第72話「まだ息のある名」
夜明け前、ライグの物置に人の気配が満ちた瞬間、ハルは反射的に体を強張らせた。
戸口に立っていたのは、灯りの下では滅多に姿を見せない監視者だった。
「――生きてる方の、拾えた」
前置きもなく、男は言った。
ハルは目を覚ましたばかりのミラと顔を見合わせた。
「生きてる、って」ミラが先に聞いた。「誰の話だよ」
「まだ息のある捕虜がいるって噂だ」監視者は短く続けた。「ヴェインの伝手を辿ったら、そこに行き着いた。コルドーの筋が、生かして飼ってる奴がいる」
ハルの喉が詰まった。
「――リードか」
「知らねえ」監視者は素っ気なく首を振った。「名までは出てねえ。だが、心当たりがある場所だ」
一拍置いて、続けた。
「前に見張りをしてた頃、ヴェインが荷を隠すのに使ってた蔵だ。今はコルドーの息がかかった連中が出入りしてる」
「案内できるかよ」ハルは低く聞いた。
「できる」監視者は頷きかけて、そこで初めてわずかに間を置いた。「――あそこは、リードも一度嗅ぎ回りに来た場所だ。あいつが妙にしつこくコルドーを追ってたのは、命令だけの理由じゃねえのかもしれねえ」
ミラが目を細めた。「――それ、どういう意味だよ」
「知らねえ。そこまでは聞いてねえ」監視者はそれ以上語らず、先に立って歩き出した。
(――命令だけの理由じゃない、か)
ハルは胸の内でその言葉を転がした。リードはいつも抑揚のない声で用件だけを告げていく男だった。あの平坦な顔の下に、私情なんてものがあるとは思っていなかった。だとしたら、あいつは何を追ってたんだ。答えは出なかったが、その一言だけが妙に耳に残って離れなかった。
蔵は水路の外れ、朽ちかけた倉庫の並びの奥にあった。近づくほどに、見張りの数が増えていくのが分かる。ハルたちは物陰から距離を保ち、じっと様子を窺った。
見張りの数は、これまで見てきたどの現場よりも明らかに多い。ハルの脳裏に、灰塚の道中でコルドーに向けて吐いた拒絶の返事が浮かんだ。
(――ねえよ、と啖呵切った代償が、こうして回り回ってきてるってわけかよ)
自分が拒んだせいで警戒が強まったのか、それとも元からこの厚さだったのか。確かめる術はなかったが、迂闊に近づけば終わる警戒網だということだけは肌で分かった。
見張りの交代の隙に、監視者が音もなく塀を越えた。ハルとミラは物陰に張り付いたまま、動かなかった。
巡回の足音が二度、すぐ側の路地を通り過ぎた。どこかで犬が一声吠え、すぐに静かになる。ミラが息を殺し、ハルも喉の奥で唾を止めた。塀の向こうから物音は聞こえてこない。刻一刻と過ぎる時間が、いつもより長く感じられた。
しばらくして、監視者が戻ってきた。手には、何かを握っていた。
「――塀の中、見つからずに済んだのかよ」ハルは低く聞いた。柄にもなく、声が掠れていた。
「潰れちゃいねえよ、それくらいで」監視者は素っ気なく返した。それだけだった。
「これが、蔵の裏の溝に落ちてた」
差し出されたのは、片方だけの徽章の欠片だった。ハルの脳裏に、河岸の詰所で拾ったもう片方の欠片が蘇る。
袖の内側からそれを取り出し、二つを合わせてみる。継ぎ目は、ぴたりと嵌まった。
「……リードの、徽章か」ハルは掠れた声で言った。
「まだ息はある、って話だ」監視者は短く言った。「――だが、悠長にしてる暇はねえぜ」
ミラが拳を握った。「じゃあ、決まりだな。ここが、あいつの居場所だ」
監視者は蔵の方へ視線を戻し、僅かに眉を寄せた。
「――一つ、気になることがある」低く言った。「見張りの連中の顔、コルドーの命令にしちゃ怯えすぎてる。誰かを閉じ込めてるっていうより、誰かから守ってるみてえな顔だ」
ミラが眉根を寄せた。「守ってる、って――何からだよ」
「知らねえ」監視者はそれきり口を閉じた。
窓の奥、蔵の壁の隙間から漏れる灯りが、一瞬揺れて消えた。中に、まだ誰かがいる。




