く流通して読まれた。出典:wikipedia

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