最初の獲物、痺れる右手
黒い入り口をくぐる直前、ハルは無意識に右手を握り直していた。灰塚に来るまでの仕事で溜め込んだ痺れは、まだ指の付け根に燻ったままだ。抜けきらない手で次の獲物に向き合うのは、いまさら驚くようなことでもない。
黒い入り口をくぐった瞬間、足元の瓦礫が崩れる音より先に、何かが動いた。
「――来るぞ!」
ガロの怒声と同時に、暗がりから低い影が飛び出してきた。犬ほどの大きさだが、脚の数がおかしい。六本の節足が瓦礫を蹴り、赤黒い口が横に裂けて開く。
「くそっ、幸先悪いな!」
ハルは舌打ちしながら跳んだ。狙われたのはミラだ。振り向きざまに得物を抜く暇もない。
「ミラ! そのまま動線から外れるな、ガロに隙を渡せ!」
「見えてる、そっちこそ勝手に仕切ってんじゃないよ!」
減らず口を叩きながらも、ミラの足は指示どおりに動いていた。転がるように横へ逃れる――ただの逃げではない。怪物の意識を引きずったまま、ガロの得物が届く位置へと誘い込む軌道だった。だが六脚の怪物はそれすら見越したように軌道を変え、二撃目を叩き込もうと跳んだ。
間に合わない――そう思った瞬間には、ハルの右手はもう自分の太腿に触れていた。
「――軽く、なれ!」
抜けきっていなかった昨日までの痺れが疼く間もなく、焼けるような感覚が皮膚を這った。だがそれより先に、体は羽のように浮いていた。地を蹴った反動だけで数メートルを飛び越え、怪物とミラの間に割り込む。
「かっ、飛びやがった!?」
ガロの声が裏返るのが聞こえたが、構っている暇はない。着地と同時に、ハルは怪物の跳躍を右手で受け止めるように――掴んだ。
「重く、なれ!」
一瞬で戻した重さは、これまでで一番重い部類だった。宙で急停止した怪物が、自らの質量に押し潰されるように地面へ叩きつけられる。ガラス片が飛び散るような硬い音がして、六本の脚が痙攣した。
叩きつけた反動は、そのままハルの右腕に跳ね返ってきていた。もう一度同じ真似をする余力はない。だったら――仕留めは、任せる。
「――今のうちだ! ガロ、頭潰せ!」
「お、おう!」
ガロが剣を振り下ろし、怪物の動きが完全に止まる。あっけないほど短い決着だった。
「……ちっ」ガロは剣先の粘液を払い落としながら、忌々しげに舌打ちした。「まぐれにしちゃ上出来だ。だが調子に乗るなよ、掴み屋」
温かみの欠片もない物言いだったが、殺すべき瞬間を外さなかったのは事実だ。ハルはそれで十分だと思うことにした。
「……上出来どころじゃないっての」ミラが割り込む。声はまだ強張っていたが、目元の強張りは少しほどけていた。「あたし、今ので何回目だろうな。ハルの妙な手癖に助けられんの」
軽口のふりをしていたが、滲む安堵まで隠しきれてはいなかった。信用の話をわざわざ言葉にする気はハルにもない。だが、それで十分に伝わってきた。
だが油断はできない。ただでさえ本調子でなかった右手に、今日いちばんの負荷がのしかかっていた。握った拳が焼けるように熱を持ち始めている。
「……っ、ハル、その手」
ミラが青ざめた顔で駆け寄ってくる。ハルは指を開こうとして、思うように開かないことに気づいた。痺れはもう指の先まで来ている。
「大したことねえ。それより――」
強がりの軽口を続けようとした矢先、奥からガロが小さく呻く声がした。
「……おい、まさかとは思うが」
暗闇の奥、崩れた遺構の先から、地を這うような重い足音が響いてくる。一匹や二匹の気配ではない。もっと大きく、もっと深い場所から――何かが、こちらに気づいたように歩みを速めていた。
ハルは痺れた右手を握り直そうとして、握れないことに気づいた。まだ抜けきっていなかった痺れの上に、今日の分がまるごと重なっている。
「上等だ……」
強がりの声は、自分の耳にも震えて聞こえた。




