第70話「量られた心臓」
重ねた手のひらの中で、二人分の痺れが限界を訴えていた。
核の輪郭が、無数の腕をゆっくりと持ち上げた。天秤の梁を何本も束ねたような太さだった。振り下ろされれば、二人とも一息で潰れる。
「――離すなよ、ミラ」
「離すかよ、こんな時に」
軽くした体で沈み込み、直後に重さを戻した。腕の一本を紙一重で外し、床が割れるほどの音が響いた。だが二の腕も三の腕もまだ残っている。数が多すぎた。灰塚の主とは、そもそも張り合う土俵が違う。
「――目覚めるところを、この目で見たいだけです」
背後の暗がりから、抑揚のない声がまた響いた。統一装備の足音がその後ろに続き、松明の灯りが広間の縁を照らし始める。前門の核、後門のコルドー。逃げ場はどこにもなかった。
先頭の一人が剣を抜き、命令を待たず踏み込んできた。ハルは核の腕を凌ぐのに全神経を注いだまま、視界の端でその切っ先を捉えた。躱す余裕はない。
――だが、剣は届かなかった。
核の紋様が放つ光が唐突に膨れ上がり、踏み込んだ男の膝を折らせた。剣が石畳に落ち、乾いた音を立てて転がった。
灯りの中に、コルドー本人がゆっくりと歩み出てきた。乱れのない足取りだった。
「これは、実に――」コルドーはそこで一度言葉を切った。珍しく、続く言葉がすぐに出てこないようだった。核の紋様が放つ光が、その顔を白く照らしていた。「想定より、少し早いようですね」
紋様の光が広間全体に満ち、統一装備の男たちがそれ以上踏み込めずに足を止めた。膝を折った男に続き、もう一人がよろめいた。光そのものに押されているのか、それとも別の何かに。
「――退がりなさい」コルドーが短く言った。声から余裕が削られていた。丁寧語だけが最後まで残っていた。「今は、これを見届けることが優先です」
(――じいさんの仮説、当たってやがるかもしれねえ)
ハルは奥歯を噛んだ。秤の手は迷宮そのものを測るために生まれた力じゃないか、とオルグは言った。軽くする、重くする――それだけの技だと思っていた。だが目の前にいるのは、生物の質量とは思えない、灰塚の主で感じたあの硬い芯そのものだった。あの時と同じなら、掴んで軽くしようとしても弾かれるだけだ。
軽くするんじゃない。重くするんじゃない。
――量るんだ。
「ミラ、腕は緩めろ。力じゃねえ、リズムだ」
「意味わかんねえよ、それ!」
「脈動に合わせろ、それだけだ!」
核の腕が沈む瞬間に軽く、持ち上がる瞬間に重く。押すのではなく、脈打つ律動そのものへ手のひらを添わせる。二人分の痺れが焼け付くように増していく中、腕の振りが少しずつ、狂っていった。
紋様の中心が明滅を乱し、やがて灰塚の主で見た継ぎ接ぎの体の輪郭が、束の間だけ浮かび上がって消えた。
――取り込まれたのは、死骸じゃなかった。生きたまま、飲まれたんだ。
核がゆっくりと沈んでいった。腕が一本、また一本と力を失い、地に伏していく巨体が、深い眠りに落ちるように動きを止めた。光は消えなかったが、脈動は緩やかな呼吸ほどのものに変わっていた。
広間に、静寂が落ちた。
コルドーは、その光をしばらく見つめていた。そして、初めて表情らしきものを浮かべた。満ちたとも、失望したとも見えない、判別のつかない色だった。
「掴み屋のハル」コルドーは静かに言った。「これで、あなたの名前は間違いなく知れ渡るでしょう。……私にとっても、他の誰にとっても」
「上等だ」ハルは肩で息をしながら吐き捨てた。「知れ渡ったところで、あんたに売る気は変わらねえよ」
コルドーは何も言い返さなかった。ただ一礼するでもなく、部下たちに視線をやり、静かに広間の暗がりへ戻っていった。追う余力はどこにもなかった。
膝が崩れ、ハルはその場に座り込んだ。ミラも同じように、崩れかけの瓦礫に背を預けた。
「――お前、手はまだ動くかよ」ハルは肩で息をしながら、先にミラへ聞いた。
「動くわけねえだろ、こんだけ酷使して」ミラは笑おうとして、途中で息が切れたような顔になった。「けど、指くらいはまだ言うこと聞くよ。上等じゃねえの」
「……終わった、のか」ミラが掠れた声で言った。
「知るかよ」ハルは低く答えた。「あいつがまだ何か考えてるってことだけは、わかる」
「……なあ」ミラが瓦礫に背を預けたまま、ふと呟いた。「リードの奴、どうなったんだろうな。まだ帰ってきてねえんだろ」
「……さあな」ハルは低く答えた。柄にもなく、視線が広間の暗がりの奥へ流れた。「あいつもあいつで、何か抱えてる面してやがった。……無事だといいがな」
沈んだ核の中心――紋様の名残が最後の光を灯している、その根元に、小さな影があった。ハルは動かせない右手の代わりに、顎でそちらを示した。
「――あれ、見えるか」
石でできた、天秤の形をしたものだった。オルグが語った、地の底へ傾く巨大な遺跡と、同じ形をしていた。手のひらほどの大きさしかないのに、見た瞬間、ハルの右手の芯が、覚えのある痺れとは違う何かで震えた。
ミラが息を呑む音が、静かな広間に響いた。
「――なんだよ、それ」
答えは、まだどこにもなかった。灰塚の脈動が収まった後も、その小さな天秤だけが、静かに二人を見上げていた。




