効かない掴み
脈が止まった、と思った次の瞬間には、天井が降ってきた。
いや――違う。降ってきたのは瓦礫ではない。闇そのものが唸り声を上げて、頭上から落ちてきたのだ。
「上か――!」
叫んだのはミラだった。とっさに転がるように避けたその場所へ、巨大な質量が着地する。地面が跳ねた。松明代わりの発光石が転がり、揺れる光の中に化け物の輪郭が浮かび上がる。
これまで相手取ってきた四脚の獣とは、明らかに格が違った。肩の高さだけでハルの背丈を超え、装甲じみた灰色の外殻に覆われている。まるで、通路のどこかでずっと息を潜めて、三人が来るのを待ち構えていたかのような立ち上がりだった。
――灰塚の様子がおかしい、近頃は。
頭の隅で、オルグの酒臭い忠告が鈍く疼いた。伊達に長く迷宮の底を這ってきた爺さんじゃない、あの時はそう笑い飛ばしかけた自分に、今さら舌打ちしたくなる。
「な……なんだよ、こいつ……!」
ガロの声が上ずる。長年迷宮を渡り歩いてきたはずの男が、得物を構えたまま一歩も動けずにいた。
「怯えてる暇があるなら得物構えろ、ガロ!」
怒鳴りながらも、ハルの背筋には冷たいものが這っていた。壁が脈打ったあの感触。そして今、目の前にいるこの図体。繋がっているのかどうかを考える余裕はない。今は、生きて帰ることだけだ。
化け物の前脚が振り上げられ、瓦礫ごとミラを薙ぎ払おうとする。
「――そこだ!」
ハルは跳んだ。太腿を掴む一瞬で体を羽のように軽くし、地を蹴った反動だけで間合いを詰める。これまで何度も命を拾ってきたやり方だ。掴んで、軽くして、懐に飛び込み、当たる瞬間に重さを戻す。
伸ばした右手が、化け物の前脚を捉えた。
「――重く、なれ!」
だが、応えは返ってこなかった。
掌の中で、何かが薄い膜を隔てているような感触がある。踏み込んだ足に力を込め、無理やり重さを叩き込もうとした瞬間――化け物がひと吠えして、脚を一振りしただけで、ハルの掴みはあっさりと剥がれ落ちた。
まるで最初から、そこに何もなかったかのように。
「――なっ」
軽くなった体のまま弾き飛ばされる。受け身を取る間もなく瓦礫に叩きつけられ、肺から空気が抜けた。頭の中で、これまでの当たり前が音を立てて崩れていく。効かない。掴んだのに、効かない。
「ひっ……!」
ガロが悲鳴じみた声を上げて後ずさった。剣を構えたまま、じりじりと化け物から距離を取る。仲間を庇う気配は微塵もなかった。
「ガロ、お前――!」
叫んだハルの視界の端で、化け物の爪がミラの肩を薙いだ。鈍い音と、短い悲鳴。
「っ、あ……!」
ミラが片膝をつく。肩口から流れ出す血が、灰色の瓦礫を黒く染めていった。
痺れの残る右手を握り締めても、感触はもう戻らない。格上には効きが浅い――頭でわかっていたはずの言葉が、今この瞬間、血の匂いとともに現実として突きつけられていた。




