量られて消えた人
物置の隅、藁を重ねた寝床にリードを横たえた途端、ミラが眉を寄せた。
「熱い……こんなに熱があるなんて、聞いてなかったよ」
濡らした布で額を拭くミラの手が、小さく震えていた。灯りを絞った物置の中、リードの呼吸は浅く速く、時折うわ言のように声を漏らすだけで、目は閉じたまま開かなかった。
物置の板壁の隙間から、外の路地を風が擦る音が細く鳴った。監視者の視線が一度、戸口の外へ向いてすぐに戻った。それだけのことに、誰も声をかけなかった。
「……二の腕の痣が熱を持ってる。あれのせいかよ」ハルは動かない右手をリードの傍らに置いたまま、低く呟いた。柄にもなく、その額の熱さが自分の手のひらに移ってくるような気がした。
戸口の暗がりから、オルグが杖を突いてゆっくりと歩み寄った。痣の浮いた腕をひと目見ただけで、老人の顔から一切の色が抜けた。
「……ああ」オルグは掠れた声を漏らした。「やっぱり、そうじゃったか」
(じいさん、そんな顔してどうしたんだよ)ハルは胸の内で毒づいた。柄にもなく、その血の気の失せた顔から目が離せなかった。
「じいさん」ハルは低く聞いた。「知ってんのか、それ」
オルグは答える代わりに、震える指を伸ばし、リードの腕には触れずにその上で止めた。
「儂の連れも……同じじゃった」老人は言葉を選ぶように、一語ずつ区切った。「あの欠片を持ち帰った晩は、何ともなかったんじゃ。翌日も、その次の日も。……だが十日目あたりから、儂の名を呼び間違えるようになってな。二十日目には、儂の顔を見て『お前は誰じゃ』と聞いてきたわい」
ミラの手が止まった。
「……最後は」オルグは声を落とした。「自分の名前さえ、思い出せんようになった。儂が何を言っても、うつろに笑うだけでな。そして、ある朝――目を覚まさなんだ。眠ったまま、静かに、な」
沈黙が落ちた。ハルの喉が詰まった。
(じいさん……そんな長い間、ずっと隣で見てたのかよ)ハルは胸の内で毒づいた。柄にもなく、拳の形にならない右手の指先が震えた。「……その連れの名前、覚えてるのかよ、じいさん」
「忘れる訳がないじゃろう」オルグは短く答えた。それ以上は言わなかった。
「言いにくいこと、話してくれてありがとよ、じいさん」ミラがそっと付け加え、老人の丸まった肩に手を置いた。
そのとき、寝床のリードが小さく身をよじった。灯りの芯が揺れ、壁に映る影が一瞬大きく歪んだ。
「……儂は」譫言のような声だった。「儂は、まだ間違っちゃいねえ……」
ハルとミラが同時に顔を見合わせた。リードの声にしては、抑揚が違う。まるで誰かの口ぶりを、そのまま真似ているような響きだった。
「リード」ハルは低く呼びかけた。「起きてんのかよ」
薄く開いた目は、まだ焦点が合っていなかった。それでもリードの口は、途切れ途切れに動き続けた。
「……先任の……ガドナーさんが……」リードは掠れた声で言った。ようやく、それが自分自身の声に戻った。「昔、コルドーの迷宮への執着を調べてた監査官だ。俺の……師匠だった」
「じいさんと同じ、迷宮の遺跡を見た口か」ミラが低く聞いた。
「……もっと深く突っついたんだろうな」リードは苦く笑った。「あの人は、コルドーに直談判した。灰塚みたいな迷宮の芯を、あの男が本当に何をする気なのか――問い詰めに行って、そのまま」
「そのまま、何だよ」ハルは急かさず、それでも低く促した。
「――消えた」リードは目を閉じた。「いなくなったんじゃない。記録から、名前から、俺の記憶の外側からそっくり抜き取られたみたいに、消えた。……俺以外、誰もあの人の名前を覚えていない」
「……お前一人だけ、その人のことずっと覚えてたのかよ」ハルは低く言った。柄にもなく、声が掠れていた。
リードは目を閉じたまま、微かに頷いただけだった。
「コルドーの仕業か」ハルが聞いた。
「分からない」リードは首を振ろうとして、それだけの力もないように顔をしかめた。「あいつが、あの人を『どなたのことでしょう』と言った時――あれは、演技じゃない。本当に、覚えていないんだ。あの男自身も、量った側のはずが、何を量ったのかを忘れてしまう。……そういう仕組みなんだろうな」
オルグが息を呑んだ。「……儂の連れの最期と、同じじゃな。忘れられて、消える――それだけのことなんじゃろうな」
「じいさんの連れも、リードの師匠も」ミラが低く呟いた。「同じ運命を辿ってるってことか」
誰も、それ以上は言わなかった。言葉にすれば、次はハル自身の右手がそうなると認めることになる気がしたからだ。
(――量られて、消える。それが秤の手の行き着く先だってんなら、俺もいつか同じ末路かよ)ハルは胸の内で吐き捨てた。柄にもなく、動かない右手の指先が痛んだ。
握り込もうとして、右手はやはり動かなかった。開いたままの指先が、ただ震えるだけだった。
「……なあ、ミラ」ハルは低く言った。柄にもなく、声が絞り出すような形になった。「俺がいつか、じいさんの連れみたいに消えたら――お前、俺の名前くらいは覚えとけよ」
「……当たり前だろ」ミラは即座に、それでいつもより低い声で答えた。「柄にもなく気弱なこと言ってんじゃねえよ、坊や。忘れさせやしねえよ、あたしが」
その一言だけで、ハルは口を噤んだ。だが今、それ以上を口にする気にはならなかった。
リードの目がふっと再び霞んだ。うわ言に戻った声は、また別人のように低く、古びた響きを帯びていた。
「――コルドーは……あの日、儂ではなく、あの人を選ぶべきだった」
ハルは息を止めた。それはリードの声ではなかった。師匠が最期に残した言葉を、リードがそのまま口の中で繰り返しているだけだと、聞けば分かった。
「……おい」ハルはリードの肩を強く揺すった。「しっかりしろよ、リード。まだ話は終わってねえって、ミラが言ったろうが」
戸口で監視者が短く息を吐いた。「――静かにしろ」
一同が凍りついた。物置の外、路地の敷石を踏む足音が、一つではなく、幾つも重なって近づいてきていた。統一された歩幅。統一された装備。
「……見つかったか」監視者が低く呟いた。「早すぎる」
コルドーの手勢が、リードの生存を嗅ぎつけて動き出していた。




