百三 鉢かづき姫、見た目で外した人材
宮中で、奇妙な被り物をした地方出身の女房が笑われる。彰子は事情を聞き、それが亡き母の形見であり、また旅の安全のための工夫だったと知る。彼女には強い記憶力と祈祷儀礼の知識があり、藤壺に欠かせない存在となる。外見で人を弾くと、才能を捨てることになる。彰子は「見た目で落とす採用担当ほど、組織の敵です」と言う。
人は、見た目で判断するのが驚くほど早いです。
前世でもそうでした。服が野暮ったい。髪型が変わっている。話し方が垢抜けない。第一印象が地味。逆に、妙に目立つ。
それだけで、能力の見積もりまで雑になります。
「この人は頼りなさそう」
「なんだか変」
「場にそぐわない」
「たぶん、気が利かない」
「おしゃれでない人は、仕事もいまひとつなのでは」
いえいえいえ、服の趣味と段取り力は別物です。見た目の洗練と記憶力も別の才です。そして何より、事情のある見た目を、事情も聞かずに笑う人間は、だいたい人を見る目が浅い。
『鉢かづき姫』の話では、姫は奇妙な鉢をかぶった姿ゆえに、不遇をなめます。中身ではなく、まず見た目で遠ざけられる。けれど、その奥には事情があり、尊さがあり、そして最後には誰も捨ててよいはずのない価値がある。
昔話だから極端に見えるだけで、似たことはどこにでもあります。
見た目で外す。変わっているというだけで後ろへやる。事情を聞く前に“ない”方へ分類する。それは、たいてい組織の損です。
その日の藤壺は、朝から妙に浮き足立った笑いが混じっていました。
若菜が香炉の灰をならしながら、何度か入口の方を気にしています。有子は控えの紙を揃えているが、あれは不機嫌な時の指先の速さです。春枝は紙箱を抱えたまま、「今日は紙ではなく人がざわざわしております」と、珍しく紙以外のことを言っていた。
小少将は、露骨に嫌そうな顔を上品に隠す努力を、半分しかしていない。澄子は灯台の金具を磨きながら、外の気配を静かに拾っていた。
つまり、誰かが“見られている”のです。しかも、あまりよくない見られ方で。
「姫様」
赤染衛門が近づいてきました。
「新しく参った女房のことが、少し」
「誰」
「伊予より来た、菅野と申す者にございます」
ああ、昨日入った子ですね。
地方の家から、縁をたどってこちらへ来た女房。年は若すぎず、かといって年長でもない。話し方は落ち着いているが、どこか宮中の流儀にまだ硬い。そして何より、皆の目を引いていたのは、彼女の被り物でした。
完全に顔を隠すほどではない。けれど、頭から額にかけて、妙に深く布をかけ、さらにその上から軽く押さえるような細工がしてある。
笠というほどでもなく、普通の被衣とも少し違う。
都の女房がするには、やや奇妙。きちんと整えてはいるのに、どうしても“何か変”に見える。
だから、笑われる。
「何を言われているの」
赤染衛門は少し眉を寄せました。
「鉢でもかぶって参ったのか、と」
「ああ」
「都の女房の姿ではない」
「ええ」
「顔を見せたくないのか、見せられないのか」
「なるほど。下品ですね」
常盤が、いつのまにか近くにいました。
「だいぶ下品でございますね」
「あなたが面白がる方向へ乗らないで」
「申し訳ございません。今回は本当に相手が悪いかと」
「ええ。珍しく同意です」
被り物一つでここまで人は騒げるのか、と呆れます。でも、騒げるのです。なぜなら、見た目は一番手軽な差異だから。
「本人は」
「かなり縮こまっております」
「でしょうね」
「ただ、妙に物覚えがよく、今朝方も持ち物の位置を一度で覚えたと」
「ほう」
「紀伊の君が少し気にされておりました」
「なら、ただの地方女房ではなさそうですね」
私は立ち上がりました。
「まず、事情を聞きましょう」
几帳の向こう、菅野は少し奥まったところに座っていました。周囲から浮かぬようにしているつもりなのだろうけれど、かえって“自分が目立っている”と知っている人の縮こまり方をしています。
「菅野」
声をかけると、彼女ははっとして深く頭を下げました。
「はい、姫様」
近くで見ると、その被り物はますます丁寧でした。
雑に巻いたものではない。何か理由があって、崩れぬよう工夫してあります。旅慣れた人の手です。
「少し、あなたの装いについて聞いてよいですか」
その言葉に、彼女の指先が膝の上でわずかに震えました。ああ。ずっとそこを問われるのを待っていたのですね。
「……みっとものうございますか」
その問いが、たいへん小さな声でした。私は少しだけ間を置いて答えました。
「目立ちはします」
彼女の肩が固まる。
「でも、目立つことと悪いことは別です」
「……」
「なぜそのようにしているの」
菅野はすぐには答えませんでした。けれど、ここで誤魔化す気もないらしい。やがて静かに口を開きました。
「亡き母の形見にございます」
場の空気が、少し変わる。若菜がそっと息を呑み、有子の指先が止まり、小少将の目つきがわずかにやわらいだ。
菅野は続けました。
「もとは旅のとき、母が工夫した布にございます」
「旅の」
「はい。土地により、女のひとり歩きは目立ちますれば」
「……」
「顔立ちや髪を見る者もおりましたので、少し崩して隠すようにと」
「なるほど」
「それでいて、すぐほどけぬよう、母が縫いとめて」
「ええ」
「母亡き後は、これを持って都へ参りました」
私はその布をもう一度見ました。そういうことですか。都の洗練ではない。でも、旅の安全をくぐってきた知恵と、亡き母の手の跡が重なっている。
見た目だけ見て笑った女房たちは、何を見ていたのでしょうね。布か。そうですか。浅い。
「都では少し珍しかろうとは思いました」
菅野は小さく言います。
「けれど……母の手を、すぐには外しがたく」
「ええ」
「そして、長くそうして参りましたゆえ、急に何もなく顔を出すのも、何やら」
「落ち着かない」
「はい」
その感覚は分かります。人はただ布をかぶっているのではない。安心の形まで身につけていることがある。
私は穏やかにうなずきました。
「分かりました」
菅野が少し顔を上げる。
「ただし、ここで勤めるには、場に応じて整え方を調える必要はあります」
「はい」
「けれど、それは笑われて覚えることではありません」
「……」
「教わってよいことです」
彼女の目が、そこで初めて少しゆるみました。
よろしい。まず、“変だから直せ”ではなく、“理由は理解した、そのうえで運用を考える”へ持っていく。
でも、それだけでは終わりませんでした。紀伊の君が気にした“物覚えがよい”の方も、私は見ておきたかったのです。
「菅野」
「はい」
「今朝、持ち物の位置を一度で覚えたそうですね」
「……たまたまにございます」
「たまたまか、見ましょう」
私は少し試しました。昨日の贈答で誰がどの紙をどこへ置いたか。朝方、どの女房が何を持ってどの順で通ったか。さきほど運ばれた香炉の位置が、朝とどう違うか。
菅野は、ほとんどためらわず答えました。
正確です。しかも、ただ覚えているだけではない。位置関係ごと入っている。
「紀伊の君」
私は言いました。
「どう思います」
紀伊の君は静かに目を細めました。
「これは、かなりでございます」
「ええ」
「目で追うだけでなく、場ごと記憶する方かと」
「はい」
「それだけではございませぬ」
と、菅野が少しためらいながら言った。
「何が」
「家では、祈祷や年中の細かな作法を、伯母より」
「祈祷儀礼」
「はい。地方にて病や旅立ちの折など、細かな禁忌や順を」
「……ほう」
場にまた別の静けさが落ちました。若い女房たちは、たぶん“変な被り物の地方女房”くらいに思っていたのでしょう。でも出てくるのは、旅の工夫、強い記憶力、そして祈祷儀礼の知識。
だいぶ話が違いますね。
前世でもそうでした。見た目で“いまいち”扱いされていた人が、いざ話を聞くと、驚くほど希少な経験を持っていることがある。地方回り、現場仕事、家業の手伝い、看取り、地域行事。履歴書の見栄えに出ないやつです。
でも、本当に場で効くのはそういう知識だったりする。私は、その場で決めました。
「衛門」
「はい」
「菅野の役を見直します」
赤染衛門が、やはり来ましたね、という顔。ええ、来ます。見た目で外されかけた人材は、早めに拾わないと、また笑いの陰へ戻されますから。
「題は」
「……“新参女房見立て覚”」
私は紙を広げました。
菅野の見立て
一、記憶力:人・物・順の位置関係を覚える
一、旅の知恵:安全のための装い、荷の扱い、道中の用心
一、祈祷儀礼知識:禁忌、順序、地方の作法
一、落ち着き:騒がれても答えを崩しにくい
一、課題:都の装いと場の見え方への調整
「菅野」
私は言いました。
「あなた、宴や祈祷に関わる持ち物順、覚えられますか」
「はい。見せていただければ」
「一度で?」
「たぶん」
「“たぶん”が信用できる顔ですね」
常盤が横でつぶやく。
「静かに」
「はい」
次に私は、皆へ聞こえるように言いました。
「外見で人を弾くと、才能を捨てることになります」
若い女房たちが気まずそうに目を伏せる。
「見た目で落とす採用担当ほど、組織の敵です」
きっぱりと言い切った瞬間、場が少しだけきょとんとした。
「……姫様」
常盤が、小首を傾げて尋ねてくる。
「その、『さいようたんとう』とは、いかなるお役目にございますか?」
「『そしき』とは」
あ。やってしまった。前世の言葉がそのまま出た。
「……人を召し抱える見立て役と、この藤壺のような集まりのことです。」
「なるほど」
「ずいぶんと奇妙な響きですが、言わんとすることはわかりますわ」
小少将が扇の陰で笑った。
「ずいぶん」
「本心です」
「ええ、でしょうとも」
ほんとうにそうです。見た目が洗練されていない。地方くさい。奇妙な工夫をしている。それだけで“だめ寄り”へ置く人間は、組織から見れば害です。人を見る目が浅いから。
「小少将」
「はい」
「菅野の装いは、場に応じて少し調えてあげて」
「承知いたしました」
「ただし、母君の形見の布を無理に捨てさせる必要はありません」
「ええ」
「どう見せるかを、一緒に考えましょう」
「お任せくださいまし」
菅野の目が、少し揺れました。たぶん、取り上げられるのでは、と覚悟していたのでしょう。
でも違う。全部捨てるか、全部そのままか、ではない。事情を尊重しつつ、場へ接ぐやり方はあります。
若菜が、やわらかく言いました。
「よかったですね」
菅野は、少し戸惑いながらも、こくりと頷いた。
その日のうちに、小さな試しをしました。翌日の小祈祷に向けた持ち物と順を、菅野に一度だけ見せる。
誰が何を持ち、どの札が先で、どの器は触れてよく、どれは最後か。それを、あえて紙に書かずに見せる。
かなり意地悪な試験です。でも、彼女の強みをはっきりさせるにはちょうどいい。
翌朝、私は尋ねました。
「菅野、昨日の順を」
彼女はすらすらと答えました。しかも順番だけではない。
「その札は少し欠けがございました」
「香の器は右端に」
「布の結び目は緩んで」
と、補足までつく。有子が、静かに感心した声を漏らす。
「……これは助かりますね」
「ええ」
私は答えました。
「だいぶ」
紀伊の君も、珍しく少し強い口調で言いました。
「この手の覚え方は、祈祷や年中行事で重宝いたします」
「でしょうね」
「地方でそうした順をきちんと見て育ったのでございましょう」
菅野は、褒められているのが信じられぬような顔をしていました。ずっと見た目の方ばかり先に見られてきた人の顔です。
では、実務へ入れましょう。菅野には、小祈祷や節供での持ち物順の補助禁忌や順の聞き取りと控え地方由来の作法で都でも役立つものの整理 を任せることにしました。
有子が記録係として組み、紀伊の君が儀礼知識の接ぎ木をし、若菜が場の空気を和らげるため横につく。すると、思った以上に早く成果が出ました。
最初の小祈祷で、ある札の置き順が逆になりかけたのです。誰もまだ気づいていない。でも菅野が、すっと言いました。
「それは最後にございます」
場が止まる。紀伊の君が見る。
「……その通りです」
「地方では、病気平癒の折、その順を逆にすると忌むと」
「都でも、近うございますね」
「はい」
危ないところでした。そして何より、あの一言が、彼女の位置を変えました。
笑われる側から、「聞くと助かる人」へ。
人の扱いは、だいたいそうやって変わります。一度でも実務で効くと、場は露骨に沈黙する。
その後、さらに面白いことがありました。景経が、布のしまい順を菅野に相談したのです。「旅の荷では、湿りをどう避けておいででしたか」と。
春枝もまた、紙の束ね方について「道中で崩れぬ結びがあれば」と尋ねた。
よいですね。地方の知恵が、都の洗練とつながり始めた。菅野は最初おずおずしていましたが、聞かれるときちんと答える。しかも、無駄に飾らない。必要なことだけ言う。
一方で、小少将は彼女の被り物を少しずつ整えました。形見の布そのものは使う。ただし、御前近くでは深くかぶりすぎず、結びを都風に少しやわらげる。旅の知恵を消すのではなく、宮中の目に馴染むよう訳し直す。
その仕上がりを見て、私は感心しました。
「あら」
若菜が言う。
「ちゃんと菅野さまなのに、少しちがって見えます」
「ええ」
小少将が答える。
「無理に剥がしたのではなく、場へ移したのでございます」
菅野が、そっと布の端に触れる。
「母の手も、そのままで」
「そのままではございませんわ」
小少将が涼しく言う。
「でも、あなたがそこにおられるのは同じです」
ああ、この人は本当に言い方がうまい。
数日後、最初に笑っていた若い女房の一人が、こっそり菅野に尋ねていました。
「その……旅で女ひとりが目立たぬ工夫とは、ほかにもございますの」
おや。笑いから、質問へ。これは大きい。
菅野は少し驚いた顔をしたあと、真面目に答えていました。
「道では、目を伏せるだけでなく、荷の音を減らすことも」とか、「顔だけでなく、足取りでも見られます」とか。なるほど。実地の知恵ですね。
前世でも、こういう瞬間はありました。
「変な人」扱いされていた人が、ある日“あの人詳しいよね”に変わる瞬間。人の評価は、軽くて、残酷で、でも案外すぐ動く。だからこそ、早いうちに実力を見える場へ置くのが大事なのです。
夕方、菅野が私のところへ来ました。
「姫様」
「はい」
「わたくし……都では、見た目ばかり先に立つかと」
「ええ」
「ですから、なるべく目立たぬようにと思っておりました」
「でしょうね」
「けれど、今日は……初めて、見られてもよいと思いました」
私はその言葉が、少し好きでした。
見られてもよい。それは、見た目を諦めた人の言葉ではない。見た目の向こうへ届いてもらえた人の言葉です。
「菅野」
私は言いました。
「あなたの布は、たしかに珍しい」
「はい」
「でも、珍しいことと、価値がないことは別です」
「……はい」
「そして、価値あるものを見た目だけで外す人間は、だいたい人を見る仕事に向いていません」
菅野が少し笑った。
「それは……だいぶ強うございますね」
「本心です」
少し離れたところで、常盤が小声で言いました。
「見た目で落とす、さいようたんとう、ほど、そしきの敵」
「あなたは変な言葉を覚えなくていい」
「でも名言です。意味はよくわかりませぬが、響きが強うございます」
場に、やわらかな笑いが広がる。
若菜は菅野の布を見て、
「なんだか、安心する形でございますね」
と言った。菅野は、少し驚いてから、静かに頷いた。
「はい。長く、そうでございました」
「では、よいことでございます」
若菜は本当にそう思っている顔だった。あの子は、安心の形に敏い。
春枝は、紙箱を抱えたまま言います。
「旅の荷結び、今度教えてくださいまし」
「はい」
「紙にも使えますものね」
「あなたは本当に」
と有子が言いかけて、「でも、使えそうですね」と訂正した。
景経は景経で、布の扱いに関して菅野へ敬意を払い始めている。小少将は彼女の装いを、もはや笑われる対象ではなく、調える価値のあるものとして見ている。紀伊の君は祈祷儀礼の知識を聞き出して、都の前例と照らしている。
いいですね。一度、人が“役立つ場所”を持つと、周囲の視線は勝手に深くなります。赤染衛門が控えを見ながら言いました。
「鉢かづき姫も、最初に事情を聞いてくれる御方がおられたなら、だいぶ話が早うございましたね」
「ええ」
私は答えました。
「たいていの不遇は、半分くらい聞き取り不足でできています」
「また身も蓋も」
「事実です」
「でも、その事実のおかげで、今日は人材を拾えました」
「ええ」
少しして、彼女はやわらかく笑いました。
「見た目で落とす採用担当ほど、組織の敵」
「……」
「やはり、よい言葉にございます」
「あなたまで」
「でも、本当にそうでございましょう」
「そうです」
私はきっぱり言いました。
「外見で弾くのは簡単です」
「ええ」
「でも、その向こうにある経験や知恵まで一緒に捨てる」
「……」
「そういう人間は、人を見る役に立ててはいけません」
赤染衛門は、深く頷きました。
前世でも、今世でも、同じです。垢抜けない。妙な持ち物。都風でない。第一印象が弱い。
それだけで外す人は、たいてい本当に拾うべきものを見落とします。そして、拾うべきものはだいたい、派手ではありません。母の縫い目だったり、地方で身についた用心だったり、何度も繰り返して身体に入った順序だったりする。
でも、そういうものが、場をじわじわ支えるのです。奇妙な被り物をしているからといって、その人の中身まで奇妙だと決めつけるのは、浅い。
見た目が場に馴染まない人ほど、実は別の場所を生き抜いてきた知恵を持っていることがあります。
外見で人を弾くと、才能を捨てることになる。そして、才能を見た目で見逃す人間は、だいたい組織にとって敵です。
藤壺にはその日、また一つ新しいものが増えました。
見た目の違和を笑う前に、その奥にある事情と力をきちんと聞き取り、場の宝へ変えていくための、静かな見立てが一つ。
〜 出典 〜
『御伽草子』はちかづき
中昔の事にやありけん、河内の國交野の邊に備中の守さねたかといふ人ましましけり。かずの寶を持給ふ。德滿ちて乏しきこともましまさず、詩歌管絃に心をよせけるが、花のもとにては散りなんことを悲み、歌をよみ詩をつくり、のどけき空をながめ暮し給ひける。北の御方は古今、萬葉、伊勢物語、かずの冊子を御覧じて、月の前にて夜を
あかし、入りなんことを悲み、あかし暮し給ひつゝ心に残ることもなし。鴛鴦のむすび隔つ事もましまさず、思ふまよなる御中なるに御子一人もなし。朝夕悲み給ひしに、いかなる事にや、姫君一人設けたまひて、父母の御よろこび申すばかりは無かりけり。かくていつきかしづき給ふ事かぎりなし。あけくれ觀音を信じ申されけるほどに、長谷の觀音に參りては、かの姫君のすゑ繁昌の果報あらせ給へとぞ祈りたまふ。かくて年月をふるほどに、姫君十三と申せし年、母上例ならず風の心地との給ひて、一日二日と申せしほどに、今をかぎりに見えければ、姫君をちかづけて、綠のかんざしを撫であげ、あらむざんやな、十七八にもなし、いかなる縁にもつけおき、心やすく見おき、とにもかくにもならずして、いとけなき有様をすて置かんこと、あさましさよと、涙をながし給ふ。姫君ももろともに涙をながし給ひける。母上は流るゝ涙をおしとどめ、そばなる手筥を取りいだし、中には何をか入れられけん、世におもけなるを姫君の御ぐしに戴かせ、その上に肩の隱るゝほどの鉢をきせまゐらせて、母上かくこそ詠じ給ひける。
さしも草ふかくぞ頼む觀世音誓のまゝにいたゞかせぬる
かやうにうちながめ給ひて、遂に空しくなり給ふ。父大きに驚き泣き給ひて、いとけなき姫をば何とて棄ておき、いづくとも知らずかくなり給ふと、泣き給へどかひぞなき。かくてさして有るべきならねば、なごりつきせず思へども、むなしき野邊に送りすて、花のすがたも煙となる、月のかたちは風となり散りはつるこそいたはしけれ。かくて父御前姫君をちかづけまゐらせて、いたゞき給ひたる鉢をとらんとしけれども、吸ひつきて更にとられず。父大きに驚き、いかゞはせん、母上にこそは離れまゐらせめ、かゝるかたはのつきぬることの淺ましさよと、歎きたまふこと限りなし。…
(訳)少し昔のことでしょうか、河内の国(現在の大阪府東部)の交野のあたりに、備中守さねたかという人がいらっしゃいました。たくさんの宝を持ち、財産も豊かで不足しているものもなく、詩歌や音楽を好んでいました。桜の花の下では花が散るのを悲しんで和歌や漢詩を作り、のどかな空を眺めて暮らしていらっしゃいました。奥様は古今和歌集、万葉集、伊勢物語などたくさんの本をご覧になっては、月の前で夜を明かし、月が沈んでしまうのを悲しむなど、そのように日々を過ごし、心に不満や気がかりなことは何もありませんでした。ご夫婦の仲はおしどりのようにむつまじく、理想的なご関係でしたが、お子様が一人もいらっしゃいませんでした。朝夕そのことを悲しんでおられましたが、どうしたことか(仏様のおかげか)、女の子(姫君)を一人お授かりになり、ご両親の喜びは言葉で言い尽くせないほどでした。こうして、この上なく大切にお育てになりました。明けても暮れても観音様を深く信仰しておられ、長谷寺の観音様にお参りしては、「どうかこの姫君の将来が繁栄し幸せになりますように」とお祈りなさいました。こうして年月が経つうちに、姫君が十三歳になられた年、お母様がいつもと違って風邪気味だと言って床に伏せました。一日、二日と経つうちに、いよいよ最期の時が近づいたように見えたので、お母様は姫君を近くに呼び寄せ、その黒髪を撫で上げながら言いました。「ああ、むごいことですね。まだ十七、八歳にもなっていないというのに。どこかふさわしいご縁を見つけて、安心して見届けることもできないまま、まだ幼いあなたを残して先立たなければならないとは、なんとも情けないことです」そう言って涙を流されました。姫君も一緒に涙を流されました。お母様は流れる涙をこらえ、そばにあった手箱を取り出しました。中には何が入っていたのでしょうか、ひどく重そうなものを姫君の頭に乗せ、さらにその上から肩まで隠れるほどの大きな鉢を被せて、このように和歌を詠まれました。「(さしも草のように)深く頼みとしている観音様、どうかあなたの誓いのままに、この子をお守りください。(その願いを込めてこの鉢を被せました)」このように声に出して詠み、とうとうお亡くなりになってしまいました。お父様はたいそう驚き、「幼い姫をどうして置いて、どこへ行ってしまわれたのか」と泣きなさいましたが、どうしようもありません。いつまでもそのままにしておくわけにもいかないので、名残は尽きないと思いつつも人気のない野辺へ送って火葬にしました。花のように美しかった姿も煙となり、月のような姿も風となって散り果ててしまったのは、本当に痛ましいことでした。さて、お父様は姫君を近くに呼び、被せられている鉢を取ろうとしましたが、頭に吸い付いてしまって全く取れません。お父様はたいそう驚き、「どうしたらよいだろうか。お母様に死に別れてしまった上に、このような異形のもの(鉢)がくっついて取れなくなってしまうとは、なんという情けないことだ」と、限りなくお嘆きになりました。…
※最近、なろう投稿のためにけっこう古典を読んでるのですが特に「鉢かづき」は古典文学特有の情景描写や和歌が他の古典より美しい気がしました。その割にはネット上に原文が見当たらないので…好みの問題なのかなw
〜 舞台背景 〜
鉢かづき(はちかづき)は、古典の「お伽草子」の話の一つ。日本版シンデレラの昔話。鉢かづき姫、鉢かつぎ姫とも呼ばれる。「かづき」は「頭にかぶる」という意味の古語「かづく」(被く)の活用形であり、現代語にもある「かつぐ」(担ぐ)の活用形ではない。場合によっては「かづき」の表現を現代語に訳して鉢かぶり姫ということもある。昔、河内国交野郡に寝屋備中守藤原実高という長者が住んでいた。長谷観音に祈願し、望み通りに女の子が生まれ、やがて美しい娘に成長した。しかし母親が亡くなる直前、長谷観音のお告げに従い娘の頭に大きな鉢をかぶせたところ、鉢がどうしてもとれなくなってしまった。母親の死後この娘(鉢かづき姫)は、継母にいじめられ家を追い出された。世をはかなんで入水をしたが、鉢のおかげで溺れることなく浮き上がり、「山蔭三位中将」という公家に助けられて、風呂焚きとして働くことになった。中将の四男の「宰相殿御曹司」に求婚されるが、宰相の母はみすぼらしい下女との結婚に反対し、宰相の兄たちの嫁との「嫁くらべ」を行って断念させようとする。ところが嫁くらべが翌日に迫った夜、鉢かづき姫の頭の鉢がはずれ、姫の美しい顔があらわになった。しかも歌を詠むのも優れ、学識も豊かで非の打ち所が無い。嫁くらべのあと、鉢かづき姫は宰相と結婚して3人の子どもに恵まれ、長谷観音に感謝しながら幸せな生活を送った。なお、藤原実高が住んでいたのは、現在の寝屋川市のあたりとされており、寝屋川の民話として紹介されていることがある。また、寝屋川市のマスコットキャラクターである「はちかづきちゃん」は鉢かづき姫が元となっている。姫の名は初瀬山の長谷観音にちなんで付けられた「初瀬姫」と伝えられている。出典:wikipedia




