二十一 紫式部、まだ来ない
道長が「優秀な女房を入れる」と言い、紫式部の名が候補に上がる。しかし古参女房たちは、また才女が増えれば自分たちの立場が危うくなると不満を漏らす。彰子は「才能ある人を恐れる組織は衰退します」と断言し、受け入れ準備を始める。知識共有の場、写本管理、女房同士の役割分担を整え、“天才が孤立しない環境”を作る。
天才は、扱いが難しい。これは、前世でも今世でも変わらない真理です。
天才が一人いると、場は一気に明るくなります。誰も思いつかないことを言う。誰も見えていなかったものを見る。その人がいるだけで、周囲の水準が引き上げられます。
素晴らしい。ええ、素晴らしいのです。
ただし。天才が来ると、場は荒れます。今まで「できる人」とされていた人が、急に普通に見える。今までのやり方が、古く見える。周囲がその人ばかりを見る。本人に悪気はなくても、周りが勝手に比べ始めます。
前世の職場でもありました。すごく優秀な中途採用の人が来る。上司が期待する。周囲は警戒する。本人は普通に仕事をしているだけなのに、「あの人ばかり評価される」と不満が出る。そのうち、天才本人も孤立し、最悪の場合、天才は辞めます。そして残った職場では、こう言うのです。
――あの人、ちょっと合わなかったよね。
違います。合わなかったのではありません。受け入れる側に、器がなかったのです。宮中も、きっと同じです。才ある女房は、宝です。でも、宝を置く台が傾いていれば、宝も傷つきます。だから、天才を呼ぶなら、呼ぶ前に場を整えなければなりません。そしてその日、ついに父・藤原道長が言いました。
「彰子の御許へ、優れた女房を入れようと思う」
父・道長は、いつも通りの顔でそう言いました。
いつも通り。
つまり、本人はごく自然に良いことを思いついたと思っている顔です。でも、その一言で藤壺の空気は揺れました。私は御簾の内で扇を持ったまま、静かに父を見ました。
「優れた女房、でございますか」
「そうだ」
父は頷きます。
「近頃、藤壺の評判は悪くない。いや、むしろよい。だが、さらに格を上げるには、やはり才ある者が要る」
格。才。父・道長の考えは分かります。登華殿には、清少納言がいます。あの明るさ。あの機知。あの観察眼。あの言葉の鋭さ。彼女は、定子様のサロンを象徴する存在です。
ならば、彰子方にも、それに匹敵する才女を置きたい。父なら、当然そう考えるでしょう。
「候補は?」
私が尋ねると、父・道長は少し声を落としました。
「藤原為時の娘がいる」
心臓が、一瞬だけ止まりました。藤原為時の娘。
紫式部。
もちろん、まだこの時点で彼女が後世に呼ばれる名を、周囲は知りません。けれど、私は知っています。
『源氏物語』を書いた女。
人の心の奥底を、あまりにも深く、冷静に、時に残酷に書く女。そして、後に彰子のもとへ出仕する女。その名が、ついに候補に上がりました。
私は、扇を握る手に力が入りそうになるのを抑えました。まだ来ない。でも、近づいています。
「為時の娘は、漢籍にも通じ、物語にも深いと聞く」
父・道長は続けました。
「少し扱いにくいとの声もあるが、才は確かだ」
扱いにくい。はい。でしょうね。
天才は、だいたい扱いやすくありません。それに、物語を書くような人です。人をよく見すぎる人です。見すぎる人は、場に馴染むまで時間がかかります。
「彰子」
父が言いました。
「そなたの御殿には、そろそろ大きな筆が要る」
大きな筆。私は、静かに頭を下げました。
「ありがたきことにございます」
「そうか」
「ただし、父上」
「何だ」
「才ある女房を入れるなら、先に受け入れる場を整えとうございます」
父上が目を瞬かせました。
「場?」
「はい」
またです。父・道長は物資や人材を投入することには強い。しかし、その後どう馴染ませるかまでは、わりと力技です。良いものを入れれば良くなる。それは半分正しい。でも半分は危険です。
「優れた女房は、ただ置けば働くものではございません」
私は言いました。
「その才を活かす役目、孤立させぬ周囲、記録や写本の管理、相談できる相手。それらがなければ、才は御殿を照らす前に、周囲を焼くこともございます」
父はしばらく私を見ていました。そして、少し笑いました。
「彰子は、女房を入れるにも準備をするのだな」
「人を迎えるのは、調度を置くより難しゅうございます」
「なるほど」
父は満足げでした。たぶん半分くらい分かって、半分くらいは「我が娘は面白いことを言う」と思っている顔です。
まあ、今はそれでいいでしょう。
「では、準備せよ。必要なものがあれば言え」
「はい」
私は頭を下げました。そして、父が去った後。藤壺は、静かに騒然となりました。
「為時殿の娘君……」
赤染衛門が、低く呟きました。彼女も噂は知っているのでしょう。
「才ある方と聞きます」
「ええ」
「漢籍にも通じるとか」
「そうらしいわね」
「物語にも」
「ええ」
部屋の女房たちは、それぞれに反応していました。菅原の君は、明らかに目を輝かせています。物語係として、物語に深い女房が来るとなれば、期待せずにはいられないのでしょう。
有子は、筆写や記録の仕事が増えるかもしれないと、少し緊張しています。春枝は、写本管理と聞いただけで、すでに紙箱の心配をしている顔です。
小少将は、どのような衣を好む方なのか考えていそう。澄子は、女房たちの表情を静かに見ていました。常盤は、噂の流れがどうなるかを想像している目。
そして、古参女房たち。大輔の君、弁の君、三河の君、少将の乳母。彼女たちの表情は、複雑でした。歓迎。警戒。不安。その全部が混じっています。最初に口を開いたのは、大輔の君でした。
「姫様。才ある女房をお迎えすることは、もちろん喜ばしきことにございます」
この出だし。前世でもよく聞きました。「もちろん賛成なんですけど」の後には、だいたい本音が来ます。
「ですが、あまりに才のある方が入れば、今ある役目が乱れることもございましょう」
弁の君も続けました。
「清少納言様のような方が登華殿におられるからこそ、あちらは華やかでございます。けれど、その陰で、他の女房は声を失うこともありましょう」
三河の君が静かに言います。
「藤壺は、ようやく皆が役を得て落ち着いてまいりました。そこへ大きな才が入れば、また皆が比べられるのではと」
正直な意見です。そして、もっともです。私は彼女たちを責めません。人は、自分の居場所が脅かされると感じれば不安になります。まして、長く宮中を見てきた古参女房たちなら知っているはずです。
才ある一人の女房が、場の空気を一変させることを。その人が悪いわけではなくても、周囲が勝手に光と影を作ることを。菅原の君が、小さく口を開きかけました。
けれど、私は手で制しました。ここは、私が言うべきです。
「皆の不安は分かります」
私は言いました。
「才ある人が来れば、比べられる。今までの役目が軽く見られるかもしれない。姫様はその方ばかり重んじるのではないか。そう思うのは自然です」
古参女房たちは目を伏せました。
「でも」
私は声を少し強めました。
「才能ある人を恐れる組織は衰退します」
部屋が静まりました。赤染衛門が、わずかに目を上げます。
「そしき……」
誰かが小さく呟きました。
「御殿です」
私は言い直しました。
「才能ある人を恐れる御殿は、衰えます」
女房たちは黙っています。
「外から来る才を、『自分たちの居場所を奪うもの』とだけ見れば、その御殿は内側から小さくなります。新しい光を入れられなくなるからです」
私は続けました。
「ただし、才ある人を入れればよいというものでもありません。その人だけに光を集めれば、他の人は影になり、才ある人も孤立します」
清少納言のことを思い出します。あの人は眩しい刃です。でも、どれほど眩しくても、刃の周りには緊張が生まれる。紫式部は、違う種類の才でしょう。
静かで、深く、重い筆。
その筆は、場を照らすというより、内側をえぐるかもしれない。だからこそ、準備が必要です。
「藤壺は、天才を孤立させない御殿にします」
私は言いました。菅原の君が、はっと顔を上げました。
「そして、天才のために他の女房が消えない御殿にもします」
まず整えるべきは、知識共有の場です。私は、赤染衛門に紙を用意させました。春枝がすぐに適した紙を出します。普通の記録用より少し上質。しかし、保存だけでなく回覧にも耐えるもの。
「新しい女房が来た時、何が一番困ると思う?」
私は女房たちに尋ねました。澄子が答えました。
「場の暗黙の決まりが分からぬことかと」
「そう」
有子が続けます。
「どの記録がどこにあるか、誰に何を聞けばよいかも」
「その通り」
春枝が言いました。
「紙箱の使い方を知らず、誤って大切な紙を下書きに使われると……」
「それは大事件ね」
「はい」
常盤が少し楽しそうに言います。
「噂の流れも分からぬと、危うい相手に不用意に話すことも」
「それも大事」
つまり、新しく来る才女が困ることは、才能の有無とは別にあります。場所が分からない。人が分からない。ルールが分からない。誰に相談すればよいか分からない。前世で言えば、オンボーディング不足です。
……もちろん、口には出しません。
「藤壺案内覚を作ります」
赤染衛門が眉を上げました。
「姫様。ついに御殿の案内まで」
「必要でしょう」
「必要でございます」
最近、赤染衛門が諦めるのが早くなりました。内容はこうです。
一、藤壺の女房の役割一覧。
二、紙箱と記録の場所。
三、外へ出してよい話、出してはならない話。
四、帝御幸時の基本の動き。
五、相談先。
六、写本・物語・歌の保管場所。
七、具合が悪い時、不安がある時の申し出先。
八、藤壺で大切にすること。
最後の項目には、こう書くことにしました。
知らないことを笑わない。才を孤立させない。役目を奪い合わず、つなぐ。
赤染衛門が、その言葉を丁寧に写しました。
「よい御案内にございます」
「新しく来る人にも、今いる人にも必要ね」
「はい」
古参女房たちも、少しずつ表情を変えていました。新しい才女のための準備が、自分たちを押しのけるものではなく、藤壺全体の仕組みになると見えてきたからでしょう。
次に、写本管理です。これは重要です。もし本当に紫式部が来るなら、物語や漢籍、歌集、書きつけの扱いが増えるでしょう。
彼女自身が書くもの。持ち込むもの。参照するもの。写すもの。人に見せるもの。見せてはいけないもの。
これを適当に扱えば、確実に混乱します。私は春枝と有子、菅原の君を呼びました。
「春枝」
「はい」
「写本用の紙箱を分けます」
春枝の目が輝きました。
「はい!」
「ただし、増やしすぎないこと」
「……はい」
少し残念そうです。
「有子」
「はい」
「写しの管理をお願い。誰が写したか、いつ写したか、原本はどこか、控えはあるか」
「承知しました」
「菅原の君」
「はい!」
「物語の内容整理を担当して。巻ごとのあらすじ、人物関係、未完の箇所、写しの不足」
菅原の君の顔が、ほとんど発光しました。
「お任せくださいませ!」
赤染衛門が横で小さく言いました。
「姫様、菅原の君がたいへん嬉しそうにございます」
「よかったわ」
「ただし、寝食を忘れぬよう」
「少将の乳母に見てもらいましょう」
少将の乳母は、静かに頷きました。
「物語に夢中になる方には、粥を差し入れます」
「お願いします」
天才を孤立させない環境。そのためには、読む人、写す人、紙を守る人、体調を見る人が必要です。天才本人がすべてを抱え込まないようにする。周囲も、天才にすべてを丸投げしないようにします。
「物語を書く人が来たとして」
私は言いました。
「その人に、書くこと以外の雑事をすべて押しつけてはいけません」
女房たちが静かに頷きます。
「同時に、その人の書いたものをありがたがるだけで、扱いを知らないのも危険です」
これは本当に重要です。天才の作品は、天才一人で残るわけではありません。読む人がいる。写す人がいる。保管する人がいる。広める人がいる。場がある。藤壺は、その場にならなければならない。
数日後、父・道長から正式な返事が届きました。
為時の娘について、すぐに出仕というわけではない。時期は調整中。周囲との兼ね合いもある。本人の事情もある。
つまり。
紫式部は、まだ来ない。
私は、その文を読んで少し息を吐きました。残念なような。ほっとしたような。まだ時間がある。準備する時間が。藤壺はまだ、彼女を迎えるには未完成です。
知識共有の場は作り始めたばかり。写本管理もまだ試験中。女房たちの役割分担も、さらに磨く必要がある。
菅原の君は張り切りすぎて寝不足になりかけています。常盤は、紫式部候補の噂を追いすぎて赤染衛門に叱られました。春枝は、写本用紙箱を三種類に抑えるよう説得中です。
まだ、整えることが多い。だから、まだ来ないことは悪くない。
「姫様」
赤染衛門が言いました。
「少し残念そうで、少し安心しておいでですね」
「分かる?」
「分かります」
「早く会いたい気持ちはあるわ」
「はい」
「でも、今来られたら、こちらが飲まれるかもしれない」
赤染衛門は頷きました。
「大きな筆を迎えるには、机が要ります」
「ええ」
「そして、紙と灯と、静けさも」
「それから、粥も」
「少将の乳母が用意しましょう」
二人で少し笑いました。
私は、その日のうちに心得をまとめました。題は、才ある人を迎ふる覚。赤染衛門が筆を取り、私が言葉を置いていきます。
一、才能ある人を恐れる御殿は衰える。
二、ただし才能を置くだけでは、場は育たない。
三、新しい才を迎える前に、役割、記録、相談先を整える。
四、天才を孤立させない。
五、天才にすべてを任せない。
六、既にいる女房の役目を明らかにし、不安を放置しない。
七、知識は一人に抱えさせず、共有する。
八、写本、物語、記録は保管と回覧の道を作る。
九、才を高い棚に置かず、同じ場で働く人として迎える。
十、来る前の準備こそ、迎える礼である。
赤染衛門が最後の一文を書いて、静かに頷きました。
「来る前の準備こそ、迎える礼」
「そう」
「よい言葉にございます」
「ありがとう」
珍しく素直に褒められました。この心得は、きっと後で必要になります。紫式部が来た時。あるいは、別の才ある女房が来た時。藤壺がその才に怯えず、潰さず、利用しすぎず、孤立させずにいられるか。それは、この準備にかかっています。
夜。私は、まだ空いている文机を見ていました。そこには、誰も座っていません。
けれど、そこに誰かが来ることを想定して整えられた席。空席は、欠けではありません。未来のための余白です。
いつかその席に、紫の筆を持つ女が座る。
その日までに、藤壺はもっと強く、もっと静かで、もっと広い御殿になっていなければならない。
天才を恐れない。天才に飲まれない。天才を孤独にしない。それが、これからの藤壺の課題です。
外では夜風が吹いていました。紙箱の蓋が、かすかに鳴ります。
まだ書かれていない物語の気配が、そこにあるような気がします。
〜 出典 〜
『紫式部日記』彰子出仕前後の空気
憂き世のなぐさめには、かかる御前をこそたづねまゐるべかりけれと、うつし心をばひきたがへ、たとしへなくよろづ忘らるるも、かつはあやし…
〜 舞台背景 〜
『紫式部日記』は、平安時代中期に紫式部が記したと伝わる日記文学で、藤原彰子(一条天皇中宮)に出仕した時期の宮廷生活や儀礼、所感などを記す。記事はおおむね寛弘年間(11世紀初頭)の出来事を扱い、日々の連続記録(「日次の記」)ではなく回想的にまとめられた作品とされる。古写本・伝本の題名としては「紫日記」(むらさきにっき)が用いられることがあり、宮内庁書陵部の所蔵目録でも同名で登録される。出典:wikipedia




