第76話「天秤の痣」
「動くぞ」
監視者の声に迷いはなかった。灯りの芯を指で摘んで消す。それだけで物置の中は闇に沈んだ。
板壁の隙間から、統一された足音が近づいてくる。数える必要もない、複数だ。
ハルは動かない右手を懐に押し込み、左肩でリードの脇を担いだ。熱で重くなった体は、担ぐだけで骨まで軋んだ。
「じいさん、歩けるかよ」
「儂の足腰は、まだそこまで腐っちゃおらんわい」
オルグは杖を突きながらも、思ったより速く動いた。監視者が壁の裏――誰も見向きもしない崩れた土台の割れ目を示す。四人はそこへ這うように潜り込み、路地の喧騒が背後で膨らみ、やがて遠ざかっていくのを、息を殺して聞いていた。
「……行き過ぎたな」監視者が短く呟いた。「この先、水路の下に空いた場所がある。前に見張りに使ってた」
案内された先は、水路の橋脚の裏に空いた石組みの隙間だった。狭いが、雨風は防げる。リードを横たえ、ミラが濡れ布を額に当て直す。ハルはようやく肩の重みから解放され、壁にもたれて息を吐いた。
「……じいさん」ハルは低く聞いた。「さっきの顔、まだ引っかかってる。あの痣、知ってる顔じゃなかったろ」
オルグは杯代わりの酒瓶を握ったまま、しばらく黙っていた。
「……儂とコルドーが初対面じゃないってのは、前に話したな」オルグは掠れた声で言った。
「ああ」ミラが低く頷いた。「連れが欠片を持ち帰る前の晩、若い頃のコルドーがじいさんの傍に来て、長々と話し込んでたって話だろ」
「そこまでは、話したわい」オルグは酒瓶を膝に置いた。「……だが、まだ言っとらんことがある。あの晩、あの男が何を言うておったか」
(じいさん、まだ隠してることがあったのかよ)ハルは胸の内で毒づいた。柄にもなく、喉の奥が乾いた。
「あの男は、熱っぽく語っておったよ」オルグは目を閉じた。「――これで正しく量れる世界を作れる、と。誰も不当に安く買い叩かれず、誰も不当に高く見積もられもしない。誰もが、正しい重さで扱われる世界になる、とな」
「……それを聞いて、連れは欠片を持ち帰ったのかよ」
「儂は止めた。だが、あの男の言葉には、妙な光があった」オルグは掠れた声で続けた。「連れは、あの光に惹かれたんじゃ。……儂は、あの男の顔を、忘れたことがないんじゃ」
沈黙が落ちた。
「……じいさん、辛いこと思い出させて悪かったな」ハルは低く言った。柄にもなく、声が掠れていた。
「その連れの分まで、話してくれてありがとよ、じいさん」ミラもそっと付け加え、老人の丸まった肩に手を置いた。
オルグは何も言わず、小さく頷いただけだった。
リードが小さく身をよじり、二の腕の痣が灯りに晒された。ミラが布をずらし、痣の縁をじっと見つめた。
「……これ」ミラの声が低くなった。「爪の痕じゃない。模様だ」
痣は不規則な打撲ではなかった。中心から左右へ枝分かれし、両端に小さな皿のような膨らみを持つ――天秤の形だった。
「じいさん、こいつも同じかよ」ハルは低く言った。
「……同じじゃ」オルグの声が震えた。「儂の連れが最後に見た紋と、同じ形をしとる」
「――じいさん、大丈夫かよ」ミラが低く聞いた。「その顔、また真っ青じゃねえか」
「……大丈夫じゃよ、嬢ちゃん」オルグは掠れた声で答え、深く息を吐いた。それから、杯を口元に運ぶ手を止めた。
「――蔵で、もう一匹気配がしたな」監視者がぽつりと言った。「コルドーの臭いじゃなかった。もっと、静かな奴だ」
ハルは息を止めた。「フードの奴か」
「分からねえ」監視者は短く返した。「だが、あの静かな臭いは……ガドナーとかいう名の残り香を追ってた気がする」
「――そういや、前にも一度だけ嗅いだことがある」監視者は続けた。「あの静かな臭い、お前に絡んでくるフードの奴と同じ質のもんだ」
新たな謎が積み重なる。誰も答えを持たないまま、オルグがゆっくりと顔を上げた。その目は、ハルの黒く色を失った右手から、リードの二の腕に浮いた天秤の痣へと、ゆっくり動いた。
「兄ちゃん」オルグの声が、初めて明確に震えた。「その痣が出たら、もう長くはないんじゃぞ……儂の連れも、二十日は保たなかった」
隠れ家の外で、水音に混じって何かが軋む音がした。監視者が音もなく立ち上がり、石組みの隙間から外を窺う。
「……止まってねえな」監視者は低く唸った。「橋脚まで来てやがる。次に動く時は、話す暇はねえぞ」
その一言が、四人の間に残っていた弛緩を断ち切った。休息はここまでだ、と誰の顔にも書いてあった。




