駒だった当主
安酒場を出た通りで、最初にその話を聞いたのはミラだった。
「ヴェイン邸から、荷馬車が何台も出てったってよ」ミラは声を落として言った。「使用人だか私兵だか知らねえが、まとめて放り出されたって噂だ」
「潰れかけの実家の話でもねえのに、大袈裟な噂だな」ハルは鼻を鳴らしたが、内心では引っかかるものがあった。灰塚の主を仕留めた夜から、あの家の名は何度も耳に絡みついてきた。今さら音を立てて崩れていく理由が、簡単には見えない。
「オルグの野郎、こういう話には詳しいだろ」ミラが言った。「聞いてくかよ」
だが酒場の隅にオルグの姿は無く、代わりに聞き込んだ屋台の女の話は、噂よりもう一段生々しかった。ヴェイン家の紋を掲げた馬車が中央通りを何往復もし、屋敷の裏門からは荷札の付いた木箱が次々に運び出されているという。荷の中身は誰も見ていない。
中央通りまで足を延ばすと、噂は目の前の光景になっていた。裏門の脇に停まった荷馬車が軋みながら傾き、積み上げられた木箱の角が擦れて鈍い音を立てる。御者は何も聞かされていないらしく、ただ急かされるように手綱を握っていた。灯りの落ちた窓が並ぶ屋敷は、以前ハルが訪れた時の静かな威圧感とは違う、ただ空っぽな暗さを湛えていた。
「ハル殿」
声がしたのは、路地を折れた先だった。灰色の上着を几帳面に着込んだ男が、以前と同じ丁寧な物腰でそこに立っていた。ただ、その所作の端に、以前は無かった僅かな遅さが混じっている。
「――お連れの方も」灰色の使者はミラへも軽く頭を下げた。「お耳に入っているかと存じますが、当家は今、少々慌ただしい状況にございます」
「少々、で片付ける規模じゃねえだろ」ハルは腕を組んだ。「何があった」
使者は一拍置いた。答えを選んでいるというより、答え自体を持て余しているような間だった。
「灰塚の一件以来、当主が独占していたはずの結晶の流れが――ギルド中央の名のもとに、すべて吸い上げられました」使者は静かに続けた。「当主が求めていたのは、結晶という資源そのもの。だが、あちらが求めていたのは、迷宮そのものです。当家は、その手筋の一つに過ぎなかった、ということかと」
ハルは奥歯を噛んだ。駒でしかなかった、という言葉が、思ったよりすんなり腑に落ちた。あの穏やかな微笑みの裏で、アルダスもまた誰かに値踏みされていたということだ。
「指の結晶は、どうなった」ハルは低く聞いた。あの発光する飾りは、ずっと引っかかっていた種だった。
「――もう、光りません」使者は初めて、僅かに言葉を切った。「あれは当主自身のものではなく、灰塚から流れた欠片の一つに過ぎませんでした。真に価値を見出す者の手に渡れば、こちら側の光は静かに消える。……そういうものだったようです」
その言葉には、丁寧語のまま隠しきれない何かが滲んでいた。長年主に仕えてきた者が、その主の値打ちが底で見誤られていたことに、今初めて気づいた声だった。
裏門の方から、足音が近づいてきた。私兵の粗野な歩き方ではない。もっと静かで、疲れた足取りだった。
「ハル」
名を呼んだのはアルダス自身だった。仕立てのいい上着はそのままだが、以前あった余裕の膜のようなものが、今は見えなかった。指先には、もう光らない結晶の飾りだけが残っていた。灯りを失った小さな欠片は、ただの色の悪い石ころにしか見えない。
「証言撤回の話でも、召し抱えの話でもない」アルダスは静かに言った。微笑みは浮かんでいたが、その温度は初めて低くなかった。「私はもう、ハルを飼えるほどの家じゃなくなった。分かって言っている」
ハルは黙って、痺れの残る右手を持ち上げてみせた。指は力なく開いたまま、握り込むことはできない。ミラの手を借りなければ、もう何も掴めない手だった。
(飼う、か。飼われる前に、こっちの手はとっくに使い物にならなくなってるってのに)
皮肉が喉まで出かかったが、目の前の男から以前の余裕が根こそぎ抜け落ちているのを見て、ハルはそれを飲み込んだ。恨む相手が、こんな風に崩れ落ちるところを見て気分がいいわけがない。だが同情してやる義理もない。潰れかけの脅威に情けをかけるほど、こっちも余裕のある身の上じゃなかった。
「――手を組む気は、本当にないか」
アルダスの声には、これまでの穏やかな威圧の代わりに、初めて聞く色があった。縋るには足りないが、余裕とは呼べない、何か削られた声だった。




