第74話「まだ消されていない男」
見張りの交代は、思ったより早く来た。
「今だ」監視者が短く言い、先に動いた。
塀際の暗がりを縫って三人が近づく間、ハルは自分の左手だけで小刀の柄を握り直していた。右手は相変わらずだらりと下がったまま、指一本動かない。だが今夜は、それでいい。掴む役はミラの手が担う。
裏口の閂を監視者が音もなく外す。中は思ったより静かだった。灯りは一つ、奥の隅にだけ灯っている。
「……誰か、いる」ミラが低く言った。
近づくと、縄で縛られた影が壁際にうずくまっていた。頭を垂れ、身動きひとつしない。ハルの喉が詰まった。
「――リード」
低く呼びかけると、影がわずかに動いた。顔を上げたそこにあったのは、いつもの抑揚のない平静さではなく、げっそりと削げた頬と、焦点の定まらない目だった。
「……お前らか」リードは掠れた声で言った。ようやくそれだけを絞り出す。
「無事か」ハルは左手で縄を切りにかかった。柄にもなく、指が震えた。
「無事とは言えねえが……まだ、消されちゃいねえ」リードは自嘲めいた息を漏らした。「妙な話だ。……殺す気なら、とうに殺してる」
(じいさんが言ってたな。「上に嫌われた奴は、最初からいなかったことにされる」って――こいつが、その最初の例外になるってことかよ)ハルは胸の内で呟いた。柄にもなく、切り終えた縄を握る手に力がこもった。
そのとき、奥の暗がりで人影が動いた。見張りが一人、二人――いや、三、四人はいる。蔵の広さに対して、明らかに多すぎる数だった。松明を掲げるでもなく、じっとこちらを窺っている。
「――待て」監視者が低く制した。「動くな。妙な間合いだ」
見張りの顔に浮かんでいたのは、闘志ではなく怯えだった。武器を構えながらも、後退る足がリードの方を向いている。壁際の暗がりに、松明の光も届かない黒ずんだ染みのようなものが広がっているのに、ハルはそこで初めて気づいた。
「お前ら」ミラが眉を寄せた。「何をそんなに怖がってんだよ」
答える代わりに、見張りの一人が呻くように言った。「……近づけるな。あれに触れたものは、皆――」
言い終わる前に、監視者が踏み込んだ。抜き放った刃が閃き、見張りの得物を弾き飛ばす。ハルは左手一本でもう一人の足を払い、体勢を崩したところをミラが手刀で沈めた。二人がかりの秤の手を使うまでもない、あっけない決着だった。
だが決着の軽さに反して、蔵の空気はどこまでも重かった。壁際の黒ずみは、見張りたちが怯えていた「何か」の名残のように見えて仕方がなかった。
「上等だ」ハルは吐き捨てながら、リードの縄を切り終えた。「――触れたもの、って何の話だよ」
リードは答えず、震える手を持ち上げた。袖がめくれ、二の腕に浮かぶ、うっすらとした痣のような紋様が見えた。灰塚の結晶と同じ、鈍い光を帯びた痕だった。
ハルの息が止まった。
「……コルドーに、これを見せられた」リードは掠れた声で続けた。「触れろとは言われてねえ。だが、置かれてただけで……この様だ」
「何なんだよ、それは」ミラの声が硬くなった。
「分からねえ」リードは力なく笑った。「分からねえまま、俺はずっとあの男を追ってた。……お前らに言うべきことが、まだある」
言葉の途中で、リードの目がふっと霞んだ。倒れかけた体を、ハルは左肩で咄嗟に支えた。
「――おい、しっかりしろ」
「……借り、があるんだ」リードは薄れる意識の中、譫言のように呟いた。「コルドーに……昔、俺は……」
そこで言葉が途切れた。息はある。だが、それ以上は語らなかった。
(――借り、だと? じいさんの時といい、あんたらは揃いも揃って抱え込みすぎなんだよ)ハルは胸の内で毒づいた。柄にもなく、担いだ肩に力がこもった。
「……このまま逝かせやしねえよ」ミラがリードの手首を取り、脈を確かめながら低く言った。声から、いつもの軽口の気配が消えていた。「まだ、話は終わってねえんだからな」
「連れ出すぞ」監視者が短く言った。「長居すれば、次は本物が来る」
ハルはリードの体を左肩に担ぎ、動かない右手を無理やり添えて支えにした。秤の手を使ったわけでもないのに、古傷が疼くような鈍い痛みが肩から這い上がる。それでも、放り出す気にはならなかった。
蔵を出る間際、ハルは振り返った。壁際の黒ずみの向こう、今しがた沈めた見張りとは別の気配が、確かにあった。
「――もう一匹、隠れてやがる」監視者が低く呟いた。「動きが違う。ヴェインの残り物じゃねえ、コルドーの臭いだ」
拒んだ分の報いは、容赦なく積まれていく――そう思うと、背筋が冷えた。だが今は、リードを担いだこの足を止めるわけにはいかなかった。
その正体を確かめる暇は、なかった。




