三十三 紫式部、到着
紫式部が彰子のもとに出仕する。だが彼女は警戒心が強く、周囲の女房も「陰気」「才を鼻にかけている」と噂する。彰子は無理に社交させず、静かな場所と書く時間を与える。さらに「あなたの才は、私の飾りではなく、この場の柱です」と告げる。紫式部は初めて、自分の才を利用されるだけでなく守られていると感じる。ついに彰子サロンに最強の筆が加わった。
その女房が来ると聞いた時、藤壺の空気は三つに割れました。
一つは、期待。
「たいそう物語に通じた御方とか」
「漢籍にも明るいと聞きましたわ」
「では、姫様のおそばに、また才ある方が増えるのですね」
二つ目は、警戒。
「才がある女房というのは、扱いが難しゅうございます」
「清少納言様のように、場を取りすぎる御方でなければよいのですが」
「こちらの御殿が、また妙な噂の種にならねばよいけれど」
そして三つ目は、嫉妬です。
これは声には出ません。けれど、分かります。人が新しく来る時、しかもその人が「才女」と呼ばれている時、既にそこにいる者たちは必ず考えます。
――自分の居場所は狭くならないか。
――主の寵は奪われないか。
――これまでの働きは軽んじられないか。
――また、あちらこちらで比べられるのではないか。
分かります。前世の職場でも同じでした。中途採用で「すごい人」が来ると、皆そわそわするのです。表向きは「楽しみですね」と言う。
でも心の中では、履歴書を検索し、噂を集め、どのポジションに座るのかを探る。平安宮中も、現代オフィスも、人間の基本仕様は変わりません。
「姫様」
赤染衛門が、少し低い声で言いました。
「本当に、あの御方をお迎えになるのですね」
「ええ」
「すでに、女房たちの間では噂になっております」
「でしょうね」
「父君は越前守であられたとか。学問の家にお生まれで、漢籍の才も深く、物語を読む目も並々ならぬと」
「ええ」
「しかし……」
赤染衛門は、言いにくそうに口を閉ざしました。私は扇を膝の上に置き、彼女を見ました。
「しかし?」
「お人柄が、少々難しいとも」
私は小さく笑いました。赤染衛門が慌てて頭を下げます。
「いえ、悪しざまに申すつもりではございませぬ。ただ、あまり社交的ではなく、物事を鋭くご覧になりすぎるとか。人によっては、陰気だ、近寄りがたい、と」
「でしょうね」
「姫様?」
「才のある人が、皆、明るく人当たりがよいとは限らないわ」
むしろ逆です。観察眼が鋭い人ほど、人の粗も、自分への視線も、場の嘘も見えてしまう。見えすぎる人は、たいてい疲れる。疲れるから黙る。黙ると「陰気」と言われる。
なんて理不尽。
まあ、前世でもありました。飲み会で騒がない人間は「ノリが悪い」。会議で余計な相槌を打たない人間は「冷たい」。無駄話に混ざらない人間は「感じが悪い」。
そのくせ、いざ問題が起きると、そういう黙って見ていた人間の分析が一番当たっていたりするのです。
「それに」
私は続けました。
「難しい人だからこそ、こちらへ来ていただく価値がある」
「と、申しますと?」
「扱いやすい才だけを集めても、強い場にはならないわ」
赤染衛門が黙ります。
「清少納言は、定子様の場にぴたりとはまった。華やかで、瞬発力があり、場を明るくする。だからこそ、あれほど強い」
「はい」
「でも、こちらが同じものを求めても、二番煎じになるだけ」
私たちに必要なのは、清少納言の代用品ではありません。違う種類の才能です。静かで、深く、粘り強く、人の心の奥を見つめる筆。笑いの瞬発力ではなく、読んだ後に長く残る物語の力。
そのためには、多少扱いにくくても構わない。というより、扱いやすい天才など、だいたい幻想です。
「衛門」
「はい」
「新しい才女が来る時、場が揺れるのは当然よ。だから、受け入れる前にこちらの器を整える必要があります」
「器、でございますか」
「ええ。才ある人をただ放り込むと、周囲は比べ、本人は警戒し、最後には孤立する。だから、最初から役割と居場所を作っておくの」
私は、用意させていた小さな局の方へ視線を向けました。そこは御殿の中でも、少し奥まった静かな場所です。
日当たりは強すぎず、風は通る。近くに騒がしい女房たちが集まりすぎない。紙と墨は十分に置き、余計な調度は少なめ。香も薄く。
派手さはありません。けれど、書くにはよい場所。私は以前から、その局を整えさせていました。赤染衛門はそれを見て、ようやく気づいたようでした。
「まさか、あの局は……」
「彼女のためよ」
「姫様、まだお会いにもなっていないのに」
「会ってから整えるのでは遅いわ」
人は最初に置かれた場所で、自分がどう扱われるかを理解します。人前に引き出され、いきなり歌や漢籍の知識を試されれば、彼女は警戒する。
清少納言と比べられれば、敵を作る。周囲の女房たちから「姫様の新しいお気に入り」と見られれば、孤立する。だから最初に示すべきなのは、こうです。
あなたは見世物ではない。あなたの才は、場を飾るための置物ではない。ここには、書く場所がある。考える時間がある。無理に笑わなくてよい。それを、言葉ではなく環境で伝えます。
(オンボーディング、大事)
平安宮中でその単語を使ったら、赤染衛門の胃がまた死ぬので言いませんが。
その日の午後。彼女は、藤壺に到着しました。
―― 藤式部。
父君・為時が式部丞であったことから、宮中ではそう呼ぶ者もいるという。のちに、人々は彼女を紫式部と呼ぶことになります。
初めて見た彼女は、想像していたよりもずっと静かでした。地味、というのとは少し違います。衣は決して粗末ではありません。所作も整っています。
ただ、華やかさを自分から前に出そうとしない。人の目を集めることに慣れていないというより、むしろ、人の目が集まることを好まない人の姿勢です。
彼女は深く頭を下げました。
「藤式部にございます。未熟の身ながら、御前に仕えさせていただきます」
声は低めで、落ち着いていました。しかし、そこに少し硬さがある。緊張。警戒。あるいは、諦め。
宮中に出仕する才女が、どのような目で見られるか、彼女はもう知っているのでしょう。
才があると噂される女は、便利に使われます。褒められます。試されます。そして、少しでも失敗すると「才を鼻にかけている」と言われます。
厄介な立場です。
清少納言のように、自分の才を舞台上で輝かせられる人なら構いません。でも、藤式部はたぶん違う。彼女の才は、拍手喝采の中で育つものではない。静かな場所で、言葉を沈め、沈んだものを掬い上げる才です。
私は、彼女をじっと見ました。彼女も、伏せた目の奥で、こちらを測っています。
面白い。…完全に警戒されています。
「藤式部」
「はい」
「遠いところ、よく来てくれました」
「恐れ入ります」
「こちらでは、無理に賑やかにする必要はありません」
彼女の睫毛が、わずかに動きました。周囲の女房たちも、少し驚いた気配を見せます。私は続けました。
「歌を求められたら必ず詠め、漢籍を問われたら即座に答えよ、という場にはしないつもりです」
藤式部が、初めて少し顔を上げました。その目は、思ったより鋭い。穏やかな水面に見えて、底に刃が沈んでいるような目。
「……私の才を、お試しにはならないのでございますか」
ああ。やはり、そう来ましたか。私は微笑みました。
「試されたいの?」
周囲が凍りました。赤染衛門が横で息を止めた気配がします。藤式部も、一瞬だけ目を見開きました。けれど、すぐに伏せます。
「いえ。ただ、そういうものかと」
「ここでは、必要な時に必要なことをしてもらうわ。芸として見せるために才を消費するつもりはありません」
才を消費する。その言葉に、藤式部の表情がほんのわずかに変わりました。彼女には伝わったようです。私は赤染衛門へ合図しました。
「局へ案内して」
「はい」
「紙と墨は用意してあります。足りなければ言って。香が強ければ変えます。人の出入りが多すぎるようなら、それも調整します」
藤式部は、今度こそ明らかに驚きました。
「私のために……?」
「ええ」
「なぜ、そこまで」
「あなたに書いてほしいから」
私は、まっすぐに言いました。藤式部の目が、また上がります。
「何を、でございましょう」
「今はまだ、分からない」
「分からない?」
「ええ。でも、あなたは書く人でしょう?」
それは、問いではありませんでした。確認です。藤式部の手が、袖の中でかすかに動いたのが見えました。おそらく、反射的に何かを握りしめたのでしょう。筆か、紙か、あるいは自分の心か。
「……書くことなど、女の慰みに過ぎぬと申す方もございます」
「そういう人は、慰みで千年残るものを書いてから言えばいいわ」
しまった。
少し未来視が漏れてしまいました。赤染衛門が、また「姫様?」という顔をしています。
藤式部は、意味が分からないという顔をしましたが、私の言葉の中に軽んじる響きがないことは分かったようでした。私は言い直します。
「物語は、ただの遊びではありません。人の心を動かし、人の噂を形にし、人の過ちを映す鏡になります」
清少納言の随筆は、瞬間を切り取る。藤式部の物語は、おそらく時間を編む。どちらが上という話ではありません。ただ、彰子サロンに必要なのは後者です。
「ここで、あなたには人を見てほしい」
「人を」
「ええ。女房たちを。男房たちを。帝を。父上を。私を。美しいところも、愚かなところも、苦しいところも」
藤式部は黙って聞いています。
「ただし、すぐに書かなくていい。まずは見て。考えて。あなたの中で沈めて。それから、書きたくなったら書いて」
周囲の女房たちは、不思議そうにしています。新しく来た才女に対して、私は歌も漢詩も求めません。その代わり、見ろ、考えろ、沈めろと言っている。たぶん、宮中の歓迎としてはかなり変です。
でも、藤式部にはそれでいい。彼女は、長く沈む人です。浅い水面で騒がせてはいけない。
「姫様は」
藤式部が、静かに言いました。
「私を、女房としてお使いになるのではなく、書く者として置かれるのですか」
「女房としての仕事もしてもらうわ」
私は即答しました。
「そこは免除しません」
赤染衛門が、少し安心した顔をしました。
「ただし、あなたにしかできないことを、雑用で潰すつもりもありません」
藤式部は、じっと私を見ました。その目には、まだ信頼はありません。当然です。初対面で信頼される方が怖い。けれど、警戒の中に、ほんのわずか、興味が混じった。まずはそれで十分です。
その時、奥の方で、若い女房がひそひそと囁く声がしました。
「ずいぶん大切にされますこと」
「才があると噂の御方ですもの」
「私たちなど、もう目に入らぬのでは」
小さい声。けれど、聞こえるように言っています。
はい、来ました。
新メンバー加入時の既存メンバー不満。想定内です。私はそちらを見ませんでした。見ないまま、言います。
「藤式部」
「はい」
「あなたの局の紙と墨の管理は、春枝に任せます」
先ほど囁いていた若い女房の一人が、びくっとしました。
春枝。筆はそれほど速くありませんが、物の整理と細かな気配りに長けています。ただ、最近は自分の役割が地味だと感じ、不満を溜めていた子です。
私は続けました。
「紙の残り、墨の質、筆の傷み、写しの控え。すべて春枝が見ること。藤式部、何か足りない時は彼女に言って」
藤式部は、私の意図を察したように、静かに頷きました。
「承知いたしました」
春枝は慌てて頭を下げます。
「わ、私が、そのような大事を……?」
「ええ。あなたは物の置き場所を忘れないでしょう」
「は、はい」
「才女が書くには、才女だけでは足りない。紙を整える者、墨を選ぶ者、写しを保つ者が必要です」
部屋の空気が、少し変わりました。新しい才女が来たことで居場所を奪われるのではない。新しい才女の仕事を支えることで、自分にも役割が生まれる。
そう示す。これが大事です。天才を一人置くと、周囲は萎縮する。ならば、天才の周りに仕事を作る。嫉妬を排除するのではなく、役割へ変換する。
(よし、初期配置完了)
私はさらに言いました。
「赤染衛門」
「はい」
「藤式部が慣れるまで、直接の世話をあなた一人に集中させないで。春枝、常盤、少納、三人で回して。質問や困りごとは、一度あなたが受けて、必要なら私へ」
「承知いたしました」
「それから、藤式部の前で清少納言と比べることを禁じます」
女房たちが、一斉にこちらを見ました。藤式部も、目を伏せたまま、かすかに反応します。
「よろしいですか。清少納言は清少納言。藤式部は藤式部。それぞれ別の花です。才ある女を、すぐ別の才ある女と並べて品評するのは、たいへん安直です」
女房たちが、気まずそうに視線を落としました。私は少しだけ笑いました。
「比べたいなら、まず自分がその二人と並ぶだけの何かを作ってからにしなさい」
沈黙。
赤染衛門が、横で小さく咳払いをしました。
「姫様、少々刺さりすぎでございます」
「ごめんなさい。少し本音が」
「少しでございますか」
藤式部が、ほんのわずかに口元を動かしました。
笑った。
たぶん、本当に一瞬。誰も気づかないほど。でも、私は見逃しませんでした。
よし。
初回面談、致命的失敗は回避。その後、藤式部は用意された局へ案内されました。彼女は部屋に入ると、まず光を見ました。次に紙。筆。墨。几帳の位置。外の音。そして最後に、入口の方を振り返ります。
「ここは、静かでございますね」
私は頷きました。
「賑やかにしたくなったら言って」
「おそらく、その心配はございませぬ」
「でしょうね」
藤式部は、少し困ったような顔をしました。私は棚に置かれた白い紙の束を指しました。
「これは、あなた専用ではありません」
彼女がこちらを見ます。
「藤壺で書かれるもののための紙です。あなたが使ってもいい。誰かに書かせてもいい。書かずに置いておいてもいい」
「書かずに置くことも、お許しになるのですか」
「無理に書かせたものは、たいてい薄いから」
前世の自分にも刺さる言葉です。締切に追われて作った資料の薄さ。とりあえず埋めた文章の空虚さ。魂が入らない文書は、読む側に伝わります。
藤式部は、紙にそっと触れました。
「……姫様は、不思議な御方でございますね」
「よく言われるわ」
「まだ、あまり申し上げられてはおりませぬが」
「これから言われる予定です」
また、少しだけ口元が動く。
よし。
ユーモア反応あり。私は部屋を出ようとしました。その時、藤式部が背後から言いました。
「姫様」
「何?」
「私は、華やかな場には向きませぬ」
「知っているわ」
「人に好かれる振る舞いも、得意ではございませぬ」
「それも、たぶん知っている」
「それでも、よろしいのですか」
私は振り返りました。藤式部は、まっすぐこちらを見ていました。警戒ではなく、確認です。この人は本当に、自分をこのまま置くつもりなのか。それとも後から、もっと明るく、もっと愛想よく、もっと清少納言のように、などと言うのか。私は静かに答えました。
「藤式部」
「はい」
「全員が場を沸かせたら、誰が場を覚えておくの?」
彼女の目が、少しだけ見開かれました。
「笑わせる人も必要。歌う人も必要。整える人も必要。記録する人も必要。あなたには、見て、覚えて、書く人でいてほしい」
「……書く人」
「ええ」
私は微笑みました。
「あなたの沈黙は、怠慢ではなく、蓄積でしょう?」
藤式部は、何も言いませんでした。ただ、深く頭を下げました。その礼は、最初のものとは違っていました。
形式的なものではない。完全な信頼でもない。けれど、少なくとも、少しだけ扉が開いた。私はそれを見届け、部屋を出ました。外では、赤染衛門が待っていました。
「姫様」
「何?」
「また、厄介な方を迎えられましたね」
「そうね」
「ですが」
赤染衛門は、藤式部の局の方をちらりと見ました。
「大切にすべき厄介さにございます」
「ええ」
私は頷きました。
「才とは、だいたい厄介なものよ」
扱いやすい才など、飾り物です。本物の才は、周囲を揺らす。既存の評価軸を壊す。人の嫉妬を呼ぶ。本人を孤独にする。だから、場が必要です。
才が才のまま存在できる場所。使い潰されず、見世物にされず、比較で傷つけられず、しかし責任も持つ場所。藤壺は、そういう場にならなければならなりません。
その夜。藤式部の局には、遅くまで灯がともっていました。女房たちは、ひそひそと噂します。
「もう何かお書きになっているのかしら」
「姫様は、何を書かせるおつもりなのでしょう」
「物語でしょうか。歌でしょうか」
私は、その灯を遠くから見ていました。何を書いているのかは知りません。
日記かもしれない。ただの書き付けかもしれない。誰にも見せるつもりのない言葉かもしれない。それでいい。
火は、最初から大きく燃やしてはいけない。小さな灯を、風から守る。清少納言の言葉が、鋭い刃なら。
藤式部の筆は、たぶん深い井戸です。覗き込む者の顔を映し、落ちた言葉を底で冷やし、いつか汲み上げた時、人の心に沁みる。私は、静かに扇を閉じました。
(ようこそ、藤式部)
あなたはまだ知らない。この藤壺で、あなたの筆がどれほど多くの人を動かすことになるか。
私もまだ、完全には知らない。けれど確信はあります。
今日、藤壺には剣でも香でもなく、筆が来た。しかも、ただ紙に文字を書くための筆ではない。
宮中の女たちの笑い、嫉妬、涙、沈黙、寂しさ、諦め、矜持。そういうものを、物語に変える筆です。
その夜、藤壺の奥で、小さな灯が揺れていました。
まだ誰も知らない物語の、最初の火でした。
〜 出典 〜
『紫式部日記』紫式部出仕
師走の二十九日に参る。初めて参りしも今宵のことぞかし。いみじくも夢路に惑はれしかなと思ひ出づれば、こよなく立ち馴れにけるも、疎ましの身のほどやと覚ゆ…
〜 舞台背景 〜
超有名な紫式部初出社のくだりです。高校古典の勉強ではざっくり覚えておけば訳せますが、趣味的には結構味わい深い文章で、「最初は緊張感があったのに最近は慣れちゃった」という紫式部の自己分析が秀逸な部分です。…と、ヲタクの方がnoteで言ってましたw




