これで最後まで付き合ってやる
水路沿いの物置は、灯り一つ落として使うのが常だった。
ハルが油皿の芯に火を移すと、狭い壁の内側にぼんやりとした輪が浮かぶ。その輪の中に、一人また一人と顔が増えていった。
「よお、掴み屋の坊や」ミラが先に来て瓦礫の上に座り込んでいた。「今日はやたら顔が揃うじゃないの。葬式の予行練習かよ」
「縁起の悪いこと言うな」ハルは短く返したが、否定できないものが胸の底にあった。灰塚に本腰を入れて挑む前の、最後の一夜。そう思うと誰も口にしないが、誰もが分かっていた。
戸口から杖の音がして、オルグが板戸を押し開けた。
「儂まで呼ばれるとは思わんかったわい」老人は杖を突きながら、瓦礫の一つに腰を下ろした。「まあ、呼ばれんでも来たがな」
「じいさん、その足でよくここまで来れたな」ミラが眉を寄せた。「わざわざ悪いよ」
「儂を年寄り扱いするでないぞ、嬢ちゃん」オルグは杯も出さずに、懐から欠けた酒瓶を取り出した。「……まあ、心配してくれるだけ、ありがたく受け取っておくわい」
続いてライグが物陰から現れた。相変わらず店を畳んだままの、少し痩せた顔だった。
「呼ばれたから来たけどな」ライグは戸口に背をつけたまま言った。「柄にもなく、こういう集まりは苦手なんだよ、俺は」
「知らねえし、知りたくもねえ、が口癖の奴が来たか」ハルが皮肉ると、ライグは肩をすくめただけで座らなかった。
「知りたくもねえって言った口で、こんな夜まで顔出してるんだから、俺もどうかしてるよ」ライグはそれだけ付け加えて、目を逸らした。
四人が炎の周りに落ち着いた頃、板戸の隙間から冷えた夜気が流れ込み、その気配だけで誰もが黙った。
「――もう随分前になるが、灰塚の深部から荷を運んだな」
フードの人物が、いつからそこにいたのか分からない静かさで戸口に立っていた。誰も驚かなかった。もう驚くだけの余力が残っていなかったのかもしれない。
「用件があるなら手短にな」ハルは言った。「今夜だけは、腹を割る夜にするつもりだ」
「――そうか」フードの人物は短く応じた。「リードはまだ、消えてはいない。籍は失われたが、生きてはいる。それだけは変わらない」
「それだけ言いに来たのかよ」ミラが問うと、フードの人物はしばし黙り、それから低く言った。
「乗るか乗らないかを選ぶ余地は、これで最後だ。灰塚に入れば、もう選べなくなる」
その一言だけを残し、フードの人物は暗がりへ溶けるように姿を消した。誰もその背を追わなかった。
「胡散臭さはそのままだけどな」ライグが呟いた。「あれと関わって得したことは、まだ一つもねえ」
「得はしてねえが、借金は消えたぜ」ミラが軽く返す。「差し引きゼロってとこだろ」
小さな笑いが灯りの中に落ちた。それだけで、この場に来た理由が少し軽くなった気がした。
「……あたしも、行くって決めたのは自分だ」ミラがふっと真顔に戻って言った。「柄にもなく、逃げる理由もいくつかあったけどな。それでも、ここにいる」
「じいさん」ハルは声を落として聞いた。「灰塚の方は、まだ静かなままか」
「静かとは言えんわい」オルグは酒瓶を舐めながら答えた。「だが、それを言いに来たわけじゃあない。……儂は、明日は行かんぞ、兄ちゃん」
「分かってるよ」ハルは頷いた。「じいさんに前線を頼む気はねえ」
「だから、代わりに言うことがあるんじゃ」オルグは杖の先で地面を叩いた。「――上に嫌われた奴は、いなかったことにされる。それを覆した奴は、一人もおらんかった。……それでも、行くんじゃろう」
「行くさ」ハルは言った。それ以上の理由は、この場では要らなかった。
天井の梁がわずかに軋んだ。板の隙間から、月の光が一筋差し込む。
「――まだ潰れてねえとはな」
嗄れた低い声が頭上から落ちてきた。屋根裏の暗がりから、黒装束の影が音もなく降り立つ。灯りの下に立つのは初めてだった。フードの奥にあったのは、頬に古い刃傷を持つ、年齢の読めない男の顔だった。
「あんたか」ミラが目を細めた。「顔まで見せる気になったとはな」
「今夜だけだ」男は言った。「灯りの下に長居する趣味はねえ」
「その手首の紋」ハルは低く聞いた。「ヴェインの紋だろ。……なんで、こっちに付いた」
男はしばらく黙り、それから懐から小さな鉄片を取り出して炎の傍に置いた。ヴェインの私兵と同じ意匠が刻まれている。
「元は、口封じの手筋の一人だった」男はぼそりと言った。「証拠を消せ、証人を消せ、って仕事を何度もやった。……だが、ある夜、独りぼっちの年寄りを黙らせろって命令が来た。その年寄りは、ただ迷宮の話を誰かにしただけだった」
オルグの手が、酒瓶を持ったまま止まった。
(じいさん……もしかして、じいさんも危うくそうなってた口か)ハルは胸の内で毒づいた。柄にもなく、拳が固くなるのが分かった。
「その年寄りを、生かしといてやったのは……あんたじゃったのか」オルグが震える声で聞いた。杯代わりの酒瓶を持つ手が、目に見えて揺れていた。
男は答えなかった。それが答えだと、誰もが分かった。
「断れば、消される側に回るだけの話だった」男は続けた。「それだけの話だ。飼い犬にだって、噛みつく牙くらいはある――前にも言ったな」
「……じいさんの分まで含めて、礼を言うのは筋違いか」ハルは低く言った。ミラも黙って頷いた。
男は肩をすくめただけで、何も言わなかった。
「秤の手のことも、あんたは前から知ってたな」ハルは言った。「屋根の上から、あの言葉を漏らしたのはあんたか」
「……ああ、あの時のは俺だ」男は短く認めた。「秤の手の話をしただけで、名までは出してねえ。ギルド中央の名を漏らした奴とは、別口だ」
「ギルド中央の名を漏らした奴とは、別口ってことか」ミラが確かめるように聞いた。
「そういうことだ」男は言った。「あっちは俺よりも、もっと奥に潜り込んでる筋だろうよ」
その一言で、屋根上に潜んでいた気配が二つ以上あったことが、初めてはっきりと形になった。誰も追及はしなかった。今夜はそういう夜だと、皆が分かっていた。
男は鉄片を拾い上げ、懐へ戻した。
「灰塚に入れば、もう戻れねえ道になる。そういう顔を、お前らはしてるぜ」男は炎越しにハルを見た。「――だから、これで最後まで付き合ってやる」
灯りが、男の頬の刃傷を照らした。誰も、その言葉に軽口を返さなかった。




