十九 月見の宴で、沈黙が一番高く売れる
月見の宴で、女房たちは月にちなむ歌や故事を競い合う。彰子はあえて歌わず、月を見上げて涙を一滴だけ落とす。周囲は「何か深い故事が?」とざわめく。実は彰子は、月を見て前世を思い出しただけだったが、女房たちは勝手に解釈を膨らませる。
月は、ずるい。
何がずるいかと言えば、ただそこにあるだけで、人間の感情を勝手に引き出してくるところです。
花なら、咲く季節があります。雪なら、降る寒さがあります。紅葉なら、散り際があります。けれど月は、もっと無言です。ただ白く夜を照らしているだけです。
それだけなのに、人は勝手に寂しくなる。誰かを思い出す。帰れない場所を思う。もう戻らない時間を思う。
前世でもそうでした。深夜の帰り道。ビルの隙間から見えた満月。電車の窓に映った青白い光。スマホを見すぎて疲れた目を上げた時、思いがけず空にあった月。その瞬間だけ、なぜか胸が詰まる。普段は忘れているものが、急に背中を叩いてくる。月には、そういう力があります。
だからこの時代の人々が、月を歌に詠み、物語にし、涙を寄せるのはよく分かります。『竹取物語』のかぐや姫も、月へ帰りました。地上のすべてを置いて。人の愛も、帝の思いも、翁と媼の涙も、全部残して。
月は、美しい。そして、残酷です。
その夜、宮中では月見の宴が開かれました。秋の気配が少しずつ濃くなり、空気が澄み始めるころ。庭には薄が揺れ、露が置かれ、虫の声が細く響いています。
月は、まだ完全な満月ではありません。けれど、十分に明るい。御簾の向こうに広がる庭は、昼とは違う世界のようでした。昼の庭が色で見えるなら、夜の庭は輪郭で見えます。白い月光。黒い影。薄く光る露。風で揺れる草の線。
小少将は、今日の装束を月見に合わせて整えました。派手な紅は避け、白、薄紫、青みのある灰色を基調にしています。春枝は、月光で紙が白く浮きすぎないよう、少し生成りの紙を用意しました。有子は、月見の歌を記録するために筆を整えています。澄子は、灯の位置を少し下げました。
「月の光を邪魔せぬように」
とのことです。常盤は、誰がどの女房と近く座るかを見ています。菅原の君は、月にまつわる物語や説話をいくつも思い出しているらしく、すでに目が輝いていました。赤染衛門は、全体を見て深く頷きます。
「今宵の藤壺は、たいへん整っております」
「ありがとう」
「ただ、整いすぎておりますので、姫様が何か突飛なことをなさらぬよう祈っております」
「失礼ね」
「経験に基づく祈りでございます」
否定できません。
宴には、登華殿方の女房たちも来ていました。少納言の君、丹波の君、そして何人かの女房。清少納言本人は、今宵も姿を見せません。しかし、いないのに存在感があります。
怖い人です。
月見の宴は、当然ながら月をめぐる言葉の競いになります。月を見て歌を詠む。故事を引く。漢詩を思い出す。『竹取物語』を語る。かぐや姫の昇天を重ねる。逢えぬ恋人を月に託す。故郷を思う。言葉の強い女房が有利な場です。
つまり、また登華殿が強い。
少納言の君が、まず口火を切りました。
「月の光は、見る者の心を映すと申しますが、今宵の月は、誰の袖にも等しく白うございますね」
軽く、上手い。
誰にでも分かるようで、少し深い。丹波の君は、扇を月に向けて言いました。
「かぐや姫が帰りし月も、かくやありけむ。残されし人の袖ばかり、地に濡れたることでしょう」
これもよい。
『竹取物語』の余韻を、月見の宴に重ねている。周囲の女房たちが、ほう、と息を漏らしました。
藤壺側も負けてはいません。菅原の君が、物語係らしく語ります。
「かぐや姫は月へ帰りましたが、物語の痛みは、帰る者ではなく残される者にございます。月は去る者の故郷であり、残される者には届かぬ場所でございますれば」
私は内心で拍手しました。菅原の君、強くなりました。物語オタクが堂々と物語を語っています。小少将は、月の光が衣に落ちる様を見て、静かに言いました。
「月の白さは、色を奪うようでいて、薄き色ほどよく見せます。今宵の袖は、昼よりも心に近うございます」
装束役らしい視点です。春枝は、月光を受ける紙を見つめながら、
「白き紙は昼には明るく、夜には少し寂しゅうございます。文を書くなら、今宵は墨の黒さまで月に見られているようで」
と言いました。これもよい。藤壺の女房たちは、それぞれの役割から月を見ています。紙から。衣から。物語から。場から。
よく育っています。帝も、たいそう楽しそうに聞いていました。そして当然、私にも視線が来ます。
「彰子」
帝が静かに呼びました。
「はい」
「そなたは、今宵の月をどう見る」
来ました。
月見の宴で、中宮に月を語らせる。当然の流れです。女房たちの視線が私に集まります。少納言の君も、扇の陰でこちらを見ています。
おそらく彼女たちは期待しているのでしょう。藤壺の姫は、また何か変わった分析をするのか。月の光の照明条件か。宴の場面設計か。月にまつわる物語の運用か。贈答に使う月のイメージか。
正直、いくつか案はありました。
月は共有体験を作る装置です、とか。月見の宴は、同じ対象を見上げることで身分差を一時的に緩める場です、とか。かぐや姫の物語は、喪失を美に変換する構造です、とか。
言おうと思えば言えます。でも、その瞬間。私は月を見上げてしまいました。そして、言葉が出なくなりました。
月が、あまりにも前世の月と同じだったからです。千年近い時を隔てても、月は同じ顔をしている。この宮中の上にある月と、前世の夜道で見上げた月が、つながっている。
私はもう、あの世界へ戻れない。スマホも、駅の灯りも、コンビニも、エレベーターの音も、深夜の通知も、二度と触れない。家族。友人。名前を呼んでくれた人。私が突然いなくなった後、どうなったのか。
考えないようにしていました。ここで生きると決めたから。彰子として、この藤壺で、女房たちと場を作ると決めたから。
そして気づいた時には、涙が一滴だけ落ちていました。
袖で拭う間もなく、頬を伝って。ぽたり、と。自分でも驚くほど静かな涙でした。部屋が、完全に沈黙しました。
やってしまった。
そう思いました。月見の宴の御前で、中宮が無言で涙を落とす。これは、かなり目立ちます。しかも私は何も考えていませんでした。
いや、考えてはいました。
でも、それは前世のことであり、この場で説明できることではありません。私は単に、月を見て前世を思い出して泣いたのです。
非常に困る。
説明不能です。
ところが。周囲は勝手に解釈し始めました。少納言の君が、息を呑んだように扇を下げます。丹波の君が小さく呟きました。
「かぐや姫の……」
菅原の君は、目を潤ませていました。
「残されし者の涙……」
春枝は、紙を握りしめています。小少将は、私の袖の色と月光を見て、何か深い意味を感じ取ったような顔をしています。常盤は、これは噂になる、と即座に判断した顔です。
赤染衛門だけが、私を見ていました。たぶん彼女だけは、私が何か仕掛けたわけではないと察しています。
でも、何も言いません。
さすがです。帝も、しばらく沈黙していました。そして、静かに言いました。
「彰子」
「……はい」
「そなたには、誰にも言えぬ思いがあるのだな」
違います。
いや、違わない。
あります。誰にも言えない思い。前世の記憶。帰れない世界。それは確かにあります。ただし、帝が想像しているものとはおそらく違います。でも、否定できません。私はただ、頭を下げました。
「恐れ入ります」
何も説明しませんでした。できなかった、と言う方が正しいのですが…その沈黙がさらに深読みされました。女房たちの間に、静かな感動が広がります。
――姫様は、月に何を見たのか。
――かぐや姫の別れか。
――定子様のことか。
――主上への思いか。
――幼くして入内した御身の寂しさか。
――誰にも言えぬ心を、月にだけ見せたのか。
全部、違うようで、少しずつ当たっている。不思議なものです。言葉で説明すれば、たぶん薄くなる。でも、沈黙のまま置くと、周囲が勝手に深くする。
これは危険です。
同時に、強い。その後の宴は、少し空気が変わりました。誰もすぐに華やかな歌を詠めなくなったのです。言葉を競っていた場に、私の沈黙が落ちました。しかも涙が一滴だけ。大泣きではありません。袖を濡らして嘆いたわけでもない。
たった一滴。だからこそ、余白が大きい。少納言の君は、しばらく月を見ていました。やがて静かに歌を詠みました。
照る月に 言の葉尽きて 袖の露 誰が昔をか 映し出づらむ
(月を見て言葉が尽き、袖に落ちた露。それは誰の昔を映すのだろうか。)
うまい。
さすがです。私の沈黙を拾い、歌に変えました。菅原の君が、それに応じるように言いました。
「月は、帰る者の道でもあり、帰れぬ者の鏡でもございますね」
これまた、刺さる。帰れぬ者。完全に私です。もちろん、彼女は前世のことなど知りません。でも、物語係の目は時々怖いところまで届きます。
帝は、私を見ていました。その視線は、いつものような若い中宮を見るものとは少し違っていました。憐れみだけではない。興味だけでもない。何か、触れてはいけないものを見たような慎重さ。私は内心で焦っていました。
(いや、違うんです。そこまで深い宮廷的事情ではなく、前世を思い出しただけで…)
と言えるわけがありません。結果、私はさらに黙るしかない。沈黙が沈黙を呼び、沈黙の価値が上がっていく。
株価かッ。いや、違います。でも、近いものがあります。宴が終わった後、藤壺の女房たちは興奮を隠せない様子でした。
春枝が、震える声で言います。
「姫様……今宵の御涙、忘れられませぬ」
「忘れてほしい」
「忘れられませぬ」
小少将も頷きます。
「月の光の中で、袖に落ちた一滴が、まるで白い玉のようで」
「そんなに見ないで」
「見えてしまいました」
有子は、記録にどう書くべきか迷っていました。
「姫様。『月を御覧じて御涙一滴』と記すのは、あまりに直接でございましょうか」
「記録しないで」
私が即答すると、赤染衛門が横から言いました。
「記録はいたします」
「衛門」
「ただし、内々の記録に。外へは出しませぬ」
「本当に?」
「本当に」
信用はしています。でも少し怖い。常盤は、すでに外の反応を集めていました。
「姫様。登華殿方の女房たちも、たいそう動揺しておりました」
「でしょうね」
「『藤壺の姫様は、月に何を思われたのか』と」
「何をも何を聞かれたら困るわ」
「もう、いくつか解釈が出ております」
「早い」
「一つは、かぐや姫に重ねた説。二つ目は、定子様への哀れみ説。三つ目は、主上への秘めたる御心説。四つ目は、幼き御身で入内された寂しさ説」
「全部盛られている」
「はい。さらに菅原の君が『帰れぬ者の鏡』と言ったため、何やら物語性が増しております」
菅原の君が、申し訳なさそうにうつむきました。
「申し訳ございません……つい」
「いいのよ」
実際、彼女の言葉は美しかった。そして、当たっていました。私は帰れない。ただ、帰れない先が誰にも言えないだけです。赤染衛門が静かに言いました。
「姫様。今宵のことは、おそらく噂になります」
「でしょうね」
「ですが、悪い噂ではございませぬ」
「そう?」
「はい。姫様に、誰にも言えぬ深い御心があると。言葉ではなく月にだけ漏れた御涙と」
「美化されすぎでは」
「宮中とは、そういうところにございます」
怖い。怖すぎる。つまり、私はうっかり泣いただけなのに、沈黙ブランドが勝手に立ち上がっています。
翌日。
予想通り、噂は広がりました。ただし、妙な方向には悪化しませんでした。なぜなら、解釈が多すぎたからです。かぐや姫説。定子様説。主上説。入内の寂しさ説。
前世説――は、当然ありません。
解釈が複数あると、特定の悪意に固定されにくい。人々は、それぞれ自分の見たい彰子像を見ました。物語的な姫。優しい中宮。秘めた恋の人。若くして重荷を背負う人。月に心を置く人。どれも、私そのものではありません。でも、完全に間違っているわけでもありません。
少納言の君からは、短い文が届きました。
『今宵より後、月を見るたび、御袖の露を思ひ出で候ふべし。言の葉を尽くす者ども、つひに一滴に負け候ひぬ』
私は読んで、頭を抱えました。私が勝ったことになっている。
(言葉を尽くす者たちが、涙一滴に負けた。)
うまい。
うますぎる。
でも、私としては事故です。赤染衛門が文を読み、少し笑いました。
「少納言の君らしゅうございます」
「返事、どうしよう」
「返されるのですか」
「返さない方がいい?」
「今宵の件は、言葉を重ねるほど安くなります」
赤染衛門が、さらりと言いました。私は目を丸くしました。
「衛門」
「はい」
「今、とても大事なことを言ったわね」
「そうでございますか」
「言葉を重ねるほど安くなる」
その通りです。説明すればするほど、価値が落ちるものがあります。沈黙は、解説しないから高く売れる。私は頷きました。
「返事は、短く」
紙を取り、こう書きました。
『月の光に、言の葉の及ばぬ夜も候ふものを』
(月の光には、言葉が及ばない夜もあります。)
それだけ。少納言の君への返事としては、十分でしょう。赤染衛門が読んで頷きました。
「よろしゅうございます」
「説明しないわ」
「はい。説明すれば、御涙がただの事情になります」
「ただの事情……」
「沈黙のままなら、物語になります」
赤染衛門、今日かなり鋭いです。たぶん私より冷静に今回の効果を見ています。彼女は少しだけ笑い、そして静かに言いました。
「昨夜の御涙、私は理由を問いません」
「ありがとう」
「ですが、姫様に誰にも言えぬ思いがあることは、覚えておきます」
私は赤染衛門を見ました。
「それも、聞かない?」
「はい。お話しになる時が来れば、その時に」
胸が少し温かくなりました。沈黙を、勝手に暴かない人がいる。それは、ありがたいことです。
「衛門」
「はい」
「沈黙は、信頼できる人がいないと危ないわね」
「そうでございますね」
「勝手に解釈されるだけでは、孤独になる」
「ならば、藤壺では沈黙を守る者も必要です」
「また役割が増えるわ」
「増えますね」
二人で少し笑いました。私は扇を閉じました。
沈黙ブランド確立。
……などと言うと、赤染衛門に「ぶらんど?」と聞かれるので、もちろん言いません。でも、私の中ではそうです。
藤壺の中宮は、何でも帳面にするだけではありません。言葉にしないものも持っている。そう見られることは、今後きっと役に立つでしょう。
月は、まだ庭を照らしています。かぐや姫は月へ帰りました。私は帰れません。でも、帰れないからこそ、この地上に場を作ります。
藤壺という、少し変わった御殿を。
〜 出典 〜
『竹取物語』かぐや姫
今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、さぬきの造となむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。怪しがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり…
〜 舞台背景 〜
『竹取物語』は、竹取の翁によって光り輝く竹の中から見出され、翁夫婦に育てられた少女かぐや姫を巡る奇譚。『源氏物語』に「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」とあるように、日本最古の物語といわれる。9世紀後半から10世紀前半頃に成立したとされ、かなによって書かれた最初期の物語の一つである。いつからかは不明だが『かぐや姫』の題名で絵本・アニメ・映画など様々な形において受容されている。出典:wikipedia




