二十二 漢籍マウント、読み下しで粉砕
男たちが漢籍の一節を持ち出し、女房たちを試す。定子方は清少納言の機知で返すが、彰子はさらに一歩進め、難解な漢文を女房たちにわかる言葉で解説する。「知識は、わからない者を黙らせるためではなく、使える者を増やすためにあるのです」。
知識は、便利です。知っているだけで、見えるものが増える。
知らなかった時にはただの模様だったものが、意味のある文になります。
ただ美しいだけに見えた言葉の奥に、誰かの思想や歴史や感情があると分かります。
知識は、人を自由にします。
……本来は。
けれど知識は、時々、人を黙らせる道具にもなります。前世でもそうでした。会議で、急に専門用語を並べる人。相手が知らない前提で、略語を連発する人。「そんなことも知らないの?」という顔をする人。質問した人を、やんわり馬鹿にする人。
います。いました。
そして、そういう場では、知識そのものよりも、知識を持っている人の顔つきが嫌です。
――分からないなら黙っていなさい。
そう言外に言われる。結果、分からない人は質問できなくなる。質問できないから、いつまでも分からない。分からないから、さらに黙る。知識が、壁になります。本当は橋になれるはずなのに。
平安宮中でも、それは同じです。特に漢籍。漢詩。漢文。『白氏文集』。『史記』。『文選』。故事。漢語の言い回し。これらは教養の証です。男たちは、それを当然のように扱います。
女房たちの中にも、漢籍に通じた人はいます。清少納言のように、機知で返す人もいます。けれど、多くの女房にとって、漢籍は少し遠い。読めないわけではない。聞いたことはある。断片なら分かる。
でも、男房たちが得意げに持ち出す難しい一節を、その場で読み解き、意味を取り、さらに気の利いた返しをするとなると、話は別です。そこで黙れば、笑われる。知ったかぶれば、もっと危ない。
私は思います。
分からない人を黙らせる知識なら、そんなものは支配です。使える人を増やす知識こそ、力です。
その日の藤壺は、少しざわついていました。
帝がお越しになる予定があり、さらに数名の殿上人や男房たちも伴われるとの知らせがあったからです。
正式な学問の会ではありません。表向きは、近頃の歌や物語、香の話を交えた軽い座。
でも、軽い座ほど油断できません。軽い顔をして、相手の教養を試す人がいるからです。赤染衛門が、私のそばで低く言いました。
「姫様。本日は、右少弁殿と蔵人の少将殿もお越しになるとか」
「漢籍に強い方?」
「はい。どちらも漢詩文を好み、女房たちの前でもよく故事を引かれる方にございます」
「なるほど」
つまり、漢籍マウントの予感です。春枝は紙箱を整えながら、不安そうにこちらを見ています。
「姫様、漢文の御話になりますか」
「たぶんね」
「私、漢字が多いものは……紙としては美しゅうございますが、意味は」
「大丈夫」
私は微笑みました。
「分からないことは恥ではないわ」
春枝が、ほっとしたような顔をしました。小少将は、少し真面目な表情です。
「漢籍の故事を装束に重ねて語られると、時折、意味が追いつかぬことがございます」
有子も頷きます。
「写すことはできます。けれど、意味までその場で取るとなると」
澄子は静かに言いました。
「分からぬまま頷くのは、危ううございますね」
「ええ」
菅原の君は、物語係らしく少し興味を示しています。
「漢籍にも、物語の筋がございますものね。そこが分かれば面白いのですが」
「そう」
私は頷きました。
「だから今日は、もし漢籍が出たら、分かる言葉にします」
赤染衛門が、少し嫌な予感を覚えた顔をしました。
「姫様」
「何?」
「男房の方々の御前で、漢籍を女房たちに読み下して解説なさるおつもりですか」
「ええ」
「それは……」
「雅でない?」
「いえ」
赤染衛門は少し考えました。
「たいへん挑発的にございます」
「そう?」
「男方が権威として持ち出すものを、姫様が皆の前で噛み砕いてしまえば、相手の高さが低くなります」
「低くするのではなく、段をつけるの」
「段?」
「皆が登れるように」
赤染衛門は、しばらく私を見ました。そして、静かに頷きました。
「承知いたしました。必要なら、記録いたします」
「お願い」
帝がお越しになると、場はすぐに整いました。今日の香は控えめ。月見の余韻から少し離れ、秋の深まりを感じる程度の落ち着いた香です。
女房たちは、それぞれの役割で動いています。春枝は紙。有子は筆。小少将は色。澄子は場。常盤は情報。菅原の君は語りの流れ。赤染衛門は全体。
そして、登華殿方からは少納言の君も来ていました。清少納言本人はいません。しかし、少納言の君は、かなり強い機知を持っています。漢籍の話になれば、定子方として軽やかに返すつもりでしょう。
帝が座に落ち着かれると、まずは穏やかな話題が続きました。秋の月。最近の歌。香の記憶覚の噂。命婦のおとどがどちらの御殿で眠ったか。猫の話になると、帝の顔が少し柔らかくなります。
平和です。
しかし、平和は長続きしません。右少弁が、ふと庭の萩を見て言いました。
「秋の草を見るにつけ、白楽天の句を思い出しますな」
来ました。白楽天。
『白氏文集』。平安貴族の大好物です。右少弁は、少し得意げに続けました。
「『離離原上草、一歳一枯栄』。実に、世の移ろいをよく言い当てております」
漢詩の一節。有名ではあります。
ただ、その場の女房全員がすぐ意味を取れるわけではありません。右少弁は、さらに続けます。
「さて、この句を御簾の内の方々は、いかに御覧になりますかな」
来ました。女房試し。
悪意がむき出しというほどではありません。でも、少しあります。
――分かりますか?
――ただ美しい草と見るだけではなく、漢詩の趣を取れますか?
という顔。少納言の君が、すぐに微笑みました。
「野の草が年ごとに枯れ、また栄えるとは、まことに人の世も同じにございますね。枯れたと思う心も、春にはまた思ひ返すこともありましょう」
うまい。
漢詩の意味を軽く取り、恋や人生へ広げています。右少弁は満足げに頷きました。
「さすが登華殿の御方は、返しが早い」
少納言の君は、軽く扇を伏せます。藤壺の女房たちは少し緊張しました。ここで、私が難しい漢籍解釈をすることもできます。でも、それでは男房と同じ土俵です。
そして女房たちは、また「分かる人だけが楽しむ場」に置き去りになる。だから、私は口を開きました。
「右少弁殿」
「はい」
「よい句を引いてくださいました」
まず褒めます。知識を持ち出した相手をいきなり叩く必要はありません。
「ただ、せっかくですので、皆で分かるように読みましょう」
右少弁の表情が、少し止まりました。
「皆で、でございますか」
「ええ」
私は女房たちを見ました。
「『離離原上草、一歳一枯栄』。これは、難しい言葉のように聞こえますが、景色はたいへん分かりやすいの」
春枝が、少し顔を上げます。
「広い野原に草が生い茂っている。その草は、一年に一度枯れ、また栄える。冬に枯れても、春にはまた芽を出す」
私は続けました。
「つまり、草は一度枯れて終わりではない。枯れることと栄えることを、毎年繰り返している」
小少将が、静かに頷きました。
「衣の季節替わりにも似ておりますね。色が去って、また別の色が来る」
「そう」
春枝が言います。
「紙も、古いものを下げ、新しいものを出します」
「それも同じ」
菅原の君が目を輝かせました。
「物語の人物も、一度落ちたように見えて、別の場面でまた立ち上がることがございます」
「ええ」
私は右少弁を見ました。
「この句は、ただ無常を嘆くだけではなく、再び栄える力も見ています。枯れることと生えることは、対になっています」
帝が、少し身を乗り出しました。
「なるほど。枯れる草を哀れむだけではないのだな」
「はい」
「また生えることまで、句の中にある」
「そのように思います」
右少弁は、少し意外そうな顔をしていました。漢詩を説明する中宮。しかも、自分だけの解釈を披露するのではなく、女房たちの視点へつなげていく。
想定と違ったのでしょう。蔵人の少将が、少し面白がるように言いました。
「では、姫様。さらに続く句はいかがでしょう。『野火燒不盡、春風吹又生』」
これは、さすがに有名です。野火で焼いても尽きず、春風が吹けばまた生える。生命力の句。ただし、ここでも試しの色があります。私は頷きました。
「よい続きです」
そして、女房たちに向かって言いました。
「これは、野火で焼かれても草の根までは尽きない。春風が吹くと、また生えてくる、という意味ね」
春枝が小さく息を呑みました。
「焼かれても……」
「ええ」
「それは、燃やす用の紙とは違いますね」
部屋に小さな笑いが起こりました。春枝らしい発想です。
「紙は燃えたら戻らないわね。でも草は、根が残れば戻る」
私は言いました。
「だからこの句の大事なところは、表に見える草ではなく、見えない根にある」
澄子が目を上げました。
「根」
「ええ。野火は地上を焼く。でも根があれば、また生える」
私は女房たちを見ました。
「御殿も同じです。一度評判が落ちても、根があれば戻れる。逆に、表だけ華やかでも根がなければ、少しの火で終わります」
空気が、少し変わりました。これは藤壺そのものの話でもあります。私たちは、根を作ってきました。紙箱。記録。役割分担。知識共有。女房の育成。写本管理。華やかな花ではない。でも、根です。帝が静かに言いました。
「藤壺の根か」
「はい」
「そなたは、漢詩を御殿作りに読むのだな」
「使えるように読みたいのです」
私は答えました。
「ただ美しく引用するだけでは、もったいのうございます」
右少弁と蔵人の少将が、少し顔を見合わせました。少納言の君は、扇の陰で笑っています。たぶん面白がっています。
右少弁は、さらに少し難しい一節を持ち出しました。
「では、これはいかがでしょう」
彼は、やや声を整えて読みました。
「『文章合為時而著、歌詩合為事而作』」
おお。
これはまた、強いところを出してきました。白楽天の文学観として知られる言葉。文章や詩はただ飾りではなく、その時代や出来事に応じて書かれるべきもの。という趣旨です。
これは、藤壺にとって非常に相性がいい。
私は心の中で少し笑いました。右少弁殿、よい球をありがとうございます。
「その句は、今日の藤壺にはたいへんありがたいものです」
私が言うと、右少弁は少し眉を上げました。
「ありがたい?」
「ええ」
私は女房たちへ向き直りました。
「まず読みましょう」
有子が筆を構えます。
「文章は時のために著し、歌詩は事のために作る。」
私はゆっくり読み下しました。
「これは、言葉をただ飾りとして使うな、ということでもあります。今この時に必要なこと、起きている事柄に応じて、言葉を働かせなさい、という考え方です」
女房たちは、真剣に聞いています。少納言の君の扇が止まりました。帝も静かに聞いています。
「藤壺で私たちがしていることも、これに近い」
赤染衛門が、少し驚いた顔をしました。
「恋文を添削する。夢を聞き取る。香を場に合わせる。物語を人心理解に使う。これらは、言葉や知識を飾りにせず、事に応じて使うことです」
右少弁の顔から、少し得意げな色が消えました。漢籍を、こちらの御殿の実務に接続されるとは思っていなかったのでしょう。
「この句は、殿方の学問だけに閉じておくには惜しい」
私は言いました。
「女房たちにも必要な考え方です」
春枝が、小さく頷きます。
「紙も、ただ美しいためだけではなく、どの文に使うかで意味が変わります」
「そう」
有子が言いました。
「記録も、飾るためではなく、後で使えるために残すもの」
「ええ」
菅原の君は、少し興奮した声で言いました。
「物語も、ただ夢見るためではなく、人の心を見るために読めます」
「その通り」
帝が、静かに笑いました。
「なるほど。白楽天も、藤壺ではずいぶん働かされる」
部屋に笑いが広がりました。でも、悪い笑いではありません。知識が、場に降りてきた笑いです。蔵人の少将が、やや感心したように言いました。
「姫様は、漢籍を女房たちにお教えになるのですか」
「必要なら」
「女房たち皆に?」
「ええ」
「難しゅうはございませぬか」
「難しいまま置けば、難しいままです」
私は答えました。
「分けて、読んで、使い道を示せば、少しずつ近づけます」
右少弁が言いました。
「しかし、漢籍には深い学びが要ります。軽々しく扱うと、かえって誤ることも」
「その通りです」
私は頷きました。
「ですから、詳しい方には詳しく教えていただきたい」
右少弁は少し意外そうにしました。
「教える、でございますか」
「はい。権威として掲げるだけではなく」
私は静かに言いました。
「使える者を増やすために」
部屋が静まりました。
「知識は、分からない者を黙らせるためではありません」
私は一語ずつ置くように続けました。
「使える者を増やすためにあるのです」
春枝が、はっとした顔をしました。有子の筆が止まります。赤染衛門が、静かにこちらを見ました。帝は、表情を変えずに聞いています。
「もちろん、すべての女房が漢籍に深く通じる必要はありません。紙を見る者は紙を。衣を見る者は衣を。物語を見る者は物語を。それぞれの役目があります」
私は続けました。
「けれど、誰かが漢籍を引いた時、意味も分からず黙るだけではもったいない。少しでも読めれば、歌にも、文にも、贈答にも、御殿作りにも使えます」
右少弁は、少し考えるように黙りました。蔵人の少将は、面白そうに笑いました。
「つまり、姫様は、我らの武器を皆に配ろうとなさる」
「武器ではなく、道具にしたいのです」
「同じことでは?」
「違います」
私は首を振りました。
「武器は人を黙らせます。道具は人を働かせます」
少納言の君が、ついに小さく声を出して笑いました。
「姫様、また見事に言い分けられますね」
「違うものは違います」
「清少納言様が聞かれたら、たいそう面白がりましょう」
「怒るかしら」
「半分は」
また半分。最近、この言い方が宮中で流行り始めている気がします。帝が、そこで口を開きました。
「右少弁」
「はい」
「今の句、女房たちへもう少し詳しく話してみよ」
右少弁の顔が、わずかに固まりました。
今度は試す側ではなく、教える側に立たされたのです。これは難しい。知っていることと、分かるように教えることは別です。右少弁は、少し咳払いをしました。
「ええと……この白楽天の言葉は、文や詩がただ華美であればよいのではなく、その時代の政治や民の苦しみ、身近な出来事に応じて作られるべきだという考えにて……」
最初は少し硬い。でも、だんだん噛み砕こうとしています。
「つまり、歌を詠むにも、ただ月が美しいと言うだけでなく、なぜ今その月を見るのか、その時の心や出来事に応じて詠むべき、ということにもなりましょう」
菅原の君が頷きました。
「物語も、ただ昔を真似るのではなく、今の人の心を書くべきということですね」
「そ、そうです」
右少弁の顔が少し明るくなりました。教えたことが伝わると、教える側も嬉しいのです。春枝が、おずおずと尋ねました。
「では、文に使う紙も、その時の事に合うべきでしょうか」
右少弁は一瞬戸惑いましたが、すぐに答えました。
「それも、同じことかと。弔いの文に華やぎすぎた紙は合わぬでしょうし、祝いの文に沈みすぎた紙もまた」
春枝の顔が明るくなりました。
「分かります」
右少弁は、少し驚いたようでした。漢籍の一節が、紙選びにつながった。彼にとっても新鮮だったのでしょう。小少将も尋ねました。
「装束の色も、時と事に応じるべきですね」
「もちろんです」
今度は右少弁も乗ってきました。知識が、一方向の試験から、対話に変わっていく。帝はその様子を見て、満足げでした。会の終わり際、帝が私に言いました。
「彰子」
「はい」
「そなたの御殿では、漢籍まで人に働かせるのだな」
「人ではなく、知識を働かせます」
「同じようなものではないか」
「少し違います」
帝は笑いました。
「今日、右少弁は女房たちを試すつもりであったろう」
右少弁が、少し気まずそうに頭を下げました。
「恐れながら」
「だが、最後には教えていた」
「はい」
帝は私を見ました。
「そなたは、試しを学びに変えた」
「試されるだけでは、疲れますので」
「学びなら?」
「増えます」
「何が」
「使える人が」
帝は、静かに頷きました。
「よい」
その一言は短い。けれど、重かった。藤壺の女房たちは、静かに頭を下げました。右少弁も、蔵人の少将も、先ほどとは少し違う顔をしています。少なくとも、今日の藤壺では、漢籍は殿方だけの武器ではなくなりました。皆が触れることのできる道具になりました。
会が終わった後、少納言の君が私のそばへ来ました。
「姫様」
「何でしょう」
「本日もまた、たいそう妙な勝ち方をなさいましたね」
「勝ったつもりは」
「ありますでしょう」
「少し」
少納言の君は笑いました。
「右少弁殿は、女房たちを黙らせるつもりが、最後には春枝殿の紙の質問に答えておられました」
「よいことです」
「ええ。たいへん愉快でした」
彼女は扇を伏せ、少し声を低くしました。
「清少納言様なら、おそらく、漢籍を振りかざす男方を一言で笑わせ、黙らせたでしょう」
「そうでしょうね」
「けれど姫様は、黙らせず、教えさせた」
「黙らせるより、使える人が増える方が得です」
「得」
「ええ」
「恋文も漢籍も、姫様にかかれば損得の話に」
「大事よ」
少納言の君は、本当に楽しそうに笑いました。
「藤壺は、恐ろしい御殿でございますね。相手の自慢を、いつの間にか皆の教材にしてしまう」
「教材」
「ええ。清少納言様に申し上げます。次に藤壺へ何か自慢を持ち込む時は、教科書にされる覚悟が要ると」
「それは少し嫌ね」
「もう遅うございます」
少納言の君は去っていきました。また噂になるでしょう。でも今回は、悪くありません。
夜、藤壺では早速、新しい取り組みが始まりました。漢籍読み下しの会。赤染衛門が題を聞いて、少し眉を上げました。
「姫様、また会が増えますね」
「必要よ」
「頻度は?」
「月に二度」
「誰が教えるのですか」
「詳しい人を招く。右少弁殿にも、時々お願いしましょう」
「本当に来られますか」
「帝が面白がってくだされば、来るわ」
「姫様、帝を巻き込むのがお上手になられましたね」
「褒めている?」
「半分以上は」
やはり流行っています。会の目的は、漢籍を深く極めることではありません。まずは、よく引用される句を読む。読み下す。意味を取る。宮中の場面でどう使えるか考える。
白楽天の句。季節の句。無常を語る句。贈答に使える句。政治の話題で危険な句。恋文に使うと重すぎる句。用途別です。
春枝は紙との相性を書きます。小少将は装束や場面との相性。有子は読み下しと筆写。菅原の君は物語との接続。澄子は、どの場で使うと相手がどう受け取るか。常盤は、誤引用した場合にどんな噂になるか。赤染衛門は、全体の品位を整える。完全に藤壺式です。
「姫様」
春枝が、しみじみと言いました。
「漢籍も、こうして見ると少し近うございますね」
「でしょう」
「最初は、漢字ばかりで怖うございました」
「今は?」
「紙に置けば、少しずつ読めます」
よい。それでいいのです。
難しいものは、紙に置き、分け、声に出し、使い道を考える。そうすれば、完全には分からなくても、近づける。その夜、私は一人で文机に向かいました。
父・道長が言っていた、為時の娘。
彼女が来れば、漢籍の話も避けて通れないでしょう。紫式部は、漢籍にも通じています。そして、おそらくその才ゆえに、周囲から警戒もされます。
女が漢籍に通じることは、称賛にもなれば、批判にもなる。才をひけらかすな。女らしくない。生意気だ。そんな言葉が飛ぶこともあるでしょう。
だから今のうちに、藤壺の空気を変えておく必要があります。漢籍は、一部の者がひけらかすものではない。かといって、できる者を妬むものでもない。読める人が読み、分かる言葉にし、使える形で共有するもの。
そういう場にしておけば、紫式部が来た時も、彼女の知識は孤立の理由ではなく、共有の源になります。
石の中宮の御殿には、今日また一つ、橋が架かりました。
漢字の険しい山へ向かう、小さな橋です。まだ細く、頼りない橋かもしれません。でも、誰か一人だけが山頂で威張るより、皆で少しずつ登れる方がいい。
いつか紫の筆を持つ女が来た時。
その橋が、彼女の孤独を少しでも減らすものになりますように。
〜 出典 〜
『白氏文集』/平安貴族の漢詩教養
離離原上草、一歳一枯栄。野火焼不尽、春風吹又生。遠芳侵古道、晴翠接荒城。又送王孫去、萋萋満別情…
〜 舞台背景 〜
『白氏文集』(はくしもんじゅう、はくしぶんしゅうは、中国唐の文学者、白居易の詩文集。数次の編集を経て、最終的に75巻本として会昌5年(845年)に完成、現在は71巻本が通行する。最初のものが長慶4年(824年)に成り、『白氏長慶集』と名付けられたため、後世もその名を以て呼ばれる。白居易自身は『文集』とのみ称した。出典:wikipedia




