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転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜  作者: 条文小説


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20/79

十九 月見の宴で、沈黙が一番高く売れる

挿絵(By みてみん)


 月見の宴で、女房たちは月にちなむ歌や故事を競い合う。彰子はあえて歌わず、月を見上げて涙を一滴だけ落とす。周囲は「何か深い故事が?」とざわめく。実は彰子は、月を見て前世を思い出しただけだったが、女房たちは勝手に解釈を膨らませる。

 月は、ずるい。


 何がずるいかと言えば、ただそこにあるだけで、人間の感情を勝手に引き出してくるところです。


 花なら、咲く季節があります。雪なら、降る寒さがあります。紅葉なら、散り際があります。けれど月は、もっと無言です。ただ白く夜を照らしているだけです。


 それだけなのに、人は勝手に寂しくなる。誰かを思い出す。帰れない場所を思う。もう戻らない時間を思う。


 前世でもそうでした。深夜の帰り道。ビルの隙間から見えた満月。電車の窓に映った青白い光。スマホを見すぎて疲れた目を上げた時、思いがけず空にあった月。その瞬間だけ、なぜか胸が詰まる。普段は忘れているものが、急に背中を叩いてくる。月には、そういう力があります。


 だからこの時代の人々が、月を歌に詠み、物語にし、涙を寄せるのはよく分かります。『竹取物語』のかぐや姫も、月へ帰りました。地上のすべてを置いて。人の愛も、帝の思いも、翁と媼の涙も、全部残して。


 月は、美しい。そして、残酷です。


 その夜、宮中では月見の宴が開かれました。秋の気配が少しずつ濃くなり、空気が澄み始めるころ。庭には薄が揺れ、露が置かれ、虫の声が細く響いています。


 月は、まだ完全な満月ではありません。けれど、十分に明るい。御簾の向こうに広がる庭は、昼とは違う世界のようでした。昼の庭が色で見えるなら、夜の庭は輪郭で見えます。白い月光。黒い影。薄く光る露。風で揺れる草の線。


 小少将は、今日の装束を月見に合わせて整えました。派手な紅は避け、白、薄紫、青みのある灰色を基調にしています。春枝は、月光で紙が白く浮きすぎないよう、少し生成りの紙を用意しました。有子は、月見の歌を記録するために筆を整えています。澄子は、灯の位置を少し下げました。


「月の光を邪魔せぬように」


 とのことです。常盤は、誰がどの女房と近く座るかを見ています。菅原の君は、月にまつわる物語や説話をいくつも思い出しているらしく、すでに目が輝いていました。赤染衛門は、全体を見て深く頷きます。


「今宵の藤壺は、たいへん整っております」


「ありがとう」


「ただ、整いすぎておりますので、姫様が何か突飛なことをなさらぬよう祈っております」


「失礼ね」


「経験に基づく祈りでございます」


 否定できません。


 宴には、登華殿方の女房たちも来ていました。少納言の君、丹波の君、そして何人かの女房。清少納言本人は、今宵も姿を見せません。しかし、いないのに存在感があります。


 怖い人です。


 月見の宴は、当然ながら月をめぐる言葉の競いになります。月を見て歌を詠む。故事を引く。漢詩を思い出す。『竹取物語』を語る。かぐや姫の昇天を重ねる。逢えぬ恋人を月に託す。故郷を思う。言葉の強い女房が有利な場です。


 つまり、また登華殿が強い。


 少納言の君が、まず口火を切りました。


「月の光は、見る者の心を映すと申しますが、今宵の月は、誰の袖にも等しく白うございますね」


 軽く、上手い。


 誰にでも分かるようで、少し深い。丹波の君は、扇を月に向けて言いました。


「かぐや姫が帰りし月も、かくやありけむ。残されし人の袖ばかり、地に濡れたることでしょう」


 これもよい。


 『竹取物語』の余韻を、月見の宴に重ねている。周囲の女房たちが、ほう、と息を漏らしました。


 藤壺側も負けてはいません。菅原の君が、物語係らしく語ります。


「かぐや姫は月へ帰りましたが、物語の痛みは、帰る者ではなく残される者にございます。月は去る者の故郷であり、残される者には届かぬ場所でございますれば」


 私は内心で拍手しました。菅原の君、強くなりました。物語オタクが堂々と物語を語っています。小少将は、月の光が衣に落ちる様を見て、静かに言いました。


「月の白さは、色を奪うようでいて、薄き色ほどよく見せます。今宵の袖は、昼よりも心に近うございます」


 装束役らしい視点です。春枝は、月光を受ける紙を見つめながら、


「白き紙は昼には明るく、夜には少し寂しゅうございます。文を書くなら、今宵は墨の黒さまで月に見られているようで」


 と言いました。これもよい。藤壺の女房たちは、それぞれの役割から月を見ています。紙から。衣から。物語から。場から。


 よく育っています。帝も、たいそう楽しそうに聞いていました。そして当然、私にも視線が来ます。


「彰子」


 帝が静かに呼びました。


「はい」


「そなたは、今宵の月をどう見る」


 来ました。


 月見の宴で、中宮に月を語らせる。当然の流れです。女房たちの視線が私に集まります。少納言の君も、扇の陰でこちらを見ています。


 おそらく彼女たちは期待しているのでしょう。藤壺の姫は、また何か変わった分析をするのか。月の光の照明条件か。宴の場面設計か。月にまつわる物語の運用か。贈答に使う月のイメージか。


 正直、いくつか案はありました。


 月は共有体験を作る装置です、とか。月見の宴は、同じ対象を見上げることで身分差を一時的に緩める場です、とか。かぐや姫の物語は、喪失を美に変換する構造です、とか。


 言おうと思えば言えます。でも、その瞬間。私は月を見上げてしまいました。そして、言葉が出なくなりました。


 月が、あまりにも前世の月と同じだったからです。千年近い時を隔てても、月は同じ顔をしている。この宮中の上にある月と、前世の夜道で見上げた月が、つながっている。


 私はもう、あの世界へ戻れない。スマホも、駅の灯りも、コンビニも、エレベーターの音も、深夜の通知も、二度と触れない。家族。友人。名前を呼んでくれた人。私が突然いなくなった後、どうなったのか。


 考えないようにしていました。ここで生きると決めたから。彰子として、この藤壺で、女房たちと場を作ると決めたから。


 そして気づいた時には、涙が一滴だけ落ちていました。


 袖で拭う間もなく、頬を伝って。ぽたり、と。自分でも驚くほど静かな涙でした。部屋が、完全に沈黙しました。


 やってしまった。


 そう思いました。月見の宴の御前で、中宮が無言で涙を落とす。これは、かなり目立ちます。しかも私は何も考えていませんでした。


 いや、考えてはいました。


 でも、それは前世のことであり、この場で説明できることではありません。私は単に、月を見て前世を思い出して泣いたのです。


 非常に困る。


 説明不能です。


 ところが。周囲は勝手に解釈し始めました。少納言の君が、息を呑んだように扇を下げます。丹波の君が小さく呟きました。


「かぐや姫の……」


 菅原の君は、目を潤ませていました。


「残されし者の涙……」


 春枝は、紙を握りしめています。小少将は、私の袖の色と月光を見て、何か深い意味を感じ取ったような顔をしています。常盤は、これは噂になる、と即座に判断した顔です。


 赤染衛門だけが、私を見ていました。たぶん彼女だけは、私が何か仕掛けたわけではないと察しています。


 でも、何も言いません。


 さすがです。帝も、しばらく沈黙していました。そして、静かに言いました。


「彰子」


「……はい」


「そなたには、誰にも言えぬ思いがあるのだな」


 違います。


 いや、違わない。


 あります。誰にも言えない思い。前世の記憶。帰れない世界。それは確かにあります。ただし、帝が想像しているものとはおそらく違います。でも、否定できません。私はただ、頭を下げました。


「恐れ入ります」


 何も説明しませんでした。できなかった、と言う方が正しいのですが…その沈黙がさらに深読みされました。女房たちの間に、静かな感動が広がります。


 ――姫様は、月に何を見たのか。


 ――かぐや姫の別れか。


 ――定子様のことか。


 ――主上への思いか。


 ――幼くして入内した御身の寂しさか。


 ――誰にも言えぬ心を、月にだけ見せたのか。


 全部、違うようで、少しずつ当たっている。不思議なものです。言葉で説明すれば、たぶん薄くなる。でも、沈黙のまま置くと、周囲が勝手に深くする。


 これは危険です。


 同時に、強い。その後の宴は、少し空気が変わりました。誰もすぐに華やかな歌を詠めなくなったのです。言葉を競っていた場に、私の沈黙が落ちました。しかも涙が一滴だけ。大泣きではありません。袖を濡らして嘆いたわけでもない。


 たった一滴。だからこそ、余白が大きい。少納言の君は、しばらく月を見ていました。やがて静かに歌を詠みました。


 照る月に 言の葉尽きて 袖の露 誰が昔をか 映し出づらむ


 (月を見て言葉が尽き、袖に落ちた露。それは誰の昔を映すのだろうか。)


 うまい。


 さすがです。私の沈黙を拾い、歌に変えました。菅原の君が、それに応じるように言いました。


「月は、帰る者の道でもあり、帰れぬ者の鏡でもございますね」


 これまた、刺さる。帰れぬ者。完全に私です。もちろん、彼女は前世のことなど知りません。でも、物語係の目は時々怖いところまで届きます。


 帝は、私を見ていました。その視線は、いつものような若い中宮を見るものとは少し違っていました。憐れみだけではない。興味だけでもない。何か、触れてはいけないものを見たような慎重さ。私は内心で焦っていました。


(いや、違うんです。そこまで深い宮廷的事情ではなく、前世を思い出しただけで…)


 と言えるわけがありません。結果、私はさらに黙るしかない。沈黙が沈黙を呼び、沈黙の価値が上がっていく。


 株価かッ。いや、違います。でも、近いものがあります。宴が終わった後、藤壺の女房たちは興奮を隠せない様子でした。


 春枝が、震える声で言います。


「姫様……今宵の御涙、忘れられませぬ」


「忘れてほしい」


「忘れられませぬ」


 小少将も頷きます。


「月の光の中で、袖に落ちた一滴が、まるで白い玉のようで」


「そんなに見ないで」


「見えてしまいました」


 有子は、記録にどう書くべきか迷っていました。


「姫様。『月を御覧じて御涙一滴』と記すのは、あまりに直接でございましょうか」


「記録しないで」


 私が即答すると、赤染衛門が横から言いました。


「記録はいたします」


「衛門」


「ただし、内々の記録に。外へは出しませぬ」


「本当に?」


「本当に」


 信用はしています。でも少し怖い。常盤は、すでに外の反応を集めていました。


「姫様。登華殿方の女房たちも、たいそう動揺しておりました」


「でしょうね」


「『藤壺の姫様は、月に何を思われたのか』と」


「何をも何を聞かれたら困るわ」


「もう、いくつか解釈が出ております」


「早い」


「一つは、かぐや姫に重ねた説。二つ目は、定子様への哀れみ説。三つ目は、主上への秘めたる御心説。四つ目は、幼き御身で入内された寂しさ説」


「全部盛られている」


「はい。さらに菅原の君が『帰れぬ者の鏡』と言ったため、何やら物語性が増しております」


 菅原の君が、申し訳なさそうにうつむきました。


「申し訳ございません……つい」


「いいのよ」


 実際、彼女の言葉は美しかった。そして、当たっていました。私は帰れない。ただ、帰れない先が誰にも言えないだけです。赤染衛門が静かに言いました。


「姫様。今宵のことは、おそらく噂になります」


「でしょうね」


「ですが、悪い噂ではございませぬ」


「そう?」


「はい。姫様に、誰にも言えぬ深い御心があると。言葉ではなく月にだけ漏れた御涙と」


「美化されすぎでは」


「宮中とは、そういうところにございます」


 怖い。怖すぎる。つまり、私はうっかり泣いただけなのに、沈黙ブランドが勝手に立ち上がっています。


 翌日。


 予想通り、噂は広がりました。ただし、妙な方向には悪化しませんでした。なぜなら、解釈が多すぎたからです。かぐや姫説。定子様説。主上説。入内の寂しさ説。


 前世説――は、当然ありません。


 解釈が複数あると、特定の悪意に固定されにくい。人々は、それぞれ自分の見たい彰子像を見ました。物語的な姫。優しい中宮。秘めた恋の人。若くして重荷を背負う人。月に心を置く人。どれも、私そのものではありません。でも、完全に間違っているわけでもありません。


 少納言の君からは、短い文が届きました。


『今宵より後、月を見るたび、御袖の露を思ひ出で候ふべし。言の葉を尽くす者ども、つひに一滴に負け候ひぬ』


 私は読んで、頭を抱えました。私が勝ったことになっている。


 (言葉を尽くす者たちが、涙一滴に負けた。)


 うまい。


 うますぎる。


 でも、私としては事故です。赤染衛門が文を読み、少し笑いました。


「少納言の君らしゅうございます」


「返事、どうしよう」


「返されるのですか」


「返さない方がいい?」


「今宵の件は、言葉を重ねるほど安くなります」


 赤染衛門が、さらりと言いました。私は目を丸くしました。


「衛門」


「はい」


「今、とても大事なことを言ったわね」


「そうでございますか」


「言葉を重ねるほど安くなる」


 その通りです。説明すればするほど、価値が落ちるものがあります。沈黙は、解説しないから高く売れる。私は頷きました。


「返事は、短く」


 紙を取り、こう書きました。


『月の光に、言の葉の及ばぬ夜も候ふものを』


 (月の光には、言葉が及ばない夜もあります。)


 それだけ。少納言の君への返事としては、十分でしょう。赤染衛門が読んで頷きました。


「よろしゅうございます」


「説明しないわ」


「はい。説明すれば、御涙がただの事情になります」


「ただの事情……」


「沈黙のままなら、物語になります」


 赤染衛門、今日かなり鋭いです。たぶん私より冷静に今回の効果を見ています。彼女は少しだけ笑い、そして静かに言いました。


「昨夜の御涙、私は理由を問いません」


「ありがとう」


「ですが、姫様に誰にも言えぬ思いがあることは、覚えておきます」


 私は赤染衛門を見ました。


「それも、聞かない?」


「はい。お話しになる時が来れば、その時に」


 胸が少し温かくなりました。沈黙を、勝手に暴かない人がいる。それは、ありがたいことです。


「衛門」


「はい」


「沈黙は、信頼できる人がいないと危ないわね」


「そうでございますね」


「勝手に解釈されるだけでは、孤独になる」


「ならば、藤壺では沈黙を守る者も必要です」


「また役割が増えるわ」


「増えますね」


 二人で少し笑いました。私は扇を閉じました。


 沈黙ブランド確立。


 ……などと言うと、赤染衛門に「ぶらんど?」と聞かれるので、もちろん言いません。でも、私の中ではそうです。


 藤壺の中宮は、何でも帳面にするだけではありません。言葉にしないものも持っている。そう見られることは、今後きっと役に立つでしょう。


 月は、まだ庭を照らしています。かぐや姫は月へ帰りました。私は帰れません。でも、帰れないからこそ、この地上に場を作ります。


 藤壺という、少し変わった御殿を。

〜 出典 〜

『竹取物語』かぐや姫


 いまむかし竹取たけとりおきなといふものありけり。野山のやまにまじりてたけりつつ、よろづのことに使つかひけり。をば、さぬきのみやつことなむいひける。そのたけなかに、もとひかたけなむ一筋ひとすじありける。あやしがりて、りてるに、つつなかひかりたり。それをれば、三寸さんずんばかりなるひと、いとうつくしうてゐたり…


〜 舞台背景 〜

竹取物語たけとりものがたり』は、竹取の翁によって光り輝く竹の中から見出され、翁夫婦に育てられた少女かぐや姫を巡る奇譚。『源氏物語』に「物語の出で来はじめのおやなる竹取の翁」とあるように、日本最古の物語といわれる。9世紀後半から10世紀前半頃に成立したとされ、かなによって書かれた最初期の物語の一つである。いつからかは不明だが『かぐや姫』の題名で絵本・アニメ・映画など様々な形において受容されている。出典:wikipedia

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