第77話「壊れた天秤」
橋脚まで来ている、と監視者は言った。次に動く時は話す暇はない、とも。
その言葉通り、足音は止まらなかった。
石組みの隙間から、複数の靴音が水音に混じって近づいてくる。ハルは動かない右手を懐に押し込み、左肩でリードの脇を担ぎ直した。熱で重くなった体が、担ぐだけで骨まで軋んだ。
「じいさん、動けるかよ」
「儂を年寄り扱いするな……とは、もう言えん体じゃがな」
オルグは杖を握り直し、監視者の示す方――橋脚のさらに奥、暗渠の口へと這うように進んだ。ミラがリードの反対側を支え、四人は狭い闇の中を息を殺して進む。
だが暗渠の先は、行き止まりだった。
「――詰んだか」監視者が低く唸った。腰の得物に手をかける気配がした。
その時、行き止まりの闇の奥から、抑揚のない声が響いた。
「そこまでだ」
フードの人物だった。姿の見えぬ闇に立ったまま、追ってきた足音の方へ向き直る。ハルが振り返ると、迫っていた靴音は――止まっていた。近づきも退きもせず、まるで何かに縫い止められたように。
だが完全に消えたわけではなかった。石組みの向こうで、足を止めたまま誰かが息を潜めている気配だけが、いつまでも残っていた。監視者も得物にかけた手を離さない。しゃがれた息が、闇の中でわずかに聞こえた。
「掴み屋、動かなくていい」フードの人物は静かに言った。「今夜だけは、あちらも深追いはしない。……そういう筋書きにしてある」
「筋書き、だと」ハルは押し殺した声で聞いた。「あんた、コルドーの手も動かせるのかよ」
「動かせるとは言っていない。……ただ、あの男にも計算がある、というだけだ」フードの人物は一拍置いた。「今夜だけの話だ。根本は、何一つ片付いていない」
監視者が短く鼻を鳴らした。「――聞いたか。今のうちだけだとよ」得物からは、結局手を離さなかった。
沈黙が落ちた。靴音は、やがて遠ざかっていった。それでも監視者は闇の奥をしばらく睨んだままだった。
膝から力が抜けたのか、オルグがその場に座り込む。ミラがリードを横たえ、額の布を当て直しながら、フードの人物を睨んだ。
「――あんた、今日は随分と踏み込んでくるじゃないの」
「時間がない、というのは、こちらも同じだ」フードの人物の声は、いつもより一拍遅れて続いた。「灰塚の石を、じいさんに見せたな」
「知ってんのか」ハルは低く言った。柄にもなく、声が掠れた。
「……知っている。長く、知っていた」
フードの人物は間を置いた。核心に触れる前の、いつものあの一拍だった。
「かつて、世界には一つの仕組みがあった」低い声が続く。「人と土地の価値を、絶えず測り直し続ける天秤だ。何が正しく、何が正しくないか。誰が生き、誰が死ぬべきか――それを、感情ではなく重さで裁く仕組みだ」
「……大昔の、御伽噺みてえな話だな」ハルは吐き捨てた。だが声には、笑う余裕がなかった。
「御伽噺ではない。壊れたのだ。大異変とは、その天秤が砕けた瞬間のことだ。壊れたのか、壊されたのかは――こちらにも分からない。……おそらく、誰にも分からないままだろう。それを知る者がいたとしても、とうに量られて消えている」
オルグが息を呑む音がした。杖を握る指が、目に見えて震えていた。
(じいさん……あんたの連れが見た欠片も、これと同じ話に繋がってたってことかよ)ハルは胸の内で毒づいた。柄にもなく、老人の震える指先から目が離せなかった。だが今は、それを言葉にする余裕がなかった。フードの人物の声は、止まらずに続いていく。
「迷宮は、その仕組みの残骸だ」フードの人物は続けた。「砕けた天秤の破片が、今も土地に食い込み、脈打っている。……掴み屋、お前は、その欠片を宿して生まれた人間だ」
ハルは動かない右手を見下ろした。焼けるような痺れの記憶が、今さら別の意味を持って背筋を這い上がった。
「――コルドーの狙いも、それかよ」
「灰塚を目覚めさせただけでは、まだ足りない」フードの人物の声の温度が、わずかに下がった。「あの男が欲しいのは、天秤の仕組みそのものだ。壊れた秤を丸ごと掌握し、自らの手で、世界をもう一度――正しく量り直す」
「……正しく、だと」
「誰が生き残るに値するか。あの男が、自分の重さで決める。……それが、あの男の最終目的だ」
風が水路を渡り、灯りの落ちた闇の底で、リードの二の腕の痣が、遠い光にわずかに応えるように滲んで見えた。
(――こいつも、まだ量られたまんまなのかよ)ハルは奥歯を噛んだ。搾取も、借金も、蔑称も――全部、この同じ根から生えていたということだ。自分の右手も、その根の先の、ただの枝だったということだ。そしてリードの腕の中で、まだ何かが終わっていない。
「――笑えねえな」ハルは低く言った。声が、自分でも驚くほど掠れていた。
フードの人物は答えなかった。ただ、闇の奥でこちらを見つめる気配だけが、いつもより長く残っていた。
橋脚の向こうでは、まだ誰かが息を潜めている気配が消えていなかった。今夜だけの筋書きの外側で、何かが静かに続いている――ハルにはそう思えてならなかった。




