いなかったことにされる名
路地の奥から近づいてきた足音は、駒たちのものとは違っていた。
乱れて、途切れて、また急いで――逃げているのか、追っているのかも判然としない足取りだった。
「――来るぞ」ミラが低く言って、小刀の柄に手を掛けた。ハルも垂れた右手をそのままに、左肩を壁に付けて身構えた。まだ敵の増援かもしれない。
現れたのは、しかし剣を提げた男ではなく、ギルドの伝令服を着た若い男だった。腰が引け、額に汗を浮かべ、倒れた六人を見るなり顔を強張らせた。
ハルは肩の力を抜きかけて、すぐにまた強張らせた。得物を構えた敵より、この手合いの方が厄介な話を持ってくることを、嫌になるほど知っていた。
「……その、リード様が……」男は声を絞り出した。「呼び出しから戻られておりません。中央の詰所でも、行方が分からないと……」
「戻ってない?」ハルは低く聞き返した。「呼び出したのはそっちだろうが」
男は答えず、後ずさりながら路地の奥へ駆け戻っていった。ハルとミラは顔を見合わせたが、追う余力は互いの体に残っていなかった。
「……手当てが先だ」ミラが息を吐いた。「今の手じゃ、ハルも動けやしないだろ」
垂れたままの右手を一瞥し、ハルは黙って頷いた。
一晩明けて、腫れの引かない右手をミラの手で借りながら、二人はギルド中央の建物へ向かった。荷運びの通用口から入り込み、記録係の窓口に立った。
「監査官のリードって奴を捜してる」ハルは単刀直入に切り出した。「昨日、こっちの呼び出しで詰所に入ったはずだ」
窓口の男は帳面を捲る仕草すら見せなかった。
「リード、ですか。……当ギルドに、その名の監査官は在籍しておりません」
「はあ? 昨日会ったばかりだっつってんだろうが」
「記録にございません」男の声は平坦だった。「別の窓口でも同じ返答になるかと存じます」
念のため、と隣の窓口、さらに奥の詰所の担当にも聞いた。返ってくる言葉は判で押したように同じだった。――そのような監査官は存在しない。
「……揃いすぎだろ、これ」ミラが小声で吐き捨てた。「口裏合わせにしたって、雑すぎるくらい揃ってる」
ハルは奥歯を噛んだ。書付を持ち込んだのも、聴聞を動かしたのも、コルドーの名を突き止めたのも――全部リードだ。その名前ごと、消されようとしていた。
(――拾った恩も、賭けた首も、全部なかったことにする気か)
握れない右手の先が、ひどく冷たく感じられた。
その足で向かった安酒場で、事の次第を話すと、オルグは杯を置いたまま長く黙っていた。
「兄ちゃん」ようやく口を開いたオルグの声は、いつもの間延びした調子から外れていた。「儂も昔、似たような話を聞いたことがあるわい」
「……どんな話だよ」
「上に嫌われた奴は、最初からいなかったことにされる」オルグは杯の底を見つめたまま、苦い顔で呟いた。「名前も、手柄も、この世におった証まで、な。……儂の知る限り、それを覆した奴は一人もおらんかった」
酒場の喧騒が、急に遠く聞こえた。
「……じいさんも、誰か失くしたことがあるのかよ」ハルは低く聞いた。柄にもなく気を遣う言い方だとは思ったが、今更取り消す気もなかった。
オルグは答えなかった。ただ杯を持ち上げ、空になった中身を確かめるように傾けただけだった。その沈黙が、答えの代わりだった。
ミラは何も言わず、瓶を取ってオルグの杯に酒を注ぎ足した。「……ありがとよ、じいさん」ぽつりと零れた声は、いつもの軽口とは違う響きだった。「重い話、させちまったな」
オルグは皺だらけの顔を緩めることもなく、それでも小さく頷いた。「儂はもう潜らんがな。……だからこそ、覚えとることもあるんじゃよ」
灰塚の化け物にも、私兵の刃にも竦まなかった腹の底が、今はじわりと冷えていくのを感じていた。
――味方だと思っていた奴から、消されていく。
次はどっちの名前だ、と考えるのを、ハルはやめられなかった。




