最初からいなかった男
詰所の窓口で最初に「そのような監査官は存在しない」と突っぱねられたのは、昨日のことだった。灰塚の空に光が噴き上がり、コルドーと直に相対する羽目になったのも、結局は同じ日の内――昨夜のことだ。一晩明けて、出張所の窓口は、今日で三軒目だった。
「監査官のリードだ」ハルは掠れた声で繰り返した。「昨日、中央の呼び出しで詰所に入った。それから戻ってねえ」
若い受付は帳面を見もせずに答えた。「そのような監査官は、当出張所の記録にはございません」
「昨日聞いた話と同じことを、また言ってんじゃねえだろうな」ハルは声を低くした。「昨日会ったばかりだっつってんだよ、こっちは」
「記録にない以上、お答えできません」
判で押したような返事だった。ハルは奥歯を噛んで踵を返した。ミラが力の抜けた重い右手をそっと支えながら、代わりに聞いた。
「じゃあ聞き方を変えるよ。呼び出しがあったって記録もねえのかよ」
「呼び出しの記録も、対象者の記録がなければ確認できません」
「便利な理屈だな、それ」ミラは低く吐き捨てたが、返事はなかった。
四軒目に回った中央支所でも、同じ言葉が返ってきた。応対した男の胸ぐらを、ハルは半ば無意識に掴みかけていた――寸前で、指が痺れたまま開いた右手だと気づき、拳にできない手のひらを見下ろす。代わりに、まだ動く左手が受付台を叩いた。乾いた音が、静まり返った窓口に響いた。
「――そうかよ」ハルは低く唸るように言った。「そりゃ、随分と便利な記録だな」
男は顔色ひとつ変えず、次の方どうぞ、とだけ告げた。ミラが何も言わずにハルの肩を叩き、先に歩き出した。
書付を扱った担当窓口も、同じだった。名前を出すたびに、判で押したように同じ言葉が返ってくる。――そのような者はおりません。まるでリードという男が最初から、この街のどこにも存在しなかったかのように。
「揃いすぎだろ、これ」ミラが吐き捨てた。「口裏合わせなら雑すぎるほど揃ってる。……こいつら、噓すら吐いてる自覚がねえんだよ」
「一番怖いのは、そこだよな」ハルは低く言った。奥歯の裏が乾いていた。「殴られる方がまだ、何をされたか分かるだけマシだ」
水路沿いの物置に、ライグはまだ潜んでいた。戸を叩くと少し間があって、痩けた顔が覗いた。
「リードのことなら、俺も聞いた」ライグは戸口から出てこず、暗がりのまま言った。「窓口で消されてる名前ってのは、ろくな話じゃねえ。……最後に見たのは、河岸の詰所に呼ばれる前だ。その先は、俺も追ってねえ」
「追ってねえ、で終わりかよ」
「知らねえし、知りたくもねえよ、正直な」ライグの声が硬くなった。「悪いが、これ以上は踏み込む気はねえ。俺はもう一度この面で商売できる側に戻りたいんだ」
それでも、行き先の手がかりだけは寄越した。河岸の詰所――リードが最後に呼び出された場所。ハルはそれを腹の底に叩き込みながら、詰所へ続く路地を戻った。
屋根の稜線に、影が動いた。
黒い装束の、嗄れ声の男とは違う。もっと軽い足音で、月の位置を確かめるように一度だけ立ち止まり、すぐにまた気配を薄くして遠ざかっていった。声は一つも聞こえなかった。ハルは目だけでそれを追った。
追おうと半歩踏み出しかけて、ハルは足を止めた。壁に手をかけたところで、この手では上まで持たない――それだけのことに、今更のように気づかされた。舌打ちが漏れた。
「――違う奴だ」ハルは低く呟いた。「前に助けてくれた野郎じゃねえ」
「分かるのかよ、それ」
「気配が軽い。足の運びも違う」ハルは眉を寄せた。「あっちは獣みてえに歩く奴だった。今のは……もっと、上から見てるだけの目つきだ」
ミラは黙って屋根を見上げたが、そこにはもう何もなかった。
河岸の詰所は、鎖の下りた無人の建物だった。当然のように、そこにも誰もいなかった。ただ、裏手の戸口の隙間に、小さな金具が挟まっていた。指で弾き出してみると、ギルド監査官の証を示す徽章の欠片だった――縁が力任せに引きちぎられたように歪んでいる。争った跡か、誰かが後で気づけるように残したものか、判別はつかなかった。ハルはそれを黙って懐にねじ込んだ。
行き場を失った二人が最後に足を向けたのは、いつもの安酒場だった。オルグは杯を傾けたまま、ハルたちの報告を黒く濁った目で聞いていた。
「――どこの窓口も、いなかったことにしてる」ハルは吐き出すように言った。「リードって奴、最初からいなかったみてえにされてるんだよ」
オルグは杯を置いた。ゆっくりと、乾いた声で言った。
「上に嫌われた奴は、最初からいなかったことにされる。……それだけのことなんじゃよ」老人の声には、驚きも慌てもなかった。ただ、積み重ねた年月の分だけ重かった。「儂も昔、そういう仲間を何人も見てきたわい。……名前も、手柄も、この世におった証も。誰かが台帳から一行削るだけで、それで終わりじゃった」
「何人もって……何度も、なのかよ」ミラの声が硬くなった。
「一度や二度じゃないわい」オルグは杯の底を見つめたまま呟いた。「儂が知る限り、それを覆した奴は一人もおらんかった。……兄ちゃんたちも、今度こそ肝に銘じておけ」
「……じいさんも、その中の誰かを見送ったのかよ」ハルは低く聞いた。柄にもなく、声が掠れていた。
オルグは答えなかった。ただ杯を口に運んだだけだった。それで十分だった。
「言いにくいこと、話してくれてありがとよ、じいさん」ミラがそれだけ言って、ハルの肩をそっと叩いた。
「――だったら、じっとしてても始まらねえ」ハルは奥歯を噛んだ。「あの屋根の上の野郎か、コルドー本人か……どっちかを、締め上げてでも吐かせる」
「本気かよ、それ」ミラが眉を上げたが、止める響きはなかった。「まあ、今更あんたが大人しくしてるとも思えないけどさ」
ハルは力の入らない右手を見下ろした。握れないその手の先が、今は誰よりも冷えているように感じられた。




