二人分の秤
灰塚の入口は、風の音すら止まったように静かだった。
亀裂から漏れる光は、以前よりも濃く、脈打つたびに壁全体がわずかに息をしているように見える。ハルは右手を見下ろした。指はだらりと垂れたままで、握り込もうとしても、皮膚と骨がそこにあるという以上の反応を返してこない。
「――ここから先は、俺は降りねえ」
監視者は入口の亀裂に片手を這わせ、闇の奥を一瞥した。
「上で見てる。誰かが後ろから来たら、そいつは俺が引き受ける」
「あんたにしちゃ律儀じゃねえか」ハルは言った。
「勘違いするな」男は短く返した。「――これで最後まで付き合うってのは、こういう意味だ」
それだけ言うと、男は闇の縁に腰を下ろし、動かなくなった。ハルはその背に何も返さず、ミラと並んで亀裂の奥へ足を踏み入れた。
深部の通路は、記憶にあるより息苦しかった。壁の瘤はさらに膨らみ、結晶の胎の光がところどころ廊下にまで漏れ出している。
「――来るぞ」
ミラの声と同時に、光を纏った小柄な変異獣の群れが両側の亀裂から溢れ出した。それだけならまだいい。群れの中心を割って現れたのは、統一装備の黒い上着に、刃の根元に淡く発光する結晶の欠片を仕込んだ剣を提げた男だった。皮膚に刻まれた紋章が、松明の光に浮かぶ。
「掴み屋。……お前を、連れ帰る」
抑揚のない声だった。名乗りもせず、それだけを言うと男は踏み込んできた。
「知るかよ、そんな用事」ハルは吐き捨てたが、右手は使い物にならない。左手だけで受け流すには、相手の得物は速すぎた。
「――貸せ」
ミラの手が、ハルの垂れた右手に重なった。指を絡めるでもなく、ただ手のひらを合わせる。それだけで、ハルの意識の中に、もう一つの手応えが流れ込んでくる。
「息、合わせろよ。今度は、こっちが合わせる番だ」
ミラの声には、以前のような迷いがなかった。ハルは頷き、迫る剣先へ自分ごと軽くする。だが最初の一歩は、噛み合わなかった。ミラの重さが早く来すぎたのか、恐怖でハル自身の呼吸が乱れたのか――軽くなったはずの体が、わずかに重い。踏み込みが半歩遅れ、剣先が頬をかすめて熱い筋を引いた。
「――っ、遅い!」ミラが舌打ちした。「もう一回だ、今度こそ合わせろ!」
「知るかよ、こっちだって初めてなんだよ!」ハルは吐き捨てながらも、退かなかった。二撃目の剣が振り上げられる寸前、ハルは自分の右手を通してミラの気配に神経を集中させる。息を、数える。一つ、二つ――重なった。
羽のように逸れた体は男の間合いを外れ、懐に潜り込む。ぶつかる寸前、ミラの手のひらから流れ込む重さが、ハルの拳へ一息に乗った。狙いも、速さも、二つの意志が一つに揃った瞬間だった。
鈍い音がして、男の体が壁際まで吹き飛ぶ。結晶の欠片を仕込んだ剣が石畳に転がり、光を失って砕けた。群れの変異獣たちも、統率者を失ったように動きを鈍らせ、亀裂の奥へ潰走していく。
「――頬、切れてるぞ」ミラが肩を貸しながら顔を覗き込んだ。「深くはねえよな」
「かすった程度だ、心配すんな」ハルは短く答えたが、頬に触れた指先には赤いものが付いていた。
静寂が戻った通路で、ミラはその場にへたり込んだ。ハルも膝をつく。二人とも肩で息をしていた。
「……効いたな」ミラが掠れた声で言った。「今のは、ちゃんと二人で殴った気がする」
「ああ」ハルは短く答えた。それ以上の言葉は、今は出てこなかった。
「……なあ」ミラが呟いた。「あたし、ずっと考えてたんだ。ハルの手がこのままなら、あたしらの稼業、これまで通りにはやれねえって」
「答え、出たかよ」
「出ちゃいねえよ、まだ」ミラは苦笑した。「けど、今ので分かった。これまで通りじゃなくても、続けられねえわけじゃねえ。……二人分でも、一つの秤にはなるみてえだな」
「上等だ」ハルは低く笑った。「一人より二人分の方が、腹の足しにもなる」
ミラも笑い返そうとしたが、笑みの途中で息を切れさせた。「けど、今の一発でもう息切れだ。次も同じ調子で保つかどうかなんて、賭けみたいなもんだな」
ハルは何も言わなかった。右手はまだ痺れの余韻で熱を持ち、左手の指先も震えていた。二人分でようやく一つの拳になる――裏を返せば、二人揃わなければ何もできないということでもある。その不安を、今は誰も声にしなかった。
その時だった。
床が、今までにない大きさで揺れた。壁の亀裂という亀裂から、光が一斉に脈打ち、地の底から低く長い唸りのような震動が這い上がってくる。今までの脈動とは、規模が違う。
(あの夜、街の空に噴き上がったあの光は……本当の始まりでさえなかったってのかよ)
ハルは奥歯を噛んだ。灰塚そのものが、地の底から丸ごと身を起こしにかかっているような気配だった。あの理事が望んでいたのが、まさにこれだとしたら――背筋が冷えた。
ハルとミラは、崩れそうな足場の上で、無言のまま顔を見合わせた。




