二十八 「物忌み」でサボるな
物忌みを理由に重要な準備を放棄する女房が出る。定子方は「物忌みも知らぬとは」と彰子を煽るが、彰子は物忌み自体を否定せず、代替担当・事前準備・在宅作業を整える。「信仰は尊重します。でも責任が消えるわけではありません」。結果、物忌みを盾にした怠慢だけが封じられる。
信仰は、尊重します。
これは大前提です。神仏を敬うこと。方角を避けること。日を選ぶこと。物忌みにこもること。穢れを慎むこと。祈祷を頼むこと。
この時代において、それらはただの迷信ではありません。人々の生活を支え、不安を鎮め、共同体の秩序を作る大切な仕組みです。前世の感覚だけで、
――そんなの非科学的です。
と切り捨てるのは簡単です。でも、それはこの時代で生きる人々の心を踏むことになります。
病になれば祈る。旅に出る前に日を見る。不吉な夢を見れば慎む。悪い方角を避ける。
それで心が落ち着き、慎重に行動できるなら、意味はあります。だから私は、物忌みそのものを否定しません。
しませんが。
物忌みを理由に、責任まで消えると思っているなら話は別です。信仰は尊重します。でも、仕事は消えません。
祈りたいなら祈る。慎みたいなら慎む。ただし、引き継ぎはしてください。
前世でも似たようなことがありました。体調不良。家庭の事情。急な予定。法事。通院。どれも大切です。
でも、だからといって担当していた仕事の情報を誰にも渡さず、締切当日に「今日は無理です」と消えられると、周囲が燃えます。
休むな、という話ではありません。休むなら、休める仕組みを作ろう、という話です。平安宮中なら、それが物忌みでも同じ。物忌みは尊重します。しかし、物忌みを盾にした怠慢は、尊重しません。
問題が起きたのは、帝の御前で行われる小さな文合わせの準備中でした。大きな公的行事ではありません。けれど、帝がお越しになる。いくつかの御殿から文や歌が集まる。香、紙、筆、座の配置、記録、返歌の控え。準備は細かい。
藤壺では、春枝が紙を選び、有子が筆写の準備をし、小少将が女房たちの装束の色を整え、赤染衛門が全体を見ていました。
今回、問題になったのは、香と文箱の準備です。担当は、兵衛の君。以前、若菜に雑用を押しつけていた古参女房の一人です。
あの件の後、彼女は文の取り次ぎと調度の扱いで役割を得て、少しずつ態度を改めていました。少なくとも、表面上は。
ところが、前日の夕方になって、兵衛の君が突然こう言ったのです。
「明日は物忌みにて、外へ出ることも人に会うことも控えねばなりませぬ」
赤染衛門が、静かに眉を動かしました。
「明日の文箱の準備は、兵衛の君の担当でしたね」
「はい。ですが、物忌みにございますので」
「代わりの者へ引き継ぎは?」
「急なことゆえ……」
「文箱の中身は?」
「私の部屋に」
「鍵は?」
「私が」
赤染衛門の顔が、少しずつ冷えていきました。
これはまずい。
文箱の中には、明日使う紙、控え、香包み、予備の筆、相手方から届いた文の写しが入っています。
担当者が物忌みで出られない。しかも文箱は本人の部屋。鍵も本人。引き継ぎなし。つまり、準備が止まる。
赤染衛門は、すぐに私へ報告しました。
「姫様。兵衛の君が明日、物忌みとのことにございます」
「そう」
「文箱の準備が滞ります」
「引き継ぎは?」
「ございません」
「鍵は?」
「本人が」
「なるほど」
私は扇を置きました。これは物忌みではありません。いや、物忌み自体は本当かもしれません。でも、問題はそこではない。責任の置き去りです。
常盤が、すでに外の噂を拾っていました。
「姫様。登華殿方の一部では、藤壺は物忌みの扱いも分からぬのか、と」
「早いわね」
「兵衛の君が、物忌みを理由に準備を離れることを、誰かが話したようです」
「誰か?」
「本人か、その周辺かと」
つまり、こういうことです。兵衛の君は物忌みを盾に仕事を離れる。もし藤壺が困れば、外からは、
――物忌みを尊重しないとは、藤壺は信仰を軽んじるのか。
――物忌みへの備えもないとは、若い御殿は不慣れね。
――中宮様は、実務ばかりで忌み慎みの雅を知らない。
と言われる。
厄介です。
物忌みを否定すると、こちらが悪く見える。しかし、放置すれば準備が止まる。なら、やることは一つ。物忌みを尊重しつつ、業務停止を防ぐ。
私は兵衛の君を呼びました。彼女は、少し青ざめた顔で来ました。その表情は、申し訳なさと、どこか試すような気配が混じっています。
自分が責められれば、物忌みを盾にできる。そう思っている顔です。私は穏やかに言いました。
「兵衛の君。物忌みとのことですね」
「はい。急にそのように出まして……明日は慎まねばならぬと」
「それは大切なことです」
兵衛の君は、少し意外そうに顔を上げました。
「姫様」
「物忌みを軽んじるつもりはありません。明日は、きちんと慎みなさい」
彼女はほっとした顔をしました。しかし、そこで終わりません。
「ただし」
私は続けました。
「担当している文箱の準備は、消えません」
兵衛の君の顔が固まりました。
「え……」
「信仰は尊重します。でも責任が消えるわけではありません」
部屋が静まりました。赤染衛門が静かに頷きます。
「あなたが明日動けないなら、今日のうちに引き継ぎをします」
兵衛の君が戸惑いました。
「ですが、物忌みの前で」
「物忌みは明日でしょう」
「はい」
「では今日、必要なものを出し、代替担当へ渡してください」
「しかし、明日の文箱は私が」
「あなたが担当していた。だからこそ、引き継ぐ責任があります」
私は声を荒げません。怒鳴らない。怒鳴ると、物忌みを無視する強権に見える。淡々と、運用の話にします。
「文箱の鍵は、今ここで赤染衛門へ」
「鍵を……」
「ええ。物忌みで触れられぬ時、鍵を持ったままでは、あなたも落ち着かないでしょう」
兵衛の君は、言葉に詰まりました。これは逃げ道を塞ぎつつ、顔を立てる言い方です。
――あなたを疑っているから鍵を出せ。
ではありません。
――あなたが物忌みに専念できるよう、鍵を預かります。
です。
兵衛の君は、しばらく黙った後、袖から小さな鍵を出しました。
「……承知いたしました」
赤染衛門が受け取ります。
「文箱の中身を確認します」
春枝、有子、澄子が呼ばれました。兵衛の君立ち会いのもと、文箱が開けられます。中には、必要な紙と文の写しが入っていました。
ただし、整理が甘い。控えと本紙が混じり、香包みの種類も分かりにくい。
危なかった。
明日そのまま開けていたら、かなり混乱したでしょう。
「兵衛の君」
私は言いました。
「この文箱は、今日のうちに整理し直します」
「はい……」
「あなたは、何がどこにあるか説明してください」
「はい」
彼女は観念したように頷きました。文箱整理は、思った以上に手間がかかりました。春枝が紙を分類します。
「これは本紙。こちらは控え。こちらは下書きに近いので、明日出すものではありません」
有子が文の写しを確認します。
「この写しは、相手方の名が抜けています。危険です」
澄子が香包みを嗅ぎ分けます。
「こちらは強すぎます。御前では控えた方がよろしいかと」
赤染衛門が全体を記録します。
兵衛の君は、最初は小さくなっていました。けれど途中から、少しずつ説明するようになりました。
「その文は、右少弁殿からのものにございます」
「その香は、文箱の下に入れた方が移りすぎませぬ」
「その紙は予備に」
知識はあります。やはり、完全に怠け者というわけではありません。ただ、仕事を自分の手元に抱えすぎ、整理し、共有する意識が弱かった。
そして物忌みを理由に、そこから逃げようとした。これは、責めるだけでは直りません。仕組みが必要です。
「明日の代替担当は、有子」
私は言いました。有子が頭を下げます。
「承知いたしました」
「春枝は紙の確認。澄子は香の確認。赤染衛門は全体」
「はい」
「兵衛の君は、物忌みの間、部屋から出なくていい。ただし、今日のうちに説明を終えること」
「はい」
「また、物忌み中でもできる作業があれば、それをします」
兵衛の君が驚きました。
「物忌み中に、作業を?」
「人に会わず、外へ出ず、慎みながらできることです」
私は言いました。
「たとえば、過去の文箱記録の確認。文の控えを読む。明後日以降の文箱に必要な物を書き出す。祈りを妨げない範囲で」
赤染衛門が頷きます。
「在宅作業、でございますね」
私は危うく反応しそうになりました。
赤染衛門。
今、前世語に近いことを言いましたね。
いや、たぶん偶然です。
「そう。部屋でできる仕事です」
兵衛の君は、困惑していました。物忌みなら完全に何もしなくていいと思っていたのでしょう。でも、それは違う。物忌みで人と会えないなら、人に会わない仕事をする。
移動できないなら、移動しない準備をする。もちろん、体調不良や強い不安があるなら休む。しかし、今回は本人が「慎む」ための物忌みです。なら、慎みながらできることを割り振ります。
「物忌みを破れとは言いません」
私は言いました。
「でも、物忌みを盾にして、仕事を消すことはできません」
兵衛の君は、深く頭を下げました。
「承知いたしました」
翌日の文合わせは、無事に進みました。兵衛の君は物忌みにこもっています。文箱の担当は有子。春枝が紙を整え、澄子が香を見て、赤染衛門が全体を支えました。
事前に整理されていたため、むしろいつもより滑らかでした。有子は少し緊張していましたが、丁寧に文箱を扱います。
「こちらが本紙。こちらが控え。香は弱い方を」
春枝が小さく頷きます。
「紙も問題ありません」
澄子が香を確認します。
「強すぎません」
帝の御前でも、混乱はありませんでした。むしろ、帝が少し感心したように言いました。
「今日は文箱の出し入れが静かだな」
「事前に整えました」
私が答えると、帝は少し笑いました。
「また仕組みか」
「はい」
「今度は何を防いだ」
「物忌みによる準備停止です」
言ってから、少し直接すぎたかと思いました。しかし帝は、面白そうに目を細めました。
「物忌みは大事だぞ」
「承知しております」
「だが、準備も大事だ」
「はい」
「そなたは、物忌みを否定せずに、代わりの道を作ったのだな」
「そのつもりです」
帝は頷きました。
「よい。忌むべき日に無理をさせぬことも大切。だが、皆が困るのもよくない」
「はい」
「物忌みの前に備える。これは、他の御殿にも要るかもしれぬ」
女房たちが静かに息を呑みました。帝がそう言ったということは、藤壺のやり方が一つ認められたということです。
私は頭を下げました。
一方、登華殿方の一部女房は、この件を笑おうとしていました。常盤が報告します。
「姫様。あちらでは、藤壺は物忌みの者にまで仕事をさせるのか、と」
「そう来るでしょうね」
「ただ、文合わせが滞らなかったため、あまり広がっておりません」
「なぜ?」
「帝が『物忌みの前に備えるのはよい』と仰せになったことが伝わったようです」
帝の一言は強い。ありがたいことです。少納言の君からも文が来ました。
『物忌みを破らず、仕事も破らず。藤壺の御方は、鬼神にも帳面を渡されるのでしょうか』
うまい。
私は笑いました。返事を書きます。
『鬼神にも御都合あらば、前日までに知らせ給はまほしきものにて』
(鬼神にも都合があるなら、前日までに知らせてほしい。)
赤染衛門が読んで、少し肩を震わせました。
「姫様。これは少し」
「だめ?」
「いえ、少納言の君には通じましょう」
「清少納言様なら怒る?」
「笑います。たぶん」
たぶん。ならよし。
しかし、問題はここからです。物忌み自体は、これからも起こります。本人が悪用しようがしまいが、急な物忌みはあります。だから、今回だけの対応ではだめです。私は女房たちを集めました。
「藤壺では、物忌み対応の仕組みを作ります」
赤染衛門が筆を取りました。
「題は?」
「物忌み運用覚」
「もう少し雅に」
「忌み慎みの備え覚」
「よろしゅうございます」
内容は以下です。
一、物忌みは尊重する。無理に外へ出させない。
二、担当者は、物忌みや不在の可能性に備え、日頃から文箱・記録・鍵を一人で抱えない。
三、重要な準備には必ず代替担当を決める。
四、前日までに引き継げるものは引き継ぐ。
五、鍵・文箱・控えは、必要時に赤染衛門または指定者が扱えるようにする。
六、人に会わず部屋でできる作業を用意する。ただし体調不良時は休む。
七、物忌みを理由に作業が止まった場合、責める前に仕組みの不足を見る。
八、同じ者が繰り返し物忌みを理由に責任を放棄する場合、担当を見直す。
九、信仰を盾に怠慢を隠さない。
十、慎むことと、投げ出すことは違う。
最後の一文に、赤染衛門が深く頷きました。
「慎むことと、投げ出すことは違う」
「大事でしょう」
「はい」
女房たちも、それぞれ頷きました。春枝が言います。
「紙箱も、私一人しか分からぬ状態では危うございますね」
「そうね」
「補佐を決めます」
「お願い」
有子も言いました。
「筆写の控えも、誰が見ても分かるようにしておきます」
小少将は、
「装束の支度も、急な物忌みで一人が動けぬ時に備えます」
と。
澄子は、
「香は、強さと用途を札にしておけば、代わりの者も扱いやすいかと」
と提案しました。
よい。
物忌み対応は、御殿全体の属人化を減らす機会になりました。
属人化。
また前世語です。言い換えれば、一人だけが知る状態を減らすこと。一人しかできない仕事は、その人が倒れた時、物忌みの時、気分を害した時、すぐ止まる。
それは危険です。
数日後、兵衛の君が物忌み明けで出てきました。少し顔色が悪い。ただ、以前のような試す目はありませんでした。
「姫様」
「物忌みは無事に明けた?」
「はい」
「よかった」
兵衛の君は、深く頭を下げました。
「このたびは、ご迷惑を」
「物忌みは迷惑ではありません」
私は言いました。
「引き継ぎがなかったことが問題でした」
「はい……」
「次からは備えましょう」
「はい」
彼女は少し迷ってから、袖から紙を出しました。
「物忌みの間、部屋でできることとして、文箱に必要な品を書き出しました」
赤染衛門が受け取り、確認します。
「よく整理されています」
兵衛の君の顔が、少し明るくなりました。
「部屋にこもっていても、できることがあるのですね」
「あるわ」
「これまで、物忌みはすべて止まるものと思っておりました」
「止めるべきこともある。でも、止めなくてよいこともある」
私は言いました。
「それを分けるのが大事です」
兵衛の君は、深く頷きました。
「承知いたしました」
これで少しは変わるでしょう。完全に信じるには早い。でも、変化の芽はあります。
夜。
私は文箱の鍵の管理表を見ていました。
鍵。
文箱。
控え。
代替担当。
物忌み時の連絡。
また藤壺が実務に寄りました。
でも、これでいい。
平安の宮中では、迷信や信仰を正面から否定しても、何も良いことはありません。
むしろ反発され、こちらが無作法に見えるだけです。
ならば、運用を整える。
信仰の領域は尊重する。
その上で、責任の領域を明確にする。
物忌みだから外へ出ない。
よろしい。
では、代替担当を立てましょう。
物忌みだから人に会わない。
よろしい。
では、人に会わずできる確認をしましょう。
物忌みだから触れられない。
よろしい。
では、前日までに鍵を預けましょう。
こうしていけば、物忌みを盾にした怠慢だけが封じられます。
信仰は残る。
怠慢は消える。
理想的です。
赤染衛門が、そっと声をかけました。
「姫様」
「何?」
「今日の仕組みは、たいへんよいと思います」
「珍しく素直ね」
「物忌みを否定せず、仕事を守る。これは宮中で受け入れられやすいかと」
「そうだといいけど」
「ただし」
「ただし?」
「鬼神にも前日までに知らせてほしい、という御返事は、少々危うございます」
「少納言の君宛だから」
「清少納言様まで届きます」
「でしょうね」
「笑われます」
「怒られるよりいいわ」
「半分は怒られるかもしれません」
「半分ならいい」
赤染衛門は、呆れたように笑いました。
藤壺は、物忌みを潰しません。運用します。古典的な迷信を、現代的な運用設計で無力化します。
……などと言うと、また赤染衛門に「何をおっしゃっているのですか」と聞かれるので、黙っておきます。
信仰は心を守る。仕組みは仕事を守る。その両方があれば、御殿は静かに回ります。明日も誰かが物忌みにこもるかもしれません。
よろしい。
どうぞ慎んでください。その代わり、前日までに鍵をください。
鬼神の皆様も、できれば早めのご連絡をお願いいたします。
〜 出典 〜
『源氏物語』帚木の巻/物忌み(方違え)
「今宵、中神、内裏よりは塞がりてはべりけり」……「いとよかなり。悩ましきに、牛ながら引き入れつべからむ所を」とのたまふ。
〜 舞台背景 〜
『源氏物語』帚木の巻のタイトル『帚木』は箒を逆さにした伝説上の木です。遠くからはよく見えるけれど、近づくとどこにあるのか分からなくなるという「不思議な木」とされ、人の心のうつろい、迷い、不確かなものの例えとして多くの都人の歌に詠まれています…と、なんか回りくどいんですが、要は「人妻と不倫」の巻です。
で、そこに物忌みがどう関係するかと言うと、(家臣が)「今夜は、中神が塞がっている凶の方角にあたります」と報告すると、(主人公の源氏の君が)「それはちょうどいい。気分が悪いから、牛車に乗ったまま直接乗り入れられるような家を手配してくれ」と「方塞がり(凶の方角)」という当時の絶対的なルールを悪用して、ターゲット(人妻・空蝉)がいる家臣の邸へ堂々と夜這いをします。※この定期的に降臨する中神が歩く方向が凶の方角
という非常に複雑な話を大学入試、高校受験の古典問題で10分〜15分で解く必要があるって…最初からストーリー知ってなきゃ不可能です。…という事で是非ブックマークしてお勉強の一助にご活用下さいw




