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掴み屋ハル ―手のひらひとつの、生存戦線―  作者: SG


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迷宮の心臓

灰塚の入口で、頬に古い刃傷のある男が壁にもたれていた。松明も持たず、闇に馴染むような佇まいだった。


「ここから先は、俺の目も届かねえ」男はしゃがれた声で言った。視線が一度だけ、ハルの垂れた右手に落ちる。「――その手、まだ使い物になるのかよ」


「聞いてどうすんだよ」ハルは低く返した。「使えなきゃ困るのは俺の方だ」


男は鼻先で笑った。息の混じった、乾いた笑いだった。


「――そこまで粘るなら、行け」男は短く言った。「潰れたら、後は拾ってやる」


それだけ言うと、男は壁に背を預けたまま動かなくなった。奥へ進むハルたちを見送る、番人のような形で。


通路の暗がりの奥、さらに一段深いところに、もう一つの気配があった。姿は見えない。だがフードの人物特有の、値踏みするような静けさだけが、確かにそこにあった。ハルは振り返らなかった。振り返ったところで、何かが変わるわけでもない。


(――見てるだけかよ、いつも通り)


胸の内で毒づきながら、ハルは奥へ足を進めた。


震動が収まった後も、脈動は止まらなかった。


奥へ続く通路の壁が、一定の間を置いて盛り上がっては沈む。ハルはその動きに合わせて足を運びながら、これまで潜った灰塚のどの通路とも違うと悟った。壁も、床も、天井も――呼吸をしている。


歩きながら、ハルの脳裏に、ヴェイン邸で最後に聞いたあの声がよぎった。


――手を組む気は、本当にないか。


(――ねえよ)


ハルは胸の内で吐き捨てた。柄にもなく、答えは前から決まっていた。じいさんの分の礼すら碌に返せちゃいねえのに、貴族の駒に成り下がってやる義理はどこにもねえ。


行き止まりのように見えた瘤の壁が、二人の目の前で縦に裂けた。粘つく光の筋が奥から漏れ、扉のように左右へ開いていく。


「……扉、かよ」ハルは低く呟いた。


「開けって言われた覚えはねえけどな」ミラが唇を歪めた。声には強がりの震えが混じっていた。


答えの代わりに、裂け目の奥から生温い風が吹き出した。呼び込まれているのか、ただ吐き出されているだけなのか。二人は顔を見合わせ、どちらからともなく足を踏み入れた。


その先に広がっていたのは、これまで見たどの広間よりも大きく、天井の見えない空洞だった。中央に据わっているのは、灰塚の主よりも一回り、二回り大きい。輪郭は生き物というより、天秤の腕を無数に束ねて丸めたような塊で、脈打つたびに紋様が全身を這い回る。


ハルの右手が、勝手に痺れを増した。


「――こいつ、灰塚の主とは格が違うぞ」ミラが後ずさりながら呻いた。


「知るかよ、格の測り方なんざ習っちゃいねえ」ハルは強がったが、喉が渇いていた。掴んでもいない、触れてもいない。それなのに、右手の芯が引っ張られるような感覚があった。以前、あの主の前脚を掴んだ時に感じた、生物の質量とは思えない硬い芯――あの手応えの本体が、今、目の前にいる。そんな気がした。


「――貸せ」


言われるまでもなく、ハルは垂れた右手をミラの手のひらへ差し出した。重なった瞬間、もう一つの呼吸が流れ込んでくる。指先から二の腕まで、焼けるような痺れが二人分重なって走った。


塊の輪郭が、微かに縮んだ。


わずかだが、確かに縮んだ。届いていた。ハルは奥歯を噛んだ。


塊がゆっくりと持ち上がりかけた頭部らしき突起をこちらへ向けた。


その時だった。


背後の通路から、複数の足音が響いてきた。統一された歩幅、揃った靴音。石を蹴る音の合間に、金属の擦れる硬い響きが混じる。その中に一つだけ、急ぐ様子のない、妙に落ち着いた足取りが紛れていた。


ハルは肩越しに振り返った。松明も持たず、闇の中でも乱れない足並みだけが近づいてくる。


(――あの音、聞き覚えがある)


出張所の前で、名乗りもせず名を呼んできた、あの静かな声の主と同じ足取りだった気がした。確信はない。だが胸の底が冷えるのに、確信なんぞいらなかった。


「――目覚めるところを、この目で見たいだけです。灰塚が、本当は何なのか」


抑揚のない声が闇の奥から響いた。ハルは息を止めた。姿はまだ見えない。それでも、コルドーの声だと疑う余地がなかった。


「……冗談だろ」ハルは奥歯を噛んだ。「入口はあいつが引き受けるって言ってたじゃねえかよ」


「別口かもしれねえ」ミラの声が硬くなった。「それとも――突破されたか」


前には目覚めかけた迷宮の核。後ろには迫るコルドーの手勢、それに紛れるかもしれない落ち着いた足音。逃げ場を探す間もなく、塊の紋様がひときわ強く発光し、広間全体が大きく脈打った。


(――どのみち、全部にケリをつける暇はねえ)


胸の内で、ハルは吐き捨てるように結論を出した。リードの生き死には、あとで確かめればいい。今はまだ探す当てすらねえ。ヴェインの返答はもう腹に収めた話だ。今、目の前で片付けなきゃならねえのは、この目覚めかけた核と、後ろから迫るコルドーの両方だけだ。それ以外は、全部後回しでいい。


重ねた手のひらの中で、二人分の痺れが限界を訴え始める。それでも離せなかった。


ハルとミラは、崩れそうな重さの真ん中で、動けないまま立ち尽くした。


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