どなたのことでしょう
「掴み屋としてではなく、あなた個人に伺いたいことがあります」
コルドーはそう言うと、片手をもう一度上げた。今度は衛兵にではなく、遠巻きに立っていた野次馬と、慌てて追いついてきた出張所の職員に向けてだった。
「ここは私が。お下がりください」
声は大きくない。それでも誰も逆らわなかった。人垢が波のように後ろへ引いていく。オルグだけが杖を突いたまま数歩下がり、その場に踏み留まった。灰塚の光を見上げていた老人の目に、今は別の警戒が滲んでいた。
「――じいさんも下がらねえのかよ」ミラが小声で言った。年寄りをこんな場に一人残す気はねえ、という響きがその声にはあった。
「儂は耄碌しとるが、耳は遠うないわい」オルグは低く答えた。それ以上は動かなかった。
コルドーはそれを咎めなかった。目を一度だけオルグに向け、興味なさげにミラへ視線をやり、最後にハルへ戻した。全部で三秒とかからなかった。値踏みというより、帳簿の頁をめくるような目の動きだった。
「灰塚が、目を覚ましました」コルドーは静かに切り出した。「――その光を見て、あなたは何を思いましたか。掴み屋のハル」
「何をって……ろくなもんじゃねえってことだけだ」ハルは短く返した。「あんた、そんな世間話しに来たんじゃねえだろ」
「その通りです」
コルドーの表情は変わらなかった。声の温度も変わらなかった。ただ、次の言葉の前にわずかに間を置いた。
「アルダス卿があなたの手に目をつけていたことは、承知しています。あなたを道具として飼おうとした――そういう報告も受けました。……つまらない話です。私の用件は、それとは違います」
「じゃあ何だよ」
「私が興味を持っているのは、あなたの手そのものではありません」コルドーは言った。「灰塚そのものです。……いえ、正確には、灰塚を含めた迷宮という現象そのものに、です」
一拍置いて、続けた。
「なぜか、とは聞かないでいただきたい。まだお話しできる段階にはありません。ただ――あなたの手は、それを測るための、数少ない道具の一つに見えている。それだけです」
ハルは奥歯を噛んだ。(勝手に測り方扱いしてんじゃねえよ……つっても、聞いたところで教えてくれる気もねえんだろうな、こいつは)
「秤の手を借りたいってことか。国の調査ってやつに」
「そうです。表向きは、そうなります」コルドーはあっさり認めた。「拒めば、無理に連れて行くことはしません。……ただ、覚えておいていただきたいことがあります」
「――なんだよ」
「厄介事に深く関わった者が、その後どうなったか。あなたはもう、何人か見てきたはずです」
声を荒げたわけではなかった。ただの確認だった。それがハルの背筋を余計に冷やした。
「……名前も手柄も、消えるってやつか」ハルは低く言った。「オルグから聞いたよ。上に嫌われた奴の話」
「賢明ですね」コルドーは微かに頷いた。感心しているようにも、値踏みしているようにも聞こえた。「――さて。掴み屋、いえ」
そこで初めて、言葉を選ぶような一拍が挟まった。
「ハル。あなたに、選んでいただきたい。協力していただけるなら、私が保証しましょう。稼業も、身分も、今より数字の上でずっと良くなります。……拒むのであれば、私はこれ以上、何もお約束できません」
ミラの手が、いつの間にかハルの袖を軽く引いていた。答えるな、という合図だった。ハルは息を吐いた。安い取引でも、安くない取引でも、どちらにしろ吐きそうになる話だった。
「……上等だ」ハルは言った。「悪いけど、あんたの数字に乗る気はねえよ」
コルドーは表情を変えなかった。落胆すら見せなかった。ただ、静かに一つ息を吸ってから、初めて名を呼び直した口調のまま、話を切り替えた。
「そうですか。……では、これで」
背を向けかけたコルドーに、ハルは思わず声をかけた。行方の知れない監査官のことが、頭の隅からずっと消えなかった。
「――待てよ。リードはどこだ」
コルドーは足を止め、ゆっくりと振り返った。表情には、やはり何も浮かんでいなかった。困惑さえも、演技には見えなかった。
「リード殿とは」コルドーは言った。「どなたのことでしょう」




