十六 香合わせ、鼻ではなく記憶で勝つ
香合わせで定子方から挑戦を受ける。彰子は香の名を当てるのは苦手だが、香りと記憶の結びつきを利用し、それぞれの香に物語を添えて分類する。単なる鑑定勝負ではなく、「この香は誰に贈るべきか」「どの場面で焚くべきか」という実用評価に変える。
香は、情報です。
……などと言うと、赤染衛門にまた深くため息をつかれるので、普段は口にしません。
けれど、私の中ではかなり本気です。この時代、香はただよい匂いを楽しむものではありません。
衣に焚きしめる。文に移す。御簾の内に漂わせる。贈り物に添える。夜の訪れの気配になる。誰かが去った後の余韻になる。つまり香は、目に見えない名刺です。
誰が来たか。誰の文か。どんな気分か。どんな季節か。どの御殿の趣か。それらを、言葉より先に伝える。
前世で言えば、ブランドのロゴに近いでしょうか。いえ、もっと強い情報です。香りは、記憶に残ります。ある匂いを嗅いだ瞬間、忘れていた人や場所や感情が、急に目の前に戻ってくることがあります。
雨の日のアスファルト。新品の本。古い木造校舎。冬の朝の布団。病院の消毒液。コンビニのホットスナック。誰かのハンドクリーム。
匂いは、脳の奥を直接叩いてくる。だから香は怖い。美しいだけでは済まない。香は、人の心に入り込む。この宮中で、それをただ「よい香ですね」で終わらせるのは、もったいない。そして当然ながら、登華殿の方々は香も強い。
清少納言のいる御殿です。
香の名を当て、産地を語り、調合の妙を褒め、季節との合い方を一言で言い切る。そういう感性勝負をさせたら、こちらはかなり危ない。私は香の専門家ではありません。
沈香、麝香、丁子、薫物。名前は分かります。ある程度の違いも分かります。けれど、目隠しで香を聞いて、
――これはどこそこの沈で、何の配合、何年寝かせたもの。
などと即答できる自信はありません。つまり、鼻では勝てない。ならば、また軸を変えるしかありません。
香合わせの挑戦が来たのは、帝の御前でのことでした。
藤壺では、先日の若さマウントを教育制度に変換した余波で、年長女房たちがたいそう張り切っていました。大輔の君は新入りへの指導に熱を入れ、弁の君は儀礼の手順を整え、三河の君は有子の記録を細かく直す。藤壺は、以前よりずっと安定してきています。
安定してくると、外から揺らされます。これはもう、宮中の仕様です。
その日、登華殿の少納言の君と丹波の君が、香壺を携えてやって来ました。丹波の君は唐物好きで、以前は香炉でこちらに挑んできた人です。今回は、香です。彼女は、上品に微笑みました。
「藤壺の御方では、近頃、香炉も御殿に合わせてお作りになったとか」
「ええ。職人の手がよいものを作ってくれました」
「まことに結構なことにございます。けれど、香炉が整えば、次は香そのもの。せっかくでございますから、香合わせなどいかがでしょう」
来ました。
香合わせ。
女房たちの間に、緊張が走ります。香合わせは、ただ香を嗅いで楽しむだけではありません。香の種類を当てる。優劣を論じる。名をつける。場にふさわしいか語る。まさに感性と教養の総力戦です。
少納言の君が、扇の陰で笑いました。
「藤壺の姫様は、香をどのように御覧じるのか、ぜひ伺いたく」
はい。
翻訳しましょう。
――紙箱、装束表、猫の寝床までは上手に整えたようですけれど、香のような繊細な趣は分かるのかしら?
ということです。
赤染衛門が、横で静かにこちらを見ました。止めますか、受けますか、という目。私は少し考えました。
断れば、逃げたと言われる。受ければ、正面からは不利。なら、受けてから変える。最近の定番戦術です。
「よろしいでしょう」
私は答えました。女房たちが小さく息を呑みます。少納言の君の笑みが深くなりました。
「では、香の名を当てる形にいたしましょうか」
「それは、皆様お得意でしょう」
「姫様は?」
「私は、香の名を当てるのは得手ではありません」
部屋が静まりました。またです。私は最近、できないことをすぐ口にする中宮になっています。赤染衛門の胃には悪いでしょう。でも、知ったかぶりはもっと悪い。少納言の君が、面白そうに目を細めました。
「では、どのように」
「香が何であるかだけではなく、香をどう使うかを見たいと思います」
「使う?」
「ええ。この香は誰に贈るべきか。どの場面で焚くべきか。どの記憶と結びつけるべきか」
丹波の君が首を傾げました。
「香を、記憶と?」
「香は、記憶を呼びます」
私は静かに言いました。
「ならば、ただ名を当てるだけでなく、人の心にどう残るかを考えるべきでしょう」
帝が、少し興味深そうにこちらを見ました。
「面白い。続けよ」
その一言で、勝負の形が決まりました。香の鑑定勝負から、香の運用評価へ。鼻で勝てないなら、記憶と場で勝つ。香合わせは、藤壺の新しい香炉を使って行うことになりました。唐物の龍の香炉ではありません。国の職人に作らせた、梅と霞の透かしの香炉です。派手ではない。けれど、煙が柔らかく立ち上がり、場を主張しすぎず、支えます。
香合わせには、いくつかの香が用意されました。登華殿方が持ってきたもの。藤壺で普段使っているもの。父上から届いたもの。職人を通じて手に入れた国内のもの。
丹波の君は、さすが香に詳しい。最初の香を焚くと、すぐに目を細めました。
「これは、沈の奥に丁子が少し。春の終わりより、秋の夜に合いましょう」
少納言の君も続けます。
「深く、少し寂しゅうございます。文に移せば、待つ人の心を重くいたしましょう」
うまい。香の性質と情緒を結びつけている。帝も頷いていました。
次に、藤壺側の女房たちが答えます。小少将は、香と衣の相性を見ました。
「この香は、濃き色の衣には少し重うございます。薄き白、または青みのある色に移せば、香が前に出すぎませぬ」
よい。
装束役らしい視点です。春枝は、紙を見ました。
「文に移すなら、あまり薄い紙では香が勝ちすぎるかと。少し厚みのある紙の方が、香が落ち着きます」
これもよい。紙役らしい。澄子は、場を見ました。
「多く人の集まる席では、少し強すぎます。一対一の御文、または夜更けの少人数の場がよろしいかと」
実用的。私は内心で頷きました。藤壺の女房たちは、香を香だけで見ていません。
紙、衣、場、人。それぞれの視点がある。そして私の番です。私は香を聞きました。深く、少し苦みがあり、後から甘さがくる。正直、素材名ははっきり分かりません。でも、それでいい。
「この香は、すぐに楽しい気分にする香ではありませんね」
私は言いました。
「最初に少し重く、後から甘さが残る。ですから、華やかな祝いには向きません」
丹波の君が、少し意外そうにこちらを見ました。
「では、何に」
「長く会えていない相手への文に」
部屋が静まりました。
「ただし、恋文として強く使いすぎると重い。親しいけれど距離ができた相手、あるいは昔の恩を忘れていないと伝えたい相手に合うでしょう」
帝が、静かに聞いています。
「この香は、『あなたを忘れていません』という記憶を添える香です」
少納言の君の扇が、少し止まりました。
「香に、そのような役目を?」
「あります」
私は答えました。
「言葉で『忘れていません』と書くと、時に重い。けれど香なら、相手が文を開いた時に、ふと思い出すだけで済む」
私は香炉の煙を見ました。
「香は、言葉より少し遅れて届く心遣いです」
帝が、小さく笑いました。
「なるほど」
よし。まず一つ。
次の香は、明るいものでした。軽く、甘く、少し青い。丹波の君はすぐに言います。
「これは若葉のころに合いますね。朝の衣に移せば、いと清々しゅう」
少納言の君も続けました。
「春の終わり、まだ夏には早きころ。若い女房の袖に残れば、見る者も心軽うなりましょう」
この辺りはさすがです。感性が鋭い。小少将は、若い女房の装束に合わせるなら強さを抑えるべきだと言いました。有子は、文に移すなら短い挨拶状がよいと述べます。
私も香を聞きました。軽い。よい香です。ただ、軽すぎて、深刻な用には向かない。
「これは、初対面に近い相手へよいでしょう」
私は言いました。
「初対面?」
丹波の君が尋ねます。
「ええ。重くない。押しつけがましくない。明るい。相手に警戒させない」
私は続けます。
「新しく藤壺へ来た女房へ、最初に渡す紙や小物に少し移すとよいかもしれません。『ここは怖い場所ではない』と、言葉より先に伝えられる」
澄子が、静かに頷きました。彼女は新入りの不安を見るのが得意です。
「また、帝への御返事には、軽い話題の時だけ。重い相談には向きません」
帝が少し面白そうにしました。
「なぜ」
「この香は、深刻な言葉の横に置くと、言葉を軽く見せてしまいます」
「香が、言葉を軽くするのか」
「はい。逆に、重い香は軽い言葉を重くします」
帝はしばらく考えました。
「香は、文の調子を変えるのだな」
「ええ」
私は頷きました。
「文の声色です」
赤染衛門が、はっとした顔をしました。その表現は、宮中でも通じやすかったようです。文の声色。香は、書かれた言葉に声を与える。明るくする。沈ませる。甘くする。距離を詰める。距離を保つ。それなら、香はただ美しいだけではなく、文の一部です。
三つ目の香は、難しかった。強い。高価で、深く、いかにも上質。焚いた瞬間、部屋の空気が変わります。丹波の君の顔が誇らしげになりました。
「これは、唐より渡りし上物にございます。登華殿でも、特別な折にのみ」
また唐物です。香りは確かに素晴らしい。深く、複雑で、余韻が長い。少納言の君が言いました。
「主上の御前や、大切な贈答にふさわしき香かと」
女房たちも、うっとりした顔です。私は香を聞きながら、少し考えました。これは強い。強すぎる。よい香ですが、扱いが難しい。高級ブランドの強い香水に似ています。似合う人が使えば圧倒的。合わない場で使うと、全員を支配する。
「姫様は、いかが御覧じますか」
丹波の君が尋ねました。私は正直に言いました。
「これは、危険な香です」
部屋が静まりました。丹波の君の顔がこわばります。
「危険?」
「ええ。香そのものが悪いのではありません。強すぎるのです」
私は続けました。
「この香を文に移せば、相手は必ず気づくでしょう。御殿で焚けば、誰もが振り向くでしょう。けれど、それは同時に、相手に逃げ場を与えない」
少納言の君が、静かに聞いています。
「これは、勝負の香です。謝罪には向きません。見舞いにも向かない。疲れた人のそばで焚けば、たぶん重い」
帝が、少し目を細めました。
「では、いつ使う」
「こちらの意志を明確に示す時です」
私は言いました。
「たとえば、大きな贈答で、藤壺が相手を重んじていることを示す時。あるいは、こちらの格を疑われた時に、静かに置く。けれど日常で使えば、品ではなく圧になります」
丹波の君の顔が少し変わりました。彼女はこの香を自慢として出したのでしょう。確かに見事です。でも、私はそれを「常用する香」ではなく「戦略的に使う香」と位置づけました。少納言の君が、ふっと笑いました。
「香にも、出陣の折があるのですね」
「あります」
「では、登華殿でこの香を焚いた時、私どもは戦を仕掛けていたのでしょうか」
「たぶん」
部屋が少し笑いました。丹波の君も、困ったように笑いました。場が和らぎました。私は続けます。
「強い香は、美しい刃です。抜く時を間違えなければ、たいへん役に立ちます」
帝が頷きました。
「よい。香を刃と言うのは、面白い」
赤染衛門が横で小さく呟きました。
「姫様は、何でも刃か道具になさいますね」
「便利だから」
「でしょうね」
香合わせは、次第に普通の勝負ではなくなりました。最初は、登華殿方が香の名や質を語り、藤壺方がそれに追いつこうとする形でした。しかし途中から、問いが変わったのです。この香は誰に贈るべきか。どの文に移すべきか。どの季節に焚くべきか。どの御殿には合わないか。帝の御前で使うなら、朝か夜か。見舞いに添えるなら、どれがよいか。失礼にならない程度の距離感を出す香はどれか。香が、ただの鑑定対象から、関係調整の道具になっていきました。帝は明らかに面白がっていました。
「では、彰子」
「はい」
「私が政務に疲れて立ち寄る時は、どの香がよい」
女房たちが一斉に緊張しました。帝が自分を例に出したのです。これは慎重に答えなければなりません。私は香の中から、藤壺で普段使う控えめなものを選びました。
「こちらかと」
「なぜ」
「強すぎず、甘すぎず、長く残りすぎません。政務の疲れを別の強さで押すのではなく、少しだけ場を切り替える香です」
「切り替える」
「はい。ここへ来た時、外の緊張を少し置けるように。ただし、戻る時に香が強く残りすぎると、次の場へ持ち越してしまいます」
帝は、しばらく黙って香を聞きました。
「なるほど。香にも、帰り際があるのだな」
「はい」
私は頷きました。
「よい香ほど、去り方が大切です」
少納言の君が、扇の陰でこちらを見ました。今の言葉は、たぶん彼女の好みにも触れたのでしょう。帝は静かに笑いました。
「藤壺の香は、私を引き留めすぎぬのか」
部屋の空気が一瞬、微妙に変わりました。これは答えにくい。帝を引き留めたいか。政治的には、もちろん来ていただきたい。長くいていただければ、父上も喜ぶでしょう。女房たちの誇りにもなる。でも、香で引き留めるという発想は、少し違います。私は正直に答えました。
「引き留めたい時もございます」
帝が目を上げました。
「ですが、無理に絡みつく香は、次に来る足を重くします」
部屋が静かになります。
「また来たいと思っていただくには、去る時の軽さも必要かと」
帝は、長く黙りました。そして、低く笑いました。
「そなたは、香でまで逃げ道を作るのだな」
「逃げ道ではなく、帰り道です」
「帰り道」
「はい。帰り道が気持ちよければ、また来やすくなります」
帝は、香炉の煙を見つめました。
「覚えておこう」
その一言に、藤壺の女房たちが静かに息を呑みました。
これは勝負の勝ち負け以上に大きい。帝が、香をただの趣味ではなく、関係の設計として見た。香合わせが終わった後、少納言の君が私のそばに来ました。
「姫様」
「何でしょう」
「本日の香合わせ、少々ずるうございます」
「ずるい?」
「香の名を当てる勝負でしたのに、いつの間にか贈答と心遣いの話になっておりました」
「名を当てるのが苦手なので」
「それを堂々と仰せになるところが、やはり強うございます」
少納言の君は苦笑しました。
「けれど、面白うございました。香を誰に贈るか、どの場で焚くか。登華殿でも試してみたくなります」
「ぜひ」
「ただし、清少納言様に申し上げれば、きっとこうおっしゃいます」
「何と?」
「香まで帳面に入れられては、煙も逃げ場を失う、と」
私は思わず笑いました。
「うまいわね」
「でしょう」
「でも、煙にも道は必要です」
少納言の君が目を細めます。
「それも、返しとしてよろしゅうございますね」
「持ち帰っても?」
「ええ。清少納言様に」
「では、そのまま」
少納言の君は笑って去りました。敵とも味方とも言い難い人です。ただ、こういう人がいるから宮中は面白く、そして疲れます。
夜、藤壺では香の記録をまとめることになりました。もちろん、ただの香名一覧ではありません。香の強さ。甘さ。重さ。残り方。合う紙。合う衣。向く相手。向かない場。贈答用途。帝御前での使用可否。赤染衛門が、半ば諦めた顔で筆を取りました。
「姫様。香まで分類されましたね」
「必要でしょう」
「ええ、必要でございます。悔しいことに」
春枝は紙との相性を書き加えました。
「この香は、薄様には強すぎます」
小少将は衣との組み合わせ。
「淡い柳には合いますが、濃紅梅には重うございます」
澄子は場面。
「不安な者のそばでは、甘すぎる香はかえって苦しゅうなります」
有子は文の種類。
「短い御礼には軽い香。長い謝意には、少し残るものを」
常盤は情報面。
「強い香は、誰からの文か推測されやすくなります」
さすが常盤。
香も情報漏洩の原因になると見ています。私は頷きました。
「その通り。香が強すぎると、文の相手が露見することもある」
赤染衛門が、少し真面目な顔になりました。
「では、恋文には注意が必要ですね」
「ええ。香りで相手が分かる恋文は危険です」
「また新しい危険が」
「宮中は危険だらけよ」
「最近、本当にそう思います」
こうして、藤壺には新しい帳が生まれました。香の記憶覚。赤染衛門は題を見て、少しだけ微笑みました。
「これは、雅でございますね」
「珍しく?」
「はい。珍しく」
失礼な。でも、少し嬉しい。香の記憶覚。そこには、香の名だけでなく、香が呼び起こす記憶、合う場、避けるべき使い方が記されました。単なる一覧ではありません。心遣いの地図です。
その後、私は一人で香炉の前に座りました。
今日、帝に選んだ香を、ほんの少しだけ焚いています。強くない。甘すぎない。長く残りすぎない。来た人が少し息を抜き、帰る時に重くならない香。
煙は静かに立ちのぼり、梅と霞の透かしを抜けて消えていきました。
消えた後も、わずかに残る。それが香の仕事です。
そしてたぶん、それは御殿の仕事でもあるのです。
〜 出典 〜
『源氏物語』第三十二帖 梅枝/香合わせ
正月の晦日なれば、公私のどやかなるころほひに、薫物合はせ給ふ。大弐の奉れる香ども御覧ずるに、「なほ、いにしへのには劣りてやあらむ」と思して、二条院の御倉開けさせ給ひて、唐の物ども取り渡させ給ひて、御覧じ比ぶるに⋯
〜 舞台背景 〜
ちなみに私はおしゃれな香りより、お寺や神社の匂いが好きですw




