探しているのは、手じゃない
安酒場を出ると、夜気はやけに冷たかった。
「……じいさんの奴、らしくもねえ顔しやがって」ミラが呟いた。空の杯に酒を注いだ時の、あの湿った声がまだ耳に残っているのだろう。
「本人が一番驚いてたんじゃねえのか、あの話が出てきたことによ」ハルは垂れたままの右手を見下ろし、それから拳を握ろうとして、握れないことを思い出した。腫れはまだ引いていない。ただ痺れだけが、いつの間にか痛みよりも遠い場所に居座るようになっていた。
「リードの奴、どうする気だよ」ミラが低く聞いた。「捜すのか。それとも――」
「それとも、何だよ」
「灰塚だよ」ミラは短く言った。「あそこも、あたしらを待ってるみたいなもんだろ。結晶の胎だの、街の幻だの……こっちも放っておけば、また膨らむだけだ」
答えられなかった。人一人の生死と、迷宮の奥に眠る得体の知れない何か。天秤にかけていい話ではないのに、天秤の形をした問いだけが頭の中に居座っていた。
宿への裏路地に入った時、その気配はもう待っていた。
「掴み屋」
低く抑えた声だった。振り向くより先に、体の芯が強張るのを感じた。
「――あんたか」ハルは目を細めた。「久しぶりだな、随分と間が空いたじゃねえか」
「静観していただけだ」フードの人物は答えた。抑揚のない声だった。「借金の一件も、書付の一件も、片がついていく様子を見ていた。……だが今回は、静観していられる話ではない」
「回りくどいのはいつも通りだな」ハルは吐き捨てた。「単刀直入に言えよ。リードのことか」
「そうだ」フードの人物は短く頷いた。「監査官の名は、ギルド中央のどの記録からも消されている。だが――まだ、消えてはいない」
ミラが息を呑む気配がした。「生きてるのかよ、リードは」
「断定はしない」フードの人物は間を置いた。「だが名前を消すのと、人を消すのとでは、手間も時が違う。……急げば、まだ間に合う目はある」
「急ぐ理由は、それだけじゃない」フードの人物は続けた。「あの監査官がコルドーを追っていたのは、上からの命令だけが理由ではなかった。任務は建前に過ぎない。……奴には、奴自身の因縁があった」
「因縁?」ハルは眉を寄せた。「監査官が、私怨で貴族相手に首突っ込んでたってのか」
「今はそれだけ言っておく」フードの人物の声は変わらなかった。「詳しくは、奴自身の口から聞くがいい。――まだ間に合うのなら」
ミラとハルは顔を見合わせた。何も言葉にはならなかったが、リードという男の輪郭が、また少し分からなくなった気がした。
「急げば、か」ハルは低く繰り返した。「灰塚の方は放っておいていいのかよ」
「放っておけるものではない」フードの人物は静かに首を振った。「お前たちが灰塚の深部で見たものを、こちらも聞いている。街の幻。脈打つ結晶の塊。……あれは、迷宮が見せた記憶だ」
「記憶?」
「灰塚の主――お前が仕留めたと思っているそれの気配は、まだあの壁の奥から完全には消えていない」フードの人物は言葉を継いだ。「お前の秤の手が、丸ごと弾かれたことを覚えているか。重さを掴んでも、掴んでも、手応えが返ってこなかったあの感触だ。あれは秤の手を防いだのではない。お前の力そのものが、何か別のものに弾き返されたのだ」
背筋を冷たいものが這った。あの時の、掌の中で何も摑めていないような虚しい感触が、生々しく蘇る。
「――別のもの、ってのは何なんだよ」ハルの声がわずかに掠れた。
「それも、灰塚を見なければ分からない」フードの人物は答えをはぐらかすでもなく、淡々と告げた。「迷宮は、掴み屋――お前が思うより古い」フードの人物の声が、わずかに低くなった。「大異変より先にあったと、以前も伝えた。あれは仄めかしではない。事実だ。灰塚の壁の奥にあるものは、大異変で生まれたのではない。大異変よりずっと前から、そこにあった何かの残骸だ」
路地の入り口の方で、小石が何かに蹴られたような音がした。ハルは反射的に肩を強張らせ、視線だけをそちらへ走らせた。フードの人物は微動もしなかったが、次の言葉を継ぐまでにわずかな間があった。
「野良犬だろ」ミラが低く言ったが、その声にも硬さが残っていた。
「――続けろよ」ハルは音のした方に背を向けないまま、フードの人物を促した。
「残骸、か」ハルは奥歯を噛んだ。「じゃあ書付の符丁は何なんだよ。コルドーってギルド中央の名前は、その残骸とやらとどう繋がるんだ」
フードの人物は、すぐには答えなかった。核心に触れる前の、あの一拍だった。
「――お前たちは、まだ勘違いをしている」やがて口を開いた声には、これまでで一番低い温度が乗っていた。「貴族の横流し、ギルド中央の腐敗、迷宮の異変。三つの別の話だと思っているなら、それは違う」
「一本の線だってのか」ミラが硬い声で聞いた。「全部」
「そうだ」フードの人物は静かに言った。「選ぶのは、お前たちだ。リードを追うか、灰塚の謎を追うか。時は限られている。……どちらを選んでも、たどり着く先は同じかもしれないが」
「回りくどいって言ったろうが」ハルは声を尖らせた。「はっきり言えよ。コルドーは一体、何を狙ってやがる」
フードの人物は、フードの奥からじっとハルを見ているようだった。答えるまでの間が、これまでのどの沈黙よりも長かった。
「コルドーが探しているのは」
一拍。
「掴み屋、お前の手じゃない。灰塚――迷宮そのものだ」
その言葉を残し、フードの人物は路地の暗がりへと歩き出した。呼び止める声は、出なかった。石を蹴った何者かの気配も、いつの間にか消えていた。野良犬だったのか、それとも別の誰かの尾行だったのか、確かめる暇はもう無かった。
ハルは動かない右手を握ろうとして、また握れないことに気づいた。
(――一番使い物にならねえ時に、一番厄介な二択を押しつけてきやがる)胸の内で毒づいたが、迷っている時間はもう無いことも分かっていた。
「――決まってんだろ」ハルは短く言った。迷いを噛み潰すような、素っ気ない声だった。「リードが先だ。灰塚はどうせ逃げやしねえ。腐った迷宮は千年前からそこにいたんだろうが、人間の首は明日にはねえかもしれねえんだよ」
ミラは一瞬、意外そうに眉を上げたが、すぐに口の端を上げた。
「柄にもなく、いい判断じゃないの」
「柄にもなく、じゃねえよ」ハルは吐き捨てた。「当たり前のことだろうが」
――リードの命と、迷宮の正体。どちらも、もう手放せる話ではなくなっていた。それに、リードの因縁とやらも、灰塚の主に弾かれたあの感触の正体も、まだ何一つ分かっていない。答えは先送りにしただけだ。
夜風が路地を吹き抜けた。ハルはもう歩き出していた。ミラも黙って、その隣に並んだ。




