二十四 牛車渋滞、雅ではなく動線問題
行事の日、牛車の位置取りで女房同士が揉める。定子方が彰子方の車を奥へ追いやり、見物しづらい場所にする。彰子は怒らず、次回から到着時間・車順・退出経路を事前に調整する表を作成。さらに混雑を避けるため、見物場所の価値を複数に分散する。
牛車は、ステータスです。前世で言えば、高級車です。ただ移動するためのものではありません。
どの牛車に乗るか。誰の牛車か。どこに停めるか。誰の車と並ぶか。どれだけ人目につくか。御簾の隙間から、どの程度姿が見えるか。それら全部が、身分と評判に関わります。
つまり、牛車は移動手段であると同時に、移動する名刺であり、見せるための舞台でもあります。
だから、行事の日の車争いは激しい。前世でも、イベント会場の駐車場や、花火大会の場所取りや、人気ライブの入場列で似たようなことがありました。
少しでも見やすい場所。少しでも早く出られる出口。少しでも人に見られる位置。少しでも格上に見える並び。人は、場所に意味を乗せます。
そして、意味のある場所は争われます。平安宮中では、それが牛車で起こります。
有名な話で言えば、『源氏物語』の葵の上と六条御息所の車争いです。祭の見物場所をめぐって、女たちの立場と感情がぶつかり、やがて怨念にまでつながる。
車の位置取りは、ただの場所取りではありません。誰が正妻か。誰が退けられたか。誰が人前で恥をかいたか。そういうものを可視化してしまう。
つまり牛車は、危険です。
可愛い災害が猫なら、牛車は雅な交通事故です。そして今回、藤壺はその交通事故に巻き込まれました。
その日は、宮中の大きな行事がありました。帝も御覧になる。公卿たちも集まる。女房たちも、牛車を連ねて見物に出る。当然、登華殿方も来ます。こういう時、場所取りは戦です。
ただし、表向きは雅です。女房たちは美しい装束をまとい、御簾の内から優雅に景色を眺め、歌を交わし、季節を愛でる。
しかし裏では、どの車が先に入るか。どの車が前に出るか。どの御殿の車が見やすい位置を取るか。どの女房がどこに座るか。退出の時、どの車が詰まらず出られるか。そういう実務が渦巻いています。
私は出発前から少し嫌な予感がしていました。
「赤染衛門」
「はい」
「今日の車の手配、確認した?」
「はい。藤壺の車は三輛。姫様の御車、女房たちの車二輛。到着は少し早めを予定しております」
「登華殿方は?」
「同じく早めに動くとの噂が」
常盤が横から言いました。
「登華殿方は、見物しやすい南側の位置を取るつもりのようです。特に少納言の君が、かなり張り切っていると」
「南側が良席なの?」
小少将が答えました。
「はい。行列の正面がよく見え、日差しもほどよく、他の御殿からも目につきやすい位置にございます」
「なるほど」
良席。つまり争われる場所です。私は少し考えました。
「混みそうね」
「混みます」
赤染衛門が即答しました。
「車の出入りも多く、退出時にはかなり詰まるかと」
「なら、あまり前に出すぎない方がいい?」
「見物の見栄えを取るなら前。退出の容易さを取るなら少し後ろにございます」
うん。
完全にイベント会場の駐車場です。最前列は見やすいけれど、帰りに出られない。後方は少し見にくいけれど、退出が楽。これは事前設計が必要です。
ただ、今日はもう遅いので初回は、状況を見るしかありません。
「無理に争わないで」
私は言いました。
「よろしいのですか」
小少将が心配そうに尋ねます。
「場所取りで負けたように見えるかもしれませぬ」
「見物できないほど悪ければ別だけど、無理な押し合いは避けます」
「承知しました」
この判断が、のちに女房たちを一度悔しがらせることになります。現地に着くと、すでに牛車がひしめいていました。
牛。車。従者。女房。御簾。声。衣の色。牛の鼻息。車輪の軋み。雅な行事の前とは思えない混雑です。美しい装束の中身は、かなりの交通渋滞。私は御簾の内から外の様子を見ました。南側の良席には、すでに登華殿方の車が入り込んでいます。
しかも、うまい。
車と車の間を詰めすぎず、しかし他の車が前へ入りにくいように配置している。これは、慣れています。常盤が小さく言いました。
「姫様。あの配置、かなり意図的です」
「でしょうね」
登華殿方の女房たちは、こちらの車に気づくと、上品に会釈しました。少納言の君も見えます。
扇の陰で、ほんの少し笑っている。嫌な予感が的中しました。藤壺の車が南側へ寄ろうとすると、登華殿方の従者がこう言いました。
「こちらはすでに車が詰まっておりますれば、恐れながら奥へ」
奥。
つまり、見物しづらい位置です。しかも退出時にも出にくい。最悪です。藤壺の従者が少し抗議しようとしましたが、相手も慣れたものです。
「恐れながら、先に参りました車がありまして」
「こちらも御方様の御車にございます」
「いずれの御方様も大切にございますれば、順に」
順に。
便利な言葉です。つまり、先に取った者勝ち。女房たちの間に悔しさが広がりました。春枝は袖を握りしめています。小少将は口元を引き結びました。有子は何か言いたそうですが、抑えています。常盤は怒りを情報として記録し始めた顔です。赤染衛門は静かに私を見ました。
「姫様、いかがいたしましょう」
私は外を見ました。ここで押し返せば、車争いになります。人目もある。葵の上と六条御息所のような、後々まで残る恥と怨みの場になる可能性があります。それは避けたい。
「奥へ」
「よろしいのですか」
「今日は奥へ」
女房たちが一瞬、息を呑みました。悔しいでしょう。私も悔しいです。でも、ここで車を押し合っても、得るものは少ない。相手は、こちらが怒るところを見たいのです。怒れば、こう言われます。
――藤壺の姫様方は、場所取りで大層お怒りになって。
――まだ若い御殿は、車の扱いも慣れぬのですね。
――雅な行事が、騒がしくなりましたこと。
負けです。だから今日は、負けを記録します。次回、仕組みで勝ちます。
奥の場所は、確かに見づらく、行列は斜めにしか見えません。人の動きも、前の車に遮られます。南側の登華殿方は、見事な位置から見物していました。少納言の君が、時々こちらをちらりと見ます。
あの顔。勝ち誇っています。女房たちの悔しさは限界でした。
「姫様……」
春枝が小さく言いました。
「見えませぬ」
「見えないわね」
「せっかく紙も用意しましたのに」
「記録しづらい?」
「はい。何が起きているのか、前の車の影で」
有子も頷きました。
「歌を記すにも、場面が分かりにくうございます」
小少将は、装束が見えないことに悔しそうです。
「色の流れが見えませぬ。前の車の御簾ばかり」
常盤が言いました。
「ただし、奥に追いやられたことはよく分かりました」
「そこだけ記録しないで」
「はい」
いや、記録は必要です。ただし、感情的にではなく、事実として。私は外を見ながら言いました。
「今日の問題を分けましょう」
赤染衛門が、すでに筆を構えました。牛車の中で筆を構える女房。藤壺らしくなってきました。
「一つ目、到着時間」
「はい」
「登華殿方に先に良席を取られました」
「はい」
「二つ目、車順」
「姫様の御車と女房の車の間に、他の車が入りやすかったですね」
澄子が言いました。彼女は観察が鋭い。
「三つ目、退出経路」
「今の位置では、帰りにかなり詰まります」
赤染衛門が答えます。
「四つ目、見物場所の価値が一箇所に集中しています」
女房たちがこちらを見ました。
「価値が、一箇所に?」
「ええ。南側だけが良席と思われているから、皆そこを争います」
私は言いました。
「なら、次回は見物の価値を分散します」
「分散……?」
小少将が首を傾げました。
「南側は正面が見えます。でも、別の場所には別の価値があるはず」
私は周囲を見ました。
「たとえば、北寄りは日差しが弱く涼しい。西側は退出が早い。少し高い位置なら全体の流れが見える。行列の始まりを見る場所、終わりを見る場所、人物を見る場所、装束を見る場所、牛車を見る場所、休みやすい場所」
赤染衛門が、静かに頷きました。
「良席を一つと決めなければ、争いに巻き込まれませぬね」
「そう」
「姫様」
常盤が目を輝かせました。
「つまり、登華殿方が正面席を争っている間に、こちらは目的別の席を取るのですね」
「そういうこと」
「面白うございます」
「楽しそうにしすぎない」
でも、常盤の言う通りです。良席争いに乗らない。良席の定義を変える。これは強い。
その日の帰り。予想通り、車は詰まりました。南側の良席は、退出時に最悪の場所でした。前に出る車。横から入る車。牛が動かない。従者が揉める。女房たちの声が漏れる。登華殿方も、かなり足止めされていました。良席を取った代償です。
藤壺は奥へ追いやられたため、出づらいかと思いきや、少し離れた側道へ抜けることができました。澄子が見つけた道です。
「こちらから出れば、正面の混雑を避けられます」
彼女の観察は本当に頼もしい。結果、見物はしづらかったものの、退出は思ったより早かった。牛車の中で、女房たちは少し複雑な顔をしていました。
「悔しいです」
春枝が言います。
「ええ」
私は頷きました。
「でも、早く帰れました」
有子が言いました。
「それも大事」
小少将は考え込んでいます。
「見物の位置は、正面だけが良いわけではない……確かに、今日も奥から見えたものが少しありました。車の後ろ姿や従者の動きなど」
「次回は、それも価値にしましょう」
赤染衛門が、筆を取り出しました。
「では、帰りましたら表を作りますね」
「ええ」
「牛車動線覚、でよろしいですか」
「さすが衛門。話が早い」
「慣れました」
少し寂しいような、頼もしいような。翌日、藤壺では本格的な牛車対策会議が開かれました。
会議。もちろん宮中ではそんな言葉は使いません。表向きは「次の御見物のための支度相談」です。実態は、完全にイベント運営改善会議です。まず、前回の問題点を洗い出しました。
一、到着時間が登華殿方より遅かった。
二、良席を一箇所と見なしすぎていた。
三、車の並びが分断されやすかった。
四、退出経路を事前に確認していなかった。
五、見物目的が曖昧だった。
六、従者への指示が現場任せだった。
七、奥へ追いやられた時の代替案がなかった。
女房たちは真剣です。春枝は、車内で記録しやすい紙の大きさを検討しています。有子は揺れる車でも書きやすい筆を選びます。小少将は、見物場所ごとの装束の見え方を考えます。
澄子は、現地の道と日陰の位置を思い出しながら図を描きます。常盤は、各御殿がどの席を狙うかの噂を集めています。赤染衛門は、全体をまとめます。
私は、表を作りました。牛車見物支度表。項目は以下です。
・行事名
・予想到着混雑時刻
・藤壺出発時刻
・車順
・第一候補位置
・第二候補位置
・第三候補位置
・見物目的
・日差し、風、退出のしやすさ
・従者への指示
・他御殿との接触注意
・退出経路
・緊急時の合流場所
赤染衛門が、表を見て深く息を吐きました。
「姫様。これはもう、行事見物というより軍の進退にございます」
「車争いは戦でしょう」
「否定できません」
次に、見物場所の価値を分散しました。これが今回の要です。南側正面席だけを「良席」と定義すると、そこを取れなかった時点で負けです。しかし、目的別に価値を分ければ、勝ち筋が増えます。私はまとめました。
「藤壺の良席は一つではありません」
女房たちが頷きます。
「装束を見る席、記録する席、涼む席、退出しやすい席、他御殿を観察する席。目的ごとに良席を設定します」
赤染衛門が筆を走らせました。
「良席分散覚、ですね」
「そう」
「また新しい言葉が」
「でも使えるでしょう」
「たいへん使えます」
数週間後、次の行事がありました。登華殿方は、また南側正面の良席を狙っていました。常盤の情報によれば、前回の勝利に味をしめ、今回も早く出るつもりとのこと。
しかも、今回は他の御殿もその動きを読んでおり、南側はさらに激戦になる見込みでした。つまり、良席争いは泥沼化します。
藤壺はどうしたか。南側を第一候補から外しました。代わりに、少し北寄りで風通しがよく、日陰があり、行列が斜めに見える場所を選びました。
正面ではありません。しかし、装束の色の流れがよく見えます。さらに、車を停める位置を少しずらせば、退出経路へも早く出られる。
小少将は、その場所を見て目を輝かせました。
「姫様、この位置、色が重なりませぬ。行列が横へ流れるので、袖の変化がよく見えます」
「でしょう」
春枝も嬉しそうです。
「日差しが強くないので、紙が白く飛びませぬ」
有子も頷きます。
「人声も南側より少なく、記録しやすうございます」
澄子は、出口の方向を見て言いました。
「退出も早そうです」
常盤は、遠くの南側を見ていました。
「登華殿方、かなり混んでおりますね」
見ると、南側ではすでに車が詰まり始めていました。登華殿方は良席を取ってはいます。しかし、他の御殿の車も押し寄せ、従者同士がかなり気を遣っています。少納言の君の姿も見えました。扇の陰で笑っていますが、少し疲れているようにも見えます。良席は取った。でも、維持するのが大変そう。
その間、藤壺は涼しい場所で、静かに見物していました。香は控えめ。紙も安定。牛も落ち着いている。女房たちは、思い思いに記録し、観察し、歌を詠みます。見物というより、快適な現地調査です。赤染衛門が、ぽつりと言いました。
「姫様。これは……楽でございますね」
「でしょう」
「良席争いに勝つより、楽な席を作る方がよい場合もあるのですね」
「そう」
勝ち方は一つではありません。相手が一等席を争って疲弊している間に、こちらは別の価値軸で快適に見る。これが、今回の答えです。
行事の途中、少納言の君から文が届きました。小さく折られた紙には、こうありました。
『藤壺の御方は、また争はぬ場所にて勝ちを拾はれましたね。南の席、見えはよけれど風も人も強うございます』
私は思わず笑いました。見抜かれています。返事を書きました。
『正面の花は見事に候へど、斜めより見れば枝ぶりも見ゆるものにて』
(正面の花は見事ですが、斜めから見ると枝ぶりも見えますわ。)
少納言の君への返しとしては、悪くないでしょう。しばらくして、彼女からまた短い返事が来ました。
『枝ぶりを見る御方には、花を争ふ者どもが滑稽に見え候ふらむ』
私は、少しだけ肩をすくめました。滑稽とまでは言いません。でも、疲れそうだとは思います。退出時、差ははっきり出ました。南側の良席周辺は、また詰まりました。前回よりひどい状況です。良席を狙った車が増えたため、牛車が絡み合うように停まっています。
従者は声を上げ、牛は動かず、女房たちは御簾の内で苛立っています。
一方、藤壺の車は、事前に決めた退出経路へ静かに移動しました。順番も決めてあります。姫様の御車。女房の車一。女房の車二。従者の待機位置。
誰がどこを見るかも決まっています。澄子が出口の空きを見ます。常盤が他御殿の車の動きを確認します。赤染衛門が合図を出します。
スムーズ。驚くほどスムーズです。女房たちが牛車の中で顔を見合わせました。
「もう出られましたね」
春枝が言います。
「ええ」
有子が記録します。
「退出、前回より大幅に早し」
赤染衛門が、少し笑いました。
「姫様。これは、たいへん気持ちよろしゅうございます」
「でしょう」
「車争いを避けるだけで、これほど違うとは」
「争いはコストが高いのよ」
「こすと?」
「手間」
「なるほど」
雅な言葉に直すなら、争いは心と時を多く費やす、でしょうか。つまりコストです。
藤壺へ戻ってから、女房たちはいつになく満足げでした。さっそく、私は赤染衛門と心得をまとめました。
題は、牛車見物の動線覚。内容はこうです。
一、牛車の位置取りは、雅ではなく動線問題でもある。
二、良席を一つと決めつけない。目的ごとに良席を分ける。
三、到着時間、車順、退出経路を事前に決める。
四、従者への指示は簡潔にする。
五、現地で争わず、次回の設計に活かす。
六、見物の目的を明らかにする。装束、歌、記録、涼しさ、退出のしやすさ。
七、良席争いに相手を疲弊させ、自分たちは別の価値で勝つ。
八、争いは心と時を費やす。避けられる争いは避ける。
九、優雅さは、事前の動線で作られる。
赤染衛門が最後の一文を書き、しみじみと言いました。
「優雅さは、事前の動線で作られる」
「名言でしょう」
「姫様らしすぎて、少し雅から遠うございますが」
「でも本当よ」
「本当でございます」
赤染衛門は笑いました。
「今日の藤壺は、たいへん優雅に見えました。裏にこの表があるとは、誰も思いますまい」
「それでいいの」
裏が見えないことも、雅です。ただし、裏がないわけではない。見えない準備が、見える優雅を作る。
私は、今日の牛車表を文箱へ収めました。前回、奥へ追いやられて悔しかった記録も一緒に。失敗は、消しません。失敗があるから、改善できます。もし前回、無理に押し合っていたら、今日の仕組みは生まれなかったかもしれません。
負けを持ち帰り、構造を見る。相手が場所で殴ってくるなら、こちらは動線で返す。相手が一つの良席を奪い合うなら、こちらは良席の定義を増やす。それが藤壺流です。
石の中宮の御殿には、今日また一つ、道が引かれました。
牛車の道。人の動線。争いを避け、涼しい場所へ抜けるための道。
南の良席で汗をかきながら勝ち誇るより、斜めの木陰で涼しく全体を見る。それもまた、勝ち方です。
藤壺は、良席を奪い合わない。良席は作るのです。
そして、帰り道まで美しく整える。
優雅さとは、後ろ姿にこそ出るものです。
〜 出典 〜
『源氏物語』葵の車争い
日たけゆきて、儀式も わざとならぬ さまにて 出で たまへり。隙もなう 立ちわたり たるに、 よそほしう 引き続きて 立ちわづらふ…
〜 舞台背景 〜
葵 (源氏物語)は『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第9帖。巻名は光源氏と源典侍の歌「はかなしや人のかざせるあふひゆえ神のゆるしのけふを待ちける」および「かざしける心ぞあだに思ほゆる八十氏人になべてあふひを」に由来する。謡曲『葵上』(世阿弥作か)の題材にもなっている。賀茂祭(葵祭、4月 (旧暦)の中の酉の日)の御禊(賀茂斎院が加茂川の河原で禊する)の日、源氏も供奉のため参列する。その姿を見ようと身分を隠して見物していた六条御息所の一行は、同じくその当時懐妊して体調が悪く気晴らしに見物に来ていた源氏の正妻・葵の上の一行と、見物の場所をめぐっての車争いを起こす。出典:wikipedia




