十三 猫の位階事件
帝の寵愛する猫をめぐって、女房たちが「どちらの御殿に猫が懐くか」で張り合う。定子方は猫を雅な存在として歌に詠むが、彰子は猫の行動を観察し、餌・寝床・人の声量・香の強さで懐き方が変わると分析。猫は彰子の御殿で落ち着くようになる。
猫は、偉い。
これは比喩ではありません。この宮中では、本当に偉い猫がいるのです。帝に愛され、女房たちに可愛がられ、時に人間より丁重に扱われる猫。
前世の感覚で言えば、社長室にいる看板猫でしょうか。
いえ、違います。この時代の猫は、もっと政治的です。なぜなら、帝が可愛がる猫は、ただの猫ではなくなるからです。
帝が撫でる。帝が名を呼ぶ。帝が笑う。帝の袖にじゃれる。帝の御前で眠る。それだけで、その猫の周囲には人が集まります。
誰が餌をやったか。誰の膝に乗ったか。誰の御殿で眠ったか。誰が抱いた時に喉を鳴らしたか。すべてが話題になり、猫一匹の動きで、女房たちの空気が揺れます。
平安宮中、怖い。
そして面倒。実に面倒です。けれど、私は猫が嫌いではありません。むしろ好きです。
前世の帰り道、コンビニの裏にいた野良猫に癒やされたこともあります。SNSで猫動画を見て、気づいたら深夜になっていたこともあります。猫は可愛い。それは時代を越えた真理です。
ただし。猫は、人間の政治道具ではありません。人間が勝手に意味を乗せて騒いでいるだけで、猫はたぶんこう思っています。
眠い。腹が減った。その香、強い。その手、しつこい。そこは暖かい。ここは落ち着く。つまり、猫は正直です。だからこそ、猫をめぐる争いには、人間の愚かさがよく出ます。
その猫が梅壺へやって来たのは、よく晴れた昼下がりでした。
白地に薄く茶の混じった、たいそう美しい猫です。毛並みは柔らかく、尾はふわりと長い。目は琥珀色で、こちらを見ているようで見ていない。名前は、命婦のおとど。
……猫なのに、位階めいた名を持っています。いかにも宮中です。
帝の御前で可愛がられている猫として、すでに女房たちの間では有名でした。登華殿では、清少納言方の女房たちがこの猫をたいそう雅に語っているそうです。
猫が几帳の紐にじゃれた。猫が御簾の端から顔を出した。猫が帝の御袖に乗った。猫の鳴き声が、春の鳥よりも愛らしい。そういう小さな出来事を、歌や語りにして楽しむ。
上手い。実に上手い。
猫を猫として愛でつつ、場の華やぎに変える。定子サロンの得意技です。そして当然、そこには少しばかりのマウントが混じります。
――命婦のおとども、登華殿の明るさを好むようで。
――猫にも、御殿の趣は分かるのでしょう。
――梅壺のように帳面と紙箱の多いところでは、猫も肩が凝るかもしれませんね。
猫に肩があるかどうかはともかく、言いたいことは分かります。猫ですら、登華殿を選ぶ。そう言いたいのです。
で、その猫がなぜ梅壺へ来たか。帝が連れてきたからです。正確には、帝の御前についてきたのか、途中で勝手についてきたのか、よく分かりません。猫なので。
帝がお越しになる少し前、廊の方から女房たちのざわめきが聞こえました。
「命婦のおとどが……!」
「こちらへ?」
「まあ、梅壺へお入りに」
赤染衛門が、いつもより少し慌てた顔で私に告げました。
「姫様。命婦のおとどが、こちらへ」
「猫が?」
「はい。主上のお気に入りの」
「そう」
私は扇を置きました。
「では、まず香を弱めて」
赤染衛門が瞬きしました。
「香、でございますか」
「猫は香が強いと嫌がることがあるでしょう」
「……そうなのでございますか」
「たぶん」
前世知識です。猫は嗅覚が鋭い。強い香りを嫌がることが多い。この時代の女房たちは、香を焚いて場を整えることに慣れています。けれど猫にとっては、それがきつい可能性があります。
「澄子」
「はい」
「火鉢のそばに、熱すぎない場所を作って。御簾から少し離して、風が直に当たらないところ」
「承知しました」
「春枝」
「はい」
「紙箱は閉じて。紐や端紙が出ていると遊ばれる」
「はい!」
春枝が、まるで敵襲でも来たかのように紙箱を守り始めました。有子は筆を止め、紙を避難させます。
小少将は衣の裾を整え、猫が爪を引っかけにくいようにしました。常盤は、もう廊の様子を観察しています。赤染衛門が、私を見ました。
「姫様。猫一匹に、御殿全体が動いております」
「猫は小さな災害よ」
「災害」
「可愛い災害」
「否定しきれぬところが困ります」
命婦のおとどは、ゆっくりと梅壺へ入ってきました。
先導しているのは、帝です。いえ、帝が先導しているのではありません。猫が先導し、帝がついてきている。主従が逆です。
女房たちは一斉にかしこまりました。
猫は、その緊張など意に介さず、すん、と鼻を動かしました。まず、御簾の近くへ。次に、火鉢の方へ。そして春枝の紙箱の前で一瞬立ち止まりました。
春枝の顔が青くなります。
猫は紙箱を見上げ、興味ありげに尾を揺らしました。私は心の中で祈りました。
(やめて。そこは春枝の命より大事な紙箱)
すると猫は、ふいと向きを変え、澄子が用意した火鉢近くの場所へ歩いていきました。そして、そこに丸くなりました。部屋の緊張が、ふっと緩みます。帝が笑いました。
「彰子。そなたの御殿は、猫まで迎える準備が早いな」
「主上のお気に入りとうかがいましたので」
「香を弱めたか」
「はい。強すぎる香は、猫にはつらいかと」
帝が、少し興味深そうに猫を見ました。
「そういうものか」
「人より鼻がよいでしょうから」
「なるほど」
猫は目を細め、何も答えません。しかし、逃げません。これは大きい。命婦のおとどは、しばらく火鉢の近くで丸くなり、その後、澄子の膝近くへ移動しました。澄子は動きません。猫を見て騒がず、手を出さず、ただ静かに座っています。
よい。
猫に対する態度として正しい。猫は、自分から澄子の袖に鼻先を寄せ、そこに落ち着きました。女房たちが、声にならない悲鳴を上げます。
可愛い。
確かに可愛い。帝も、たいそう満足げでした。
「命婦が、ここでは静かだな」
「落ち着く場所があったのでしょう」
「登華殿では、よく紐で遊んでいる」
「楽しい場所なのでしょう」
「ここは?」
帝が尋ねました。私は猫を見ました。
「眠れる場所、でしょうか」
帝は、少し笑いました。
「それもよい」
はい。よいです。猫が眠れる御殿。地味ですが、かなり強い。
問題は、その後でした。命婦のおとどが梅壺で落ち着いたことは、当然のように噂になりました。
猫が梅壺で眠った。澄子の袖に寄った。香が弱められていた。春枝が紙箱を守った。帝が笑った。
猫一匹の行動が、すぐに女房ネットワークを流れます。そして、登華殿方も黙っていません。
翌日、少納言の君がやってきました。
表向きは、命婦のおとどが梅壺で過ごしたことへの挨拶。実際は、猫マウントの回収です。
「梅壺の御方では、命婦のおとどをたいそう上手にお迎えになったとか」
「たまたま落ち着いただけです」
私が答えると、少納言の君は扇の陰で笑いました。
「たまたま。猫は気まぐれにございますものね」
「ええ」
「けれど、伺いました。香を弱め、火のそばに寝床を整え、紐や紙を片づけ、餌まで用意なさったとか」
「餌は少しだけです」
魚をほんの少し。澄子が用意しました。猫が食べるかどうか分からなかったので、強く勧めはしていません。少納言の君は、そこを逃しませんでした。
「まあ。獣を餌で釣られましたか」
部屋の空気が固まりました。春枝がむっとした顔になります。小少将も眉を寄せました。常盤は、もう反撃の材料を探していそう。少納言の君は、柔らかく続けます。
「登華殿では、命婦のおとどを歌に詠み、御簾の陰に遊ぶ姿を愛でております。猫にも雅を解する心がありましょう。餌や寝床で御機嫌を取るのは、少々……」
言いたいことは分かります。
――梅壺は猫の気持ちを餌で操作した。
――登華殿は猫を雅に愛でる。
――あなたたちは、獣の扱いも実務的なのね。
はい。
また来ました。
実務マウント返しへの、雅マウント。私は、猫のいない床を見ました。そこには昨日、命婦のおとどが丸くなっていた場所があります。香を弱め、寝床を用意し、声を小さくし、餌を少し置いた。
それを「釣った」と言われれば、確かにそう見えるかもしれません。でも。私は静かに言いました。
「少納言の君」
「はい」
「猫は、歌を聞いて喜ぶのでしょうか」
少納言の君の扇が、止まりました。
「それは……猫にも心がございますれば」
「ええ。心はあるでしょう。けれど、人の歌を、私たちと同じように解するかは分かりません」
部屋が静かになります。
「猫は、強い香を嫌がるかもしれない。大きな声に驚くかもしれない。落ち着ける場所を求めるかもしれない。空腹なら餌を食べ、眠ければ暖かい場所へ行く」
少納言の君は黙っています。
「それを見ずに、『猫にも雅が分かる』と言うのは、人間の願望です」
少納言の君の目が、少し細くなりました。私は続けました。
「もちろん、猫を歌に詠むことは美しい。命婦のおとどの姿を言葉に残すのもよいでしょう。でも、猫そのものに向き合うなら、まず猫が何を嫌がり、何を好むかを見るべきです」
春枝が、こくりと頷きました。澄子は静かに目を伏せています。彼女が昨日、猫に手を出さず待ったことを、私はきちんと見ていました。
「相手の習性を無視して愛を語るのは」
私は少し声を低くしました。
「愛ではなく支配です」
部屋の空気が、ぴんと張りました。少納言の君の表情が、はっきり変わりました。猫の話から、急に人間の話になったことに気づいたのでしょう。
相手の習性を無視して愛を語る。それは、猫だけではありません。女房にも。恋人にも。后にも。帝にも。父にも娘にも。人は、自分が与えたいものを愛と呼びがちです。
美しい歌。高価な唐物。強い香。立派な支援。熱烈な言葉。重すぎる期待。でも、相手がそれを望んでいるとは限らない。相手の性質を見ず、自分の理想を押しつけるなら、それは愛ではなく支配です。
少納言の君は、しばらく黙っていました。やがて、小さく笑いました。
「梅壺の御方では、猫一匹から人の道まで説かれるのですね」
「猫は正直ですから」
「正直」
「ええ。人より嘘が少ない」
少納言の君は、扇で口元を隠しました。
「では、登華殿でも命婦のおとどに、もう少し香を弱めてみましょう」
私は少し驚きました。
「それはよいかと」
「餌で釣るのではなく、習性を見るために」
「ええ」
「ただし」
彼女は目を細めました。
「歌にも詠みます。猫が香を避けることまで」
「それは楽しみです」
少納言の君は、去っていきました。敵意半分、面白がり半分。これは、まあ成功でしょう。
命婦のおとどは、その後も時々梅壺へ来るようになりました。勝手に。猫なので。
最初の数回は、女房たちが浮き足立ちました。
「命婦のおとどが!」
「紙箱を守って!」
「香を!」
「火鉢を!」
「餌は?」
「声を小さく!」
大騒ぎです。猫のために静かにするはずが、猫が来た瞬間に騒ぐ。
本末転倒。
私はすぐに「猫対応心得」を作らせました。赤染衛門が、たいへん嫌そうな顔をしました。
「姫様。猫にまで心得を?」
「猫が来るたびに混乱するよりよいでしょう」
「それは、そうでございますが」
「題は、命婦のおとど御迎え覚」
「猫の名に御を重ねるのですね」
「位階持ちみたいな猫だから」
「確かに」
心得は以下の通りです。
一、命婦のおとどが来ても、大声を出さない。
二、香は弱める。新しい香を試す時は猫の様子を見る。
三、紐、端紙、細き文は片づける。
四、無理に抱かない。猫から近づくまで待つ。
五、餌は少量。食べぬ時は追わない。
六、寝床は火に近すぎず、風の当たらぬ場所。
七、猫の行動を政争の証拠にしない。
赤染衛門が最後の一項を書いて、しみじみと言いました。
「姫様。七つ目こそ、もっとも大事にございますね」
「ええ」
猫がどちらの御殿に懐くかで張り合う。それは、猫を使った人間の争いです。猫に罪はありません。なので、梅壺ではそこを線引きします。命婦のおとどが来たら嬉しい。落ち着いてくれたら嬉しい。でも、それをもって「梅壺が勝った」とは言わない。
猫は戦利品ではありません。猫です。猫対応心得の効果は、すぐに出ました。命婦のおとどが来ても、女房たちは落ち着いて動くようになりました。
春枝は紙箱を閉じる。澄子は寝床を整える。小少将は衣の裾をまとめる。有子は筆を安全な位置へ移す。常盤は、猫に関する噂が誇張されないよう控えめに記録する。赤染衛門は、猫の前でため息をつかないように努力する。
最後は、あまり成功していません。
命婦のおとどは、なぜか赤染衛門のため息の近くでよく寝ました。
「姫様」
「何?」
「この猫、私が疲れている時ほど近づいてきます」
「癒やしてくれているのでは」
「私には、監視されているように思えます」
「猫に?」
「はい」
赤染衛門が真顔で言うので、私は少し笑いました。命婦のおとどは、赤染衛門の袖に顎を乗せています。たいそう偉そうです。
「衛門、動かないで」
「動けませぬ」
「猫に選ばれたのね」
「光栄でございますが、腕がしびれます」
「愛ね」
「支配では?」
「相手の習性を無視しているから、支配かもしれない」
「姫様」
部屋に小さな笑いが起こりました。猫は目を閉じたままです。たぶん、何も考えていません。
でも、この何も考えていなさそうな存在が、梅壺の空気を少し柔らかくしていました。
数日後、登華殿から歌が届きました。命婦のおとどを詠んだものです。
『香深き 袖を逃れて 寝る猫の 心のままに 春ぞ長閑き』
(香の強い袖を避けて寝る猫。心のままに過ごす春の長閑さ。)
これはおそらく、少納言の君か、あるいは清少納言本人が関わっています。皮肉も少しあります。でも、猫の習性を見た歌になっていました。
私は返歌を考えました。猫に返歌。宮中は本当に何でも歌になります。私は少し考え、こう書きました。
『寄る袖を 選ぶけものの まなざしに 人のまことも 映るものかは』
(近づく袖を選ぶ獣のまなざしに、人の本当の姿も映るのだろうか。)
赤染衛門が読み、静かに頷きました。
「少し、刺さりますね」
「猫だから柔らかいでしょう」
「猫を盾になさらないでくださいませ」
「盾ではないわ。仲介」
「猫も大変でございますね」
命婦のおとどは、その時、春枝の閉じた紙箱の上に座ろうとしていました。春枝が、必死に阻止しています。
仲介どころか、現場を荒らしています。まあ、猫ですから。
夜。私は、命婦のおとどが寝ていた場所を見ていました。今はもういません。猫は来たい時に来て、去りたい時に去る。
それでいい。
私は今日の出来事を思い返しました。猫を雅に詠む定子方。猫の習性を見る梅壺。餌で釣ったと笑う声。愛と支配の違い。帝の笑い。赤染衛門のしびれた腕。
猫一匹で、ずいぶん多くのことが見えました。猫を膝に乗せたいなら、まず膝を差し出すのではなく、猫が近づきたくなる場を作る。
人も、たぶん同じです。
相手をこちらの理想に引き寄せるのではなく、相手が安心して近づける余白を作る。梅壺が目指すのは、そういう御殿です。歌で飾るのもよい。餌を用意するのもよい。香を弱めるのも、寝床を整えるのもよい。
大事なのは、それが誰のためかを間違えないこと。
猫のためと言いながら、人間の面子のためになっていないか。愛のためと言いながら、支配のためになっていないか。そこを見失えば、猫は去ります。
人も、きっと。
庭の向こうで、かすかに猫の鳴き声がした気がしました。
命婦のおとどかどうかは分かりません。でも、私は少し笑いました。石の中宮の御殿には、今日また一つ心得が増えました。
猫を追うな。猫が眠れる場所を作れ。たぶん、人間にも使える心得です。
〜 出典 〜
『枕草子』上にさぶらふ御猫は
上にさぶらふ御猫は、かうぶりにて命婦のおとどとて、いみじうをかしければかしづかせ給ふが、はしにいでてふしたるに、乳母の馬の命婦、「あな、まさなや。入り給へ」とよぶに、日のさし入りたるに、ねぶりてゐたるを、おどすとて、「翁丸、いづら、命婦のおとどくへ」といふに、まことかとて、しれものははしりかかりたれば、おびえまどひて御簾のうちに入りぬ…
〜 舞台背景 〜
命婦の御許(みょうぶのおとど、みょうぶのおもと)は、平安時代の天皇一条天皇の飼い猫。日本においてネコを愛玩動物として飼育していた例のうち、名前を持つ特定の個体として記録が残る最古の例である。「命婦」は従五位下以上の位階を有する女性であり、「御許」は高貴な女性の敬称である。出典:wikipedia




