量るために生まれた手
「――塔だ。塔が並んでてよ、通りが延びてて。それだけなら、まあどこにでもありそうな話なんだが」
ハルは安酒場の隅、欠けた木杯を指先で回しながら、思い出す端から言葉にしていた。オルグは黙って酒を舐め、ミラは頬杖をついたまま眉を寄せている。
「……真ん中に、でかい台があった」ハルは低く続けた。「石の柱が二本立って、その上に板が渡してあってよ。天秤みてえに、ゆっくり傾いてた。片方が下がると、もう片方が上がる。それを、大勢の連中が下から見上げてやがった」
「天秤、かよ」ミラが呟いた。「――それ、まさか」
「知るかよ、まさかも何も、俺が見たまんまだっつってんだよ」ハルは吐き捨てるように言った。だが本当は、自分でもとっくに気づいていた。あの光景が、ただの偶然だとは思えなかったことに。
オルグの手が、杯の途中で止まった。
「兄ちゃん」しゃがれた声が、いつもより低かった。「今、何て言った」
「天秤だよ。石の台に渡した板が、傾いて」
「……そいつは、どっち向きに傾いておった。街の方か、地の底の方か」
ハルは眉を寄せた。そんな細部まで問われるとは思っていなかった。
「――地面の方だ。板の片端が、地べたの下まで沈んでるみたいに見えた。何かを、量ってるみたいに」
長い沈黙があった。オルグは杯を置き、震える指で目元を拭った。酔いのせいには見えなかった。
(じいさん、どうしたんだよ)ハルは胸の内で戸惑った。柄にもなく、老人の指先の震えが目から離せなかった。
「じいさん」ミラも声を落として聞いた。「顔、真っ青じゃねえか。大丈夫かよ」
「……大丈夫じゃよ、嬢ちゃん」オルグは掠れた声で答えた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「儂も、見たことがあるわい」老人はようやく言った。「若い時分に潜った迷宮の一番奥でな。似たようなもんが、崩れかけた壁の向こうに立っておった。あの時は誰もそいつの意味なんぞ気にせんかった――潰れかけの遺跡だと、それだけでな」
「じいさん」ミラの声が固くなった。「本気で言ってんのか、それ」
「本気も何も、儂はこの目で見たものしか言わんよ、嬢ちゃん」
ハルは黙って自分の右手を見下ろした。震えるだけで握れない、痺れきった手だった。だが、その手のひらの奥に、今も残っている感覚があった。灰塚の主の前脚を掴んだ時の、二重の重さ。結晶の胎に触れた時、指を離せなくなったあの感覚。
「……秤の手、か」ハルは自嘲混じりに呟いた。「掴み屋の、なんの役にも立たねえ地味な力。それが、あんな仰々しいもんと同じ名前してるなんてよ、笑える話だろ」
「笑えるかどうかは、まだ分からんぞ」オルグが低く言った。「兄ちゃん。兄ちゃんの手は、生き物の重さも、荷物の重さも掴む。……なら、迷宮そのものの重さを掴めても、おかしくはないじゃろう」
その一言が、腹の底に重く落ちた。ハルは何か言い返そうとして、言葉が出てこなかった。無能の証だと思っていた力が、蔑称の由来だと思っていた名前が、まったく別の意味を持って自分に張り付いてくる感覚があった。
「――冗談じゃねえぞ」ハルは掠れた声で言った。「俺は、ただ飯食って寝床を守りたいだけなんだよ。迷宮を量る道具にされる筋合いなんざ、どこにもねえ」
「筋合いがあるかどうかを決めるのは、多分、兄ちゃんじゃないわい」
オルグはそう言うと、杯の中身を一息に呷った。喉を鳴らす音だけが、しばらく場を満たした。
「じいさん」ミラが静かに聞いた。「大異変より前ってのは、いつまで遡るんだよ。じいさんが潜ってた迷宮の話は、いつの話だ」
オルグは答えなかった。杯を握る指先に、僅かに力がこもった。老いた目が、ハルの右手に落ちたまま動かない。答えないことそのものが、何かを語っているようだった。
「――言えるのは」
老人はそう切り出すと、手にしていた杯を静かに卓へ置いた。今度は、呷るためではなかった。酔いも忘れたような顔で、しゃがれた声だけが妙にはっきりしていた。
「秤の手ってのは……もしかしたら、迷宮そのものを測るために生まれた力なんじゃなかろうか」
安酒場の喧騒が、その一言だけ遠くへ退いていくようだった。ハルは自分の手を見下ろしたまま、しばらく何も言えなかった。




