第78話「正しい秤」
フードの人物の気配が闇に溶けて消えた後、橋脚の向こうの靴音はもう戻ってこなかった。日が白み始めた頃、監視者がようやく得物から手を離す。
「……今夜はもう来ねえ。戻るぞ」
物置に戻り、リードを寝床に横たえ直す。熱はまだ引いていなかったが、うわ言はもう出なかった。オルグが濡れ布を替えながら、その痣をもう一度だけ見て、何も言わずに目を伏せた。
誰かがまどろみかけた頃、表の戸が乱暴に叩かれた。
「――俺だ、ライグだ! 開けてくれ!」
声には走ってきたせいの息切れが混じっていた。監視者が戸を開けると、ライグは倒れ込むように中へ入ってきた。
「広場だ」ライグは膝に手をついたまま言った。「表通りの広場に、鐘が鳴って人が集められてる。あんたら、まだ知らねえだろ」
「何の話だよ」ハルは低く聞いた。
「壇の上に、コルドーが立ってる」ライグは掠れた声で言った。「本人が、直に街の連中の前に出てきてるんだ。……こんなの、初めて見た」
オルグの顔から、また色が抜けた。
(じいさん、その顔……大丈夫かよ)ハルは声を飲み込んだ。老人の血の気の失せた横顔から、なぜか目が離せなかった。だが今は、声をかけている暇がなかった。
ハルとミラ、オルグ、監視者は物置を飛び出した。リードは熱でまだ立てない。寝床の脇に膝をついたミラが布を握らせ、短く言った。
「……悪いけど、今日はここで大人しくしててくれよ。あんたが起きたら、ちゃんと教えるから」
リードは薄く目を開け、頷く代わりに小さく息を吐いた。それだけだった。
広場に着くと、人だかりの向こうに石造りの壇があった。その上に、見覚えのある落ち着いた立ち姿があった。
「これより――」コルドーの声は、声を張らずとも広場の隅々まで届いた。「正しい秤を、この街に取り戻します」
静かな声だった。だが、その静けさそのものが、群衆の喧騒を凍らせていく。誰も何のことか分からないまま、ただ黙り込んでいく。
(あんた、とうとう化けの皮を脱ぎやがったな)ハルは胸の内で毒づいた。柄にもなく、拳の形にならない右手が震えた。
コルドーが手を上げた。壇の脇、覆いの掛かった台車が動く。布が引かれると、そこには灰塚の奥から運び出されたはずの、あの発光紋様を纏う結晶の欠片が据えられていた。台座に固定され、街の中央、誰の目にも見える高さへと持ち上げられていく。
群衆から悲鳴に近いざわめきが上がった。足元の石畳が、低く一度、脈打った。
「本当に、やってしまいよったか」オルグが呻いた。杖を握る手が白くなるほど強張っていた。「あの光を、灰塚の外に出すなんて――正気じゃないわい」
「街そのものを、あの野郎の秤に乗せる気かよ」ミラの声が硬くなった。
「――量ってやるだけだ」監視者が低く唸った。「動くなら早い方がいい」
ハルは仲間たちの顔を、一人ずつ見た。動かない右手、ミラの投擲、オルグの知る古い迷宮の理屈、監視者の目、そして今は動けない一人の男の名――それぞれの持ち場が、頭の中で音を立てて噛み合っていく。
「――俺は、あの欠片に触れる」ハルは低く言った。「ミラは手を貸してくれ。じいさんは連中を近づけさせるな。お前は」――監視者へ目を向ける――「コルドーの周りを見張っといてくれ」
監視者は短く頷き、屋根伝いの道へ体を向けた。「――遅れんなよ」それだけ言い捨てて、先に駆け出す。
誰も否とは言わなかった。
石畳がまた脈打った。二度目は、一度目よりも深く、長く。広場の空気そのものが、重さを変えていくようだった。
灰塚の対決以来、これほどの脈動を肌で感じたことはなかった。ハルは動かない右手を握ろうとして、やはり開いたままの指先が震えるのを見た。それでも足は止まらなかった。
仲間たちと並んで、ハルは壇の方へ向けて歩き出した。一歩、また一歩。石畳の脈動が、足の裏から体の芯まで直接叩き込んでくる。次に脈打った時、それがどれほどの重さになるのか――考える前に、体はもう壇へと踏み出していた。




