第71話「天秤の欠片」
灰塚を出た頃には、日はとうに沈んでいた。
ハルは動かない右手の袖の内側に、あの小さな天秤の石を押し込んでいた。重さなど測れる状態ではないのに、懐にあるというだけで、やけに気になった。
入口の瓦礫の陰から、しゃがれた声が飛んできた。
「――まだ二人とも、潰れちゃいねえな」
監視者だった。灯りのない暗がりに立ったまま、こちらの様子を一瞥しただけで、それ以上は何も聞かなかった。
「潰れる暇もなかったよ」ミラが答える声には、まだ疲れが滲んでいた。「あんたも、退屈しただろ」
「退屈で済むなら、まだマシだったけどな」
監視者はそれだけ言うと、街の暗がりへ先に消えた。ついてこいという意味だと分かるまで、少し間があった。
ライグの物置に戻ると、オルグが酒瓶を手にしたまま待っていた。ハルとミラの姿を見て、老人は杖を握り直し、痛むように腰を上げかけたが、二人の顔色を見て何も聞かなかった。
「――終わったのか」
「終わったかどうかは知らねえよ」ハルは低く答えた。「けど、あれはもう眠ってる」
袖から石を取り出し、卓の上に置いた。ランプの灯りの下で、灰色の石はただの小石のようにしか見えなかった。だが、オルグの顔からみるみる血の気が引いていくのが分かった。
「――じいさん」
ミラが先に声をかけた。「顔、真っ青じゃねえか。大丈夫かよ」
オルグは答えなかった。震える指を伸ばし、石の縁にそっと触れる。触れた瞬間、石の内側でごく微かな光が滲んで、また消えた。
(じいさん、そんな顔するほどのことかよ)ハルは胸の内で毒づいた。柄にもなく、老人の指先の震えから目が離せなかった。
「儂が見た遺跡と、同じものじゃ」老人は掠れた声で言った。「いや……違う。同じじゃない。これは、あの遺跡の、欠片じゃ」
「知ってんのか」ハルは言った。押し殺した声だった。「じいさん、その連れも……こいつを見たのかよ」
オルグは長い沈黙のあと、酒瓶を置いた。震える指で目元を拭う仕草に、酒のせいではない何かがあった。
「……儂の連れの一人は、こいつと同じ形をした欠片を持ち帰った。大異変の、ずっと前の話じゃ」老人は言葉を選ぶように、一語ずつ区切った。「そして、二度と目を覚まさなんだ」
「……じいさん、その連れとは長い付き合いだったのかよ」ハルは低く聞いた。柄にもなく、声が掠れていた。
オルグは答える代わりに、小さく頷いた。それだけで十分だった。
「言いにくいこと、話してくれてありがとよ、じいさん」ミラがそっと声をかけ、老人の肩に触れかけて、やめた。触れていいものかどうか、迷ったように見えた。
沈黙が落ちた。物置の外で、街の喧騒が遠く続いていた。灰塚の光の噴出から幾日も経つというのに、噂はまだ収まる気配がない。
「――掴み屋のハルだってよ」通りすがりの声が、薄い壁越しに聞こえてくる。かつてなら見下すような響きで発せられていたはずの言葉が、今は違う色を帯びていた。畏れに近い、囁き。
(蔑称もクソもねえ、か)
ハルは奥歯を噛んだ。名が変わったところで、腹の足しにも右手の代わりにもなりはしない。
「――リードの奴は」ミラがぽつりと聞いた。「灰塚に潜る前から便りがなかったが、あれから今まで、変わらずまだ見つかってねえのかよ」
「ああ」ハルは短く答えた。柄にもなく、声が硬くなった。「灰塚の中じゃそれどころじゃなかった。核を沈めた後も、状況は変わっちゃいねえ。あいつのことも、まだ片付いちゃいねえ」
オルグは石から目を離さないまま、掠れた声で呟いた。
「――目を覚まさなんだ連れが、最後に儂に言った言葉があるんじゃ。『これは、測るための道具じゃない』と」
「――どういう意味だよ」ハルは低く聞いた。
老人は答えなかった。ただ、震える指の下で、石がもう一度、微かに脈打った。まるで、何かに応えるように。
ふと、扉の外の気配が強張るのが分かった。監視者だった。灯りの下には出てこないまま、押し殺した低い声だけが扉越しに届いた。
「……今の、見たか」
窓の隙間から、遠く灰塚のある方角の空に、淡い光が一瞬滲んで消えるのが見えた。石と同じ、あの色の光だった。




