百八 褒姒、笑わない女と滅びる烽火
彰子を笑わせようと、蔵人たちが大げさな余興を繰り返す。ある者は緊急連絡用の合図まで冗談に使おうとする。彰子は褒姒の話を引き、「一度でも警報を遊びに使えば、本当の危機で誰も動きません」と叱る。笑わない女を笑わせる競争が、危機管理の話へ変わる。「石の中宮」彰子の沈黙ブランドもここで守られる。
人を笑わせたい、という欲は、たいてい自分で思っているより危険です。
前世でもそうでした。場を和ませたい。空気を軽くしたい。あの人に気に入られたい。反応がほしい。笑ってもらえたら、こちらの勝ちみたいな気がする。
そこまでは、まだ分かります。人は誰しも、自分のしたことで相手の顔が少しでもゆるめば、うれしいものです。しかも相手が、ふだんあまり笑わない人ならなおさら。
一度でも笑ったところを見た者は、妙な成功体験を持ちます。次はもっと。次はさらに。そのうち、手段が大きくなる。
笑いというものは、釣れればよい魚ではありません。とくに、本来は真面目に使うべきものまで笑いの道具にし始めたら、そこから先はだいたい事故です。
狼煙。警鐘。緊急連絡。呼び出しの合図。そういうものは、退屈しのぎや好意の証明に使うものではありません。
一度でも遊びに使えば、本当の時に、誰も本気で動かなくなります。
褒姒を笑わせたくて烽火を上げた周の幽王の話など、まさにそうでしょう。笑わない女。その女を笑わせたい王。諸侯を呼び集めるための烽火を、遊びで上げる。皆が駆けつける。何事もない。笑う。たぶんその場だけ見れば、たいそう面白かったのでしょう。
でも、その一度で終わらない。繰り返せば、信は痩せる。いざ本当に危ない時、もう誰も急がない。あれは「笑わぬ女は罪深い」みたいな話ではありません。
むしろ逆です。笑わせたい側が、どこまで場を壊すかの話です。
その日の藤壺は、朝から妙に騒がしかった。華やかなのではありません。落ち着きがない。しかも、誰かが誰かの機嫌を取ろうとして空回りしている時の、あの軽い騒がしさです。
若菜が香炉の灰をならしながら、何度も廊の方を見ている。有子は控えの紙を整えているが、紙を置く音が妙に乾いていた。春枝は紙箱を抱えたまま、「今日は紙より人の方がぱたぱたしております」と、紙以外のことに気づいていた。
小少将は扇を使いながら、半分ほど呆れている顔。
澄子は灯台の金具を磨きつつ、人の出入りの多さと無駄な足音を数えているようでした。
つまり、誰かが余興で騒いでいます。
「姫様」
赤染衛門が来た時点で、ええ、そのようですね、となりました。
「少し、蔵人どもが」
「何をしたの」
「近ごろ、中宮様を笑わせようと」
「ああ」
「いろいろと」
「そうですか」
「度が過ぎてまいりました」
はい。知っていました。別に私は、いつも怒っているわけではありません。ただ、何でもかんでも笑って見せるほど愛想を切り売りしたくないだけです。
すると、たまに妙な熱意を燃やす者が出ます。
「一度くらい、はっきり笑わせてみたい」
「中宮様のお気に入りになれるやもしれぬ」
「皆がやらぬことをやれば目立つ」
そういう、たいへん分かりやすく浅い動機で。
「何をしているの」
赤染衛門が少し眉を寄せます。
「物まね」
「ええ」
「転び芸」
「はい」
「誇張した報告口調」
「……」
「それに、今朝は」
「はい」
「危急用の合図を、余興に使おうという話まで」
「だめですね」
「ええ。かなり」
場の空気が少し冷えました。
「誰が言い出したの」
「蔵人所の、景久でございます」
「ああ」
景久。人の顔色を見るのが早い。場を回したつもりになるのも早い。そして、「これは面白い」と思ったら一歩先まで行ってしまう、たいへん危うい人です。
「何と」
「“東の渡殿で何か起きたふうの合図を出し、そこへ何でもなかったと分かれば、きっと中宮様もお笑いに”と」
「……」
「“皆が慌てて走るさまも、また一興”とも」
「下品ですね」
「ええ」
「だいぶ」
「かなり」
常盤が柱の陰からひょいと顔を出しました。
「褒姒めいてまいりました」
「嬉しそうに言わない」
「申し訳ございません。でも、“笑わない女を笑わせる”はかなり好きな運びで」
ええ。ただし、その前に止めます。
前世でもありました。非常ベルをふざけて鳴らす。
避難訓練を軽く扱う。
「一回くらい大丈夫」
でも、それで信頼が死にます。しかも、そういうことをする人はたいてい、本当の危機が来た時に「なぜ皆すぐ動かなかった」と平気で言います。お前のせいです。
「景久を呼びましょう」
しばらくして来た景久は、まだ半分、自分の機転を褒められると思っている顔をしておりました。よろしい。その顔から直していきましょう。
「景久」
「は」
「危急の合図を、余興に使おうとしたそうですね」
景久は少しためらってから、でもどこか軽い調子で答えました。
「恐れながら、ほんの戯れに」
「戯れ」
私は繰り返しました。
「はい。皆が慌てて集まり、それが何でもなければ、気もほぐれまして」
「気もほぐれる」
「中宮様も、少しはお笑いになるかと」
私はしばらく黙って景久を見ました。こういう時、すぐ怒鳴るのは簡単です。でも、怒鳴るより効く沈黙というものがあります。ええ、私はわりとそういうのを知っています。
景久の顔が、少しずつ強張っていく。よろしい。
「景久」
私は静かに言いました。
「褒姒の話を知っていますか」
「……は」
「笑わぬ女を笑わせるため、王が烽火を上げた」
「……」
「諸侯が駆けつけた」
「……」
「何事もない」
「……」
「笑う」
「……」
「その次に何が起きましたか」
景久は答えられない。たぶん知ってはいる。でも、自分の発想とつながっていなかったのでしょう。
「本当に危ない時」
私は続けます。
「もう誰も本気で動きません」
「……」
「一度でも合図を遊びに使えば、本当の危急に誰も動かない」
「……」
場がしんと静まり返りました。
若菜が少し顔を上げる。若菜は、危険に関わることが笑いの道具にされるのが苦手なのです。よく分かります。
景久が、おそるおそる言いました。
「ですが、一度きりの」
「一度で十分です」
私は切りました。
「合図というものは」
「……」
「何のためにある?」
「危急のために」
「ええ」
「では、その意味を一度でも揺らしてよい理由は」
「……ございませぬ」
よろしい。少しずつ足場が崩れてきましたね。
「あなたが笑いを取りたい」
「……」
「私の顔をゆるめたい」
「……」
「それは勝手です」
「……」
「でも、そのために他人の足を走らせるな」
「……」
「危機の顔を借りるな」
「……はい」
小少将が、そこで扇の陰から冷ややかに言いました。
「ご自分の芸で勝負なさればようございますのに」
たいへんよろしい。それです。
景久の顔が少し赤くなった。ええ、効きますよね。
でも必要です。
「人を笑わせる才と」
私は続けました。
「場を壊す雑さは違います」
「……」
「しかも今回は、沈黙している女を笑わせたいという、それだけのために」
「……」
「危急の合図を使おうとした」
「……」
「だいぶ幼い」
「……はい」
常盤が、後ろで完全に肩を震わせていました。あとで少し反省してください。
さて、ここでただ景久一人を叱って終わると、また別の者が「では別の冗談ならよいのか」を始めます。要するに、線引きが要る。
「衛門」
私は言いました。
「合図と余興の覚を」
赤染衛門が、やはり来ましたね、という顔をする。ええ、来ます。こういうのは明文化しないと、“知らなかった”で流されますから。
「題は」
「……“急ぎ合図のほど覚”」
「穏やこうございます」
“警報を遊ぶな令”では雅が死にます。私は紙に項目を書きました。
急ぎ合図のほど覚
一、危急の合図は、危急の時のみ使う
一、余興・驚かし・機嫌取りに使わない
一、一度でも遊びに使えば、次の本当が軽くなると心得る
一、人を走らせる合図は、人の信を使うことだと知る
一、笑いを取りたければ、危急の顔を借りずに自分の芸で取る
一、合図を出した者は、その重みを負う
「景久」
「は」
「この覚を、蔵人どもに回しなさい」
「……はい」
「自分の口で」
「……はい」
「“中宮様を笑わせようとして、危急の合図まで使おうとしたのは浅はかでした”と」
景久が息を呑む。
「そこまで」
「そこまでです」
「……はい」
はい。自分で言わせるのが効きます。人前で恥をかかせたいのではない。“危急の意味”を、自分の口で結び直させたいのです。
そのあと、私は女房たちの方も整えました。
「皆も」
「……」
「私があまり笑わぬからといって、機嫌が悪いと決めつけなくてよい」
「……」
「無理に笑わせようと場を騒がせるのは、だいたい疲れます」
若菜がほっとしたように笑う。若菜はたぶん、ずっとそう思っていたのでしょうね。
「沈黙している人を見て」
私は続けます。
「“ここは自分が何とかせねば”と勝手に燃える者がいます」
「……」
「でも、静かなこと自体が悪いわけではありません」
「……」
「笑わぬ人を笑わせることが、そんなに高い功ではない」
「……」
小少将が、いかにも当然という顔で頷きました。
「笑わぬ美しさ、というものもございますもの」
「ええ」
私は答えます。
「そして、沈黙を保っている時には、それなりの意味もあります」
「まことに」
前世でもそうでした。“場が静か”は“まずい”ではない。とくに、上にいる人の沈黙には、それ自体が温度調整であることもあります。そこへやたらと盛り上げ担当が飛び込むと、だいたい全部が薄くなります。
「笑いが悪いわけではありません」
私は言いました。
「余興も悪くない」
「……」
「でも」
「はい」
「何を削って笑いにするかは選びなさい」
「……」
「信を削るな。危急を借りるな。人を無駄に走らせるな」
「……はい」
よろしい。
その日の午後、景久は本当に蔵人たちの前で頭を下げました。顔はまだ少し赤い。でも、言葉はちゃんとしていた。
「急ぎの合図を余興に使おうとしたのは、浅はかにございました」
「合図は、危急のためのものにて」
「遊びに用いれば、次の本当が軽くなります」
おや。ちゃんと言えています。よろしい。
それを聞いていた蔵人どものうち、何人かは本当に青くなっていた。たぶん「それは面白い」と半分思っていたのでしょう。ええ、危なかったです。
さらに面白いことに、その後しばらく、藤壺の余興は少しだけ質が上がりました。
危急の合図を借りない。大勢を空走りさせない。人を不安にさせる驚かしをしない。すると何が残るか。自分の口と体だけです。つまり、純粋に芸の勝負になる。
物まねも、前よりちゃんと練ってくる。話も短くまとまる。転び芸は減った。よろしい。だいぶ文化的です。
若菜がやわらかく言いました。
「姫様」
「はい」
「近ごろ、静けさが少し戻りました」
「ええ」
私は答えました。
「やっと、人が無理に私の顔を動かそうとしなくなりましたから」
若菜が少し笑う。
「それで、ようございました」
「ええ」
「笑っておられぬ時にも、落ち着いておいでのことがございます」
「その通りです」
いいですね。若菜は、人の無表情を“冷たい”で片づけないところがよい。
有子も、控えを整えながら静かに言いました。
「危急の札や合図は、使わぬ日が続くほどようございます」
「ええ」
「ですから、遊びで減らしてはなりませぬ」
「その通りです」
春枝が紙箱を抱えたまま、ぽつりと言いました。
「紙の“至急”も」
「ええ」
「軽々しく書かぬ方がようございます」
「はい」
「何でも急ぎと書かれますと」
「全部が遅くなります」
「……また紙ですね」
と有子。
「ですが、真にございます」
「ええ、真です」
よろしい。今日は本当に、皆が危機の重みを少し分かった顔をしている。
小少将は扇を揺らしながら、いかにも満足そうに言いました。
「笑わせる、ということを高く見すぎる者がおります」
「ええ」
私は答えます。
「笑わせた者が勝ち、みたいに思う」
「ですが、場を守る方がよほど難しゅうございますわ」
「その通りです」
「沈黙の価値を分からぬ者ほど、騒ぎで埋めたがる」
「まことに」
常盤は、柱の陰からしみじみ言いました。
「褒姒の話も、笑わぬ女が悪いのではなく」
「ええ」
私は答えます。
「笑わせたい側が、どこまで信を切り売りするかの話です」
「たいへん今風で」
「たぶん昔からそうです」
「たしかに」
赤染衛門が控えを見ながら言いました。
「褒姒も、こうして読むと」
「ええ」
私は答えます。
「悪い女の話というより」
「はい」
「王の機嫌取りが、信を壊した話です」
「その通りです」
「しかも、その始まりが“笑わせたい”という軽い欲」
「ええ」
「軽い欲ほど、重いものを削る時がございますね」
「そうなのです」
赤染衛門はやわらかく笑いました。
「石の中宮様の沈黙も、よう守られました」
「言い方が」
「ですが、事実にございます」
「まあ、そうですね」
「無理に笑わせようとする競争は、もうしばらく減りましょう」
「それなら大変結構です」
「はい」
笑わない人を笑わせたい。その気持ちは、まあ、分からなくもありません。でも、そのために使ってよいものと悪いものがある。
危急の合図。人を走らせる声。そういうものは、笑いのために借りてはいけません。
一度でも警報を遊びに使えば、本当の危機で誰も動きません。信は、そうやって静かに死にます。
笑いを取りたければ、自分の芸で取りなさい。危機の顔を借りるな。人の不安を借りるな。そして、笑わぬ人の沈黙を、勝手に欠陥と決めつけるな。
静かであることにも、意味はあります。笑わないからこそ守られる空気もある。
その静けさごと、場の信頼でできているのです。
〜 出典 〜
『史記』周本紀/褒姒伝承
褒姒不好笑、幽王欲其笑萬方、故不笑。幽王為烽燧大鼓、有寇至則舉烽火。諸侯悉至、至而無寇、褒姒乃大笑。幽王說之、為數舉烽火。其後不信、諸侯益亦不至。幽王以虢石父為卿、用事、國人皆怨。石父為人佞巧善諛好利、王用之。又廢申后、去太子也。申侯怒、與繒、西夷犬戎攻幽王。幽王舉烽火徵兵、兵莫至。遂殺幽王驪山下、虜褒姒、盡取周賂而去。於是諸侯乃即申侯而共立故幽王太子宜臼、是為平王、以奉周祀。
(訳)褒姒はめったに笑わない女性であった。幽王はなんとか彼女を笑わせようとあらゆる手段を尽くしたが、それでも彼女は笑わなかった。そこで幽王は、敵が攻めてきた時に知らせるためののろし台と大太鼓を作り、敵が来ていないのにもかかわらず烽火を上げさせた。諸侯たちは急いで駆けつけたが、到着してみると敵の姿はどこにもない。その右往左往する様子を見て、褒姒は大いに笑った。幽王はこれを喜んで、褒姒を笑わせるためだけに度々のろしを上げた。しかし、その後はもう誰も信じなくなり、のろしを上げても諸侯はますます集まらなくなった。また、幽王は虢石父という人物を大臣にして政治を任せたが、国中の人々は皆これを怨んだ。石父は口先が上手くてへつらうのが得意で、なにより私欲(利益)を好む人物だったが、王は彼を重用したのである。さらに幽王は、正妻である申后を廃し、その子である皇太子までも追放してしまった。これに申后の父である申侯が激怒し、繒の国や西方の異民族である犬戎と手を組んで幽王を攻め立てた。幽王は急いでのろしを上げて兵を集めようとしたが、誰一人として助けに来る兵はいなかった。こうして幽王は驪山のふもとで殺され、褒姒は生け捕りにされ、周の財宝はことごとく奪い去られてしまった。この出来事ののち、諸侯は申侯側につき、共同で追放されていた元皇太子の宜臼を立てて新しい王とした。これが平王であり、以後も周の祭祀(王朝)を引き継ぐこととなった。
〜 舞台背景 〜
褒姒は、西周の幽王(在位紀元前782年 - 紀元前771年)の2番目の后。美貌によって王を惑わせ、西周を破滅に導いた、亡国の美女として有名。褒姒をはじめ、殷の妲己・夏王朝の末喜・春秋時代の呉・越の西施など、古代中国史には美貌によって王君を破滅させ、国を滅亡に追いこむ魔性の女性がしばしば現れる。のち『漢書』から、国が傾く原因になるほどの美女を「傾国傾城」と呼ぶようになった(巻九十七上 孝武李夫人伝)。のちに「傾城」は江戸時代の日本で花魁の別称になった。出典:wikipedia




