灰塚そのものだ
屋根の上の男を締め上げるか、コルドーの尻尾を吐かせるか――昨夜あれだけ固めた決意は、朝日を見る頃にはとっくに萍のように萎んでいた。
窓口を五軒回り、ライグの伝手を三つ潰し、屋根の上の気配を二度見失った。得られたものは、何もなかった。懐には、昨日河岸の詰所の戸口で拾った、引きちぎられた徽章の欠片が一つ入っているだけだった。それすら、今日新たに拾ったものではない。
「……くたばりそうだ」ミラが道端の瓦礫に腰を下ろし、乾いた声で言った。「歩き回っただけで何も出てこないってのは、一番こたえるな。……こういう時だけ律儀に腹が減るとこも、嫌になるよ」
「知るかよ」ハルは短く返した。「探し方が悪いのか、探す場所自体がねえのか、そこすら分からねえのが一番こたえるっつうんだよ」
行くあてを失った足は、自然と灰塚の方へ向いていた。誰かが名前ごと消される街より、化け物が正直に牙を剥く迷宮の方が、まだ分かりやすい――そんな理屈が、二人のどちらの口からも出ないまま、瓦礫地帯の際まで辿り着いていた。
亀裂は、以前よりもさらに幅を広げていた。奥から漏れる光は、脈打つというより、もう息をしているようだった。低く、途切れず、まるで巨大な生き物の胸の内側を覗いているかのような明滅だった。
その時、亀裂の縁からいくつもの小さな影が這い出した。
犬ほどの大きさの、節だらけの脚を持つ変異獣が三つ、四つ。灰塚深部の結晶の胎の周りに群れていたものと同じ、皮の下に薄く光が透ける個体だった。
「――また増えてんのかよ、こいつら」ハルは舌打ちした。右手は握れないが、まだ痺れの残る左手を前に出し、体を軽くして一体の突進をかわす。着地の瞬間、自分に触れて重さを戻し、踏み込んだ肩で弾き飛ばした。ミラの投げた小刀が、もう一体の眼を正確に潰す。
数は多くない。長くはかからず、残りは光の奥へ引き戻るように逃げていった。荒い息を吐きながら、ハルはその後ろ姿を見送った。
「灰塚の主の残り滓か、それとも生まれ直しか……」ミラが小刀を拾いながら呟いた。「どっちにしても、性質が良くねえのは確かだな」
「ここが結晶の胎に近いってだけで、湧いて出るってことかよ」ハルは低く言った。手のひらの奥の痺れが、また一段階重くなっている気がした。
「――また来たか、兄ちゃん、嬢ちゃん」
しゃがれた声に振り向くと、オルグが瓦礫の縁に立っていた。杖を突いた足元は覚束ないが、亀裂を見上げる目だけは、いつもより鋭かった。
「じいさん、その足でよくこんな所まで来られたな」ミラが眉を寄せた。「わざわざ悪いよ、じいさん」
「なんの、儂の足はまだ言うことを聞くわい」オルグは杖を突き直しながら答えた。「様子を見に来ただけじゃ。……この光、噴き上がったあの夜から、一度も収まっとらん」オルグは低く呟いた。「灰塚の主が死んだと思ったのは、儂らの勘違いだったのかもしれんわい」
「今も、その仔らが湧いて出やがったよ」ハルは顎で亀裂を示した。「灰塚の主の忘れ形見か何かかよ、じいさん」
「……さもありなん、じゃろうな」オルグはそれだけ答え、それ以上は語らなかった。核心には触れず言葉を濁す、いつもの態度だった。
ハルは黒く痺れた右手をきつく握ろうとして、握れないことを思い出した。あの化け物の前脚を掴んだ時の、二重の重さの違和感が、まだ手のひらの奥に張り付いている気がした。
「……あれと、この光。同じもんだって顔してるな、じいさん」
オルグは答えなかった。ただ長く息を吐き、亀裂を睨んだまま、ぼそりと付け加えた。
「大異変より先にあったもんが、また目を覚ましたんじゃろう。……儂に言えるのは、それだけじゃ」それだけ言うと、老人は杖を突いて踵を返した。「儂はもう潜らんし、これ以上は見とうもない。兄ちゃんたちも、長居はするなよ」
踵を返しかけたオルグの目が、ふとハルの右手に落ちた。黒く痺れ、指の開いたまま垂れ下がったそれを一瞥し、杖を鳴らす足を一度だけ止める。「……その手、まだ使うつもりか」しゃがれた声に、それ以上の説教は無かった。ハルが答えるより先に、オルグは再び歩き出していた。
「――じいさん」ハルは老人の背に声をかけた。柄にもなく、声が少し低くなった。「その足で、来た道また戻れるのかよ」
オルグは振り向かず、杖を軽く持ち上げて応えた。「儂を年寄り扱いするでないぞ、兄ちゃん。……まあ、心配してくれるだけ、ありがたく受け取っておくわい」
老人の足音が瓦礫の向こうに消えても、ハルとミラはその場を動かなかった。光は変わらず息をしていた。
「都市の闇と、こいつの正体……」ミラが亀裂を見つめたまま呟いた。「本当に、繋がってんのかよ」
「知るかよ」ハルは吐き出すように言った。「だが、繋がってねえって言い切れる根拠も、もう一つもねえ」
暗がりの奥で、何かが動いた。
「――ようやく、静かに話せる場所か」
抑揚のない声だった。フードの奥から目だけがハルを見ていた。
「あんたかよ」ハルは低く言った。身構える前に、諦めのようなものが先に喉を通った。「毎回、都合のいい時にしか出てこねえよな、あんたは」
フードの人物は、それには答えなかった。代わりに、亀裂の光へ視線を流した。
「コルドーが動いている理由を、まだ勘違いしているな」低い声が、間を置いて続いた。
「灰塚そのものが狙いだってのは、もう聞いたよ」ハルは低く遮った。「本人の口から、じかにな。今更それだけ聞かせに来たのかよ」
一拍、長い間があった。フードの奥の声が、僅かに温度を落とした。
「ならば、勘違いの中身を言い換えよう」抑揚のない声だった。「コルドーが求めているのは、灰塚を手に入れることではない。灰塚を――目覚めさせることだ」
「あ?」ハルは眉を寄せた。「目覚める、って何だよ。あれはもう、うるさいくらい脈打ってるじゃねえか」
「今の脈動は、寝言のようなものだ」フードの奥の声は、僅かに温度を落としたまま続いた。「灰塚が本当に目覚めた時、何が変わるか――掴み屋、お前はまだその意味を知らない」
「――だったら、教えろよ」ハルは奥歯を噛んだ。
フードの人物は答えなかった。それだけを言い残し、暗がりへ溶けるように消えた。返事を待つ気配は、最初から無かった。
亀裂の奥で、光がまた一つ、大きく息をした。




