十八 物語オタク、更級日記女子を救う
物語好きの女房が「現実を知らぬ夢見がち」と馬鹿にされる。彰子は彼女を呼び、物語を読む力は人心理解・未来予測・比喩表現の訓練になると評価する。さらに物語の内容を記録し、人物相関図を作らせる。するとその女房は宮廷内の人間関係を読む名手になり、彰子の情報参謀として活躍し始める。
物語好きは、強い。
でも、本人がその強さに気づいていないことが多い。
前世でもそうでした。小説が好き。漫画が好き。映画が好き。ドラマが好き。推しがいる。登場人物の関係性を語り出すと止まらない。伏線を見つけると目が輝く。
「あの場面のあの台詞は、実は前半のこれと対応していて」と語り始める。
周囲からは、時々こう言われます。
――現実を見なよ。
――そんなものばかり読んで、何の役に立つの。
――夢見がちだね。
はい。
聞き覚えがあります。前世の私も、言われた側でもあり、時には言いそうになった側でもあります。でも今なら分かります。物語を読む力は、現実逃避だけではありません。
人の感情を読む力。因果関係を見る力。伏線を拾う力。複数の人物の立場を同時に考える力。言葉の裏を読む力。起こり得る未来を想像する力。それらが鍛えられます。
もちろん、物語だけ読んで現実の人間を見なければ危うい。物語の理想を現実へ無理に当てはめれば、痛い目にも遭う。『更級日記』の少女のように、物語に憧れ、源氏の世界を夢見て、現実との落差に傷つくこともあるでしょう。
けれど、それでも。物語を愛する心は、馬鹿にしてよいものではありません。むしろ宮中のような場所では、物語を読む力は武器になります。
なぜなら宮中は、巨大な物語だからです。誰が誰を愛し、誰が誰を恨み、誰が誰の庇護を受け、誰が誰の言葉を利用しているか。すべてが筋書きのようにつながっています。
確かに、登場人物は多すぎます。伏線は回収されないこともあります。語り手は信用できない。しかも読者参加型で、失敗すると自分が燃えます。最悪の大河ドラマです。
であるならば、より物語オタクは必要です。
その女房の名は、菅原の君。まだ若い女房です。家柄は悪くありませんが、宮中で強い後ろ盾があるわけではありません。顔立ちは地味。歌はそこそこ。筆跡は少し丸い。衣の趣味も、目立つほどではありません。けれど、彼女には一つ、目立つ特徴がありました。
物語が好きすぎる。
暇さえあれば物語を読んでいました。文箱の中にも物語の写し。袖の陰にも小さな紙片。誰かが物語の名を出すと、目が急に明るくなる。
特に「恋と人間関係の濃い物語」に、強い憧れを持っていました。宮中には物語への飢えが確かにあります。そして菅原の君は、その飢えが非常に強い女房でした。
問題は、周囲がそれを笑ったことです。
「菅原の君は、また物語を?」
「現実の宮中より、物語の中の宮中がお好きなのね」
「夢見がちで、可愛らしいこと」
可愛らしい。この言葉も、なかなか危険です。褒めているようで、下に見ている。定子方に近い女房たちは、菅原の君を直接いじめるわけではありませんでした。
ただ、笑う。軽く、雅に、逃げ道のある言葉で。――物語ばかり読んで、現実を知らぬ方。そういう空気を作る。
藤壺の女房たちも、最初は少し扱いに困っていました。菅原の君は悪い子ではありません。でも、話し始めると長い。
「この御方は、一見冷たいようで、実は幼少の傷がありまして……」
「この文の返しが遅れたのは、愛が冷めたのではなく、相手の身分差を思ってのことでは……」
「この女君は、ただ嫉妬深いのではなく、自分の居場所を守ろうとして……」
止まりません。
春枝は紙の話なら乗れますが、物語の長広舌には圧倒されます。小少将は衣の描写には興味を示しますが、人物関係が複雑になると黙ります。常盤は噂と重ねて面白がるものの、少し危険な方向へ話を運びがちです。赤染衛門は、最初から「この方は姫様案件です」という顔をしていました。
つまり、私のところへ来るわけです。
ある日、菅原の君が泣きそうな顔で藤壺へ来ました。
手には物語の写し。紙の端が少し折れています。何度も読んだのでしょう。私はすぐに分かりました。この子は、物語を馬鹿にされたのではない。物語を好きな自分を馬鹿にされたのです。
「姫様……」
「どうしたの」
「私、やはり現実を知らぬのでしょうか」
重い。けれど、分かります。好きなものを笑われると、人は自分まで笑われた気持ちになります。
「誰かに何か言われた?」
菅原の君はうつむきました。
「登華殿に近い女房の方々が……物語ばかり読んでいると、現実の殿方を見誤ると。宮中は物語のように美しくはないと。私は、夢見がちで役に立たぬと」
常盤が、部屋の端でむっとした顔をしました。春枝も心配そうです。赤染衛門は、静かに私を見ています。私は菅原の君に言いました。
「その人たちの言葉、半分は正しいわ」
菅原の君の顔が、さらに沈みました。
「姫様も、そう思われますか」
「物語と現実は違う。物語の殿方のように、現実の殿方が都合よく美しく振る舞うとは限らない。そこを見誤ると危険です」
「……はい」
「でも、残り半分は間違い」
菅原の君が顔を上げました。
「物語を読む力は、現実を見る力にもなります」
「現実を?」
「ええ」
私は彼女の持つ写しを見ました。
「あなたは、物語を読む時、登場人物の気持ちを考えるでしょう」
「はい」
「誰が誰を好きか。誰が誰を恐れているか。誰が嘘をついているか。誰が言葉にしない本音を抱えているか」
「はい……!」
菅原の君の目に、少し光が戻ります。
「次に何が起こるかも考えるでしょう」
「考えます。あの場面で文を返さなかったから、次に誤解が生まれるのでは、とか。この女君が黙っているのは、後で大きな行動に出る伏線では、とか」
「それです」
私は頷きました。
「それは、宮中でも必要な力です」
部屋が静かになりました。菅原の君だけでなく、他の女房たちもこちらを見ています。
「宮中では、人は本音をそのまま言いません。歌に隠します。贈り物に隠す。沈黙に隠す。笑みに隠します。物語を読む人は、そういう隠された心を読む訓練をしているのです」
菅原の君の唇が、わずかに震えました。
「訓練……」
「ええ。あなたの物語好きは、ただの夢見ではありません」
私は言いました。
「人心理解、未来予測、比喩表現の訓練です」
赤染衛門が、横で小さく眉を上げました。
「姫様。また難しい言葉を」
「後で雅に直して」
「承知いたしました」
菅原の君は、ぽかんとしています。私は続けました。
「あなたの読む力を、藤壺で使える形にします」
赤染衛門が、非常に嫌な予感を覚えた顔をしました。
「姫様」
「何?」
「また、何か表を作られるのですね」
「今回は図も作るわ」
「図?」
はい。人物相関図です。
菅原の君には、まず物語の内容を記録してもらうことにしました。ただし、あらすじを書くだけではありません。登場人物。関係性。感情の向き。隠された目的。誤解の原因。文の往復。贈答の意味。場面ごとの力関係。これらを項目ごとに整理します。
春枝が紙を用意しました。有子が書式を整えます。澄子が「直接言ったこと」と「行動から推測されること」を分ける欄を追加しました。常盤が「噂として流れた場合の変化」という欄を作ろうとして、赤染衛門に止められました。
でも、私は採用しました。
「必要よ」
「姫様、常盤殿を甘やかすと危険です」
「危険だけど役に立つ」
「否定できません」
そして完成したのが、物語人心覚。題は赤染衛門が雅に整えました。実態は、物語分析シートです。菅原の君は、目を輝かせました。
「これに、物語を書いてよいのですか」
「ええ。ただし感想だけではなく、構造を見ます」
「構造……」
「誰が何を望んでいるか。誰が何を恐れているか。誰がどの情報を持っていて、誰が知らないか」
菅原の君の表情が変わりました。
「あ……それなら、あの巻で女君が苦しんだのは、殿方の心が変わったからだけではありません。女君だけが、別の女の存在を遅れて知ったからです」
「そう」
「情報の差が、苦しみを生んでいるのですね」
「その通り」
私は内心で拍手しました。
早い。
この子、やはり向いています。物語をただ憧れとして消費していたのではない。ちゃんと人物の感情と情報の差を読んでいました。
「それを、宮中にも使います」
菅原の君が顔を上げました。
「宮中に?」
「ええ。誰が何を知っているか。誰が誰を誤解しているか。誰がどんな物語を信じたいか。それを読むの」
常盤が、興味深そうに身を乗り出しました。
「姫様、それは噂の分析にも使えますね」
「使えるわ」
菅原の君は、まだ不安そうです。
「私に、そのようなことができるでしょうか」
「できます」
私は断言しました。
「ただし、物語の登場人物を見るように、現実の人を決めつけてはいけません」
「決めつけない」
「ええ。物語なら作者がいる。でも現実には、誰も全体の筋書きを知りません」
ここは大事です。物語好きが危うくなるのは、現実の人間を勝手に役に当てはめる時です。あの人は悪役。あの人は悲劇の姫。あの人は救ってくれる君。あの人は裏切り者。そう決めると、現実を見誤ります。
「だから、仮説として見ます」
「仮説」
「そうかもしれない、と思う。でも、確かめる。違えば直す」
菅原の君は、真剣に頷きました。最初の実践は、思ったより早く来ました。ある女房が、藤壺について妙な噂を流していました。内容はこうです。
――藤壺では、年長女房が若い女房を厳しく締めつけている。
――教育係などと言って、実は自由を奪っている。
――若い女房たちは息苦しく思っているらしい。
若さマウントを教育制度に変えた後の、反撃です。噂の材料はあります。大輔の君は確かに厳しい。新入り女房たちは指導を受けている。藤壺は役割表まである。
それを「育成」ではなく「締めつけ」と解釈された。常盤が噂を持ってきた時、菅原の君がそっと言いました。
「姫様、この噂は、物語で言えば『教育係が悪役にされる筋』に似ています」
私は彼女を見ました。
「続けて」
「若い姫君が、厳しい乳母や女房に抑えられ、自由を奪われる。読者は若い姫君に同情し、年長女房を憎む」
「なるほど」
「噂を流した方は、藤壺の若い女房たちを『閉じ込められた姫君』に見せたいのではないでしょうか」
部屋が静まりました。常盤の目が輝きます。
「つまり、噂の聞き手に同情させる筋立てですね」
「はい」
菅原の君は続けました。
「この噂を否定するだけでは、物語が残ります。『厳しい教育係に怯える若い女房』という絵が」
澄子が頷きました。
「では、別の絵を見せる必要がありますね」
「はい。若い女房が自分から学び、年長女房に助けられている場面を」
私は、内心で深く頷きました。
素晴らしい。
これはまさに、物語を読む力を現実に応用しています。噂は事実だけではありません。筋立てです。人は、分かりやすい物語を信じたがる。ならば、こちらは別の物語を置きます。
若い女房が抑圧されている話ではなく、若い女房が師を得て育つ話です。
そのため、次の内々の会で、大輔の君による作法指南を公開ではなく自然に見える形で行い、若い女房たちが質問し、大輔の君が丁寧に答える場を作りました。
春枝が、わざと少し困ったことを相談します。
「大輔の君、この場合、他の御殿の女房へどのように返せば失礼になりませぬか」
大輔の君が丁寧に答えます。若い女房たちは、怯えていません。むしろ助かっている。それを見た外の女房が、噂を持ち帰ります。
――藤壺の教育係は厳しいけれど、若い女房たちはよく質問している。
――閉じ込められているというより、学びの場らしい。
噂の筋が変わりました。菅原の君は、その結果を聞いて、信じられないという顔をしました。
「私の読みが、役に立ったのですか」
「立ったわ」
私は言いました。
「あなたは、噂の物語を読みました」
彼女の目が潤みました。その後、菅原の君は急速に藤壺で役割を持ち始めました。常盤が噂の流れを見る。澄子が場の観察をする。菅原の君が、その噂や出来事の「筋」を読む。
この三人の組み合わせは、かなり強力でした。もちろん、すべて当たるわけではありません。時々、物語的に読みすぎることもあります。
「この沈黙は、秘めた恋では」
「ただの疲れかもしれないわ」
「はい……」
と、私に止められることもありました。でも仮説は直せばよいのです。大事なのは、菅原の君が自分の物語好きに恥じなくなったことです。
ある日、定子方に近い女房が、また軽く笑いました。
「藤壺では、物語好きの菅原の君まで参謀にされたとか」
少納言の君の口から伝わってきた言葉です。
「物語を読んで宮中を読むとは、ずいぶん夢多きこと」
その場にいた菅原の君は、一瞬うつむきました。昔なら、そこで黙って傷ついたでしょう。けれど今の彼女は違いました。静かに顔を上げて、言ったのです。
「物語には、人が隠したい心ほどよく出ますので」
部屋の空気が止まりました。少納言の君が、扇の陰で笑いました。
「ほう」
菅原の君は、少し震えながらも続けました。
「現実も同じかは、まだ学んでおります。ただ、笑う方の言葉にも、その方が何を恐れているかは少し見える気がいたします」
強い。
私は心の中で拍手しました。少納言の君は、一瞬目を見開き、それから本当に楽しそうに笑いました。
「藤壺は、また一人、面白き女房を育てられましたね」
それは、たぶん褒め言葉でした。その夜、私は菅原の君を呼びました。
「菅原の君」
「はい」
「これから、あなたには物語係を任せます」
「物語係……?」
「ええ。物語の記録、人物関係の整理、噂の筋立ての分析。常盤と澄子と連携して」
彼女は信じられないという顔をしました。
「私が、そのようなお役目を」
「できます」
「はい……!」
菅原の君は、深く頭を下げました。その姿を見ながら、私は思いました。
いつか、この藤壺には、本物の大きな物語を書く女が来ます。その人の筆は、人の心を鋭く、深く、時に残酷に描くでしょう。
その時、ここに物語を読む女房がいることは、きっと意味を持ちます。書く者を迎えるには、読む者も必要です。物語を愛する者が馬鹿にされない御殿。それは、後のための土壌です。
赤染衛門が、今日の心得をまとめました。題はもちろん、物語を読む心得。内容はこうです。
一、物語好きを笑ってはならない。
二、物語を読む力は、人の心、情報の差、誤解の筋を読む力につながる。
三、ただし現実の人を物語の役に決めつけてはならない。
四、読みは仮説とし、事実で直す。
五、噂は事実だけでなく、筋立てとして広がる。
六、相手がどの物語を信じさせたいかを見る。
七、好きなものは、逃げ場にも力にもなる。
赤染衛門が筆を置き、少し笑いました。
「姫様。今回の心得は、優しゅうございますね」
「いつも優しいつもりだけど」
「半分ほどは」
「また半分」
私は苦笑しました。その時、常盤がぼそりと言いました。
「姫様、あの言葉も入れないのですか」
「あの言葉?」
「推し活を笑う者は、情報収集力を知らないのですッ」
部屋が止まりました。赤染衛門が、ゆっくりこちらを見ます。
「姫様。常盤殿がまた不思議なお言葉を覚えております」
「常盤、どこで」
「姫様が以前、小さく呟いておられました」
「忘れて」
「忘れられません」
私は額に手を当てました。確かに、言ったかもしれません。でも、意味としては本当にそうです。
「赤染衛門、雅に直して」
赤染衛門は少し考え、こう書きました。
『好むものを追ふ心を笑ふ者は、その目の鋭さを知らぬ。』
よい。とてもよい。
でも、常盤は少し不満そうでした。
「『推し活』の方が勢いが」
「忘れて」
そうして、菅原の君は、物語の写しと新しい記録紙を抱えて帰っていきました。
その後ろ姿は、来た時より少しだけまっすぐでした。
〜 出典 〜
『更級日記』源氏物語への憧れ
かくのみ思ひくんじたるを、心も慰めむと、心苦しがりて、母、物語など求めて見せたまふに、げにおのづから慰みゆく。紫のゆかりを見て、続きの見まほしくおぼゆれど、人語らひなどもえせず。たれもいまだ都慣れぬほどにて、え見つけず……
〜 舞台背景 〜
更級日記は、平安時代中期頃に書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女・菅原孝標女。母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母である。夫の死を悲しんで書いたといわれている。作者13歳(数え年)の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間が綴られている。全1巻。『蜻蛉日記』『紫式部日記』などと並ぶ平安女流日記文学の代表作の一に数えられる。江戸時代には広く流通して読まれた。出典:wikipedia
更級日記は助動詞や敬語、係り結びなど、高校古典で学ぶ文法事項がバランスよく含まれているらしく入試問題頻出です。是非ブックマークして繰り返しご覧下さいw




