紋章の下の腕
六人が同時に足を踏み出した。示し合わせたような、狂いのない間合いだった。そのうち一人だけ、輪の外側で足を止めたまま動かなかった。他の五人を先に仕掛けさせる、捨て駒を見送るような立ち方だった。
ハルは奥歯を噛んだ。逃げ場はない。ならば――
「ミラ、手を貸せ」
「言われなくても」
ミラの左手が、だらりと垂れたハルの右手にすぐ重なった。指の間から伝わる温度に、掌の感覚が僅かに戻った。二人がかりの秤の手――借り物の重さだ。
先頭を切った一人が踏み込んできた。得物は棍。殺す気はない、ただ運ぶ気だ、とその選び方が語っていた。
ハルは自分の全身に触れる寸前でそれを軽くし、地を滑るように潜り込んだ。当たる刹那、重さを戻す。掌越しにミラの力が乗り、拳は思った以上に重く沈んだ。
男が一人、声も上げずに崩れた。
だが二人目の棍がミラの肩を掠めた瞬間、重ねた手の呼吸が僅かにずれた。戻すはずの重さが行き過ぎ、拳が石畳を叩いて音を立てた。
「――肩、掠っただけだよな」ハルは棍の軌道を目で追いながら、早口で確かめた。「深くはねえよな」
「これくらいで死にゃしないよ。心配なら手ぇ動かせ!」
「――加減しろよ、こっちの手だぞ!」
「分かってる、分かってるけど、ハルの手はまだ利き手代わりに慣れてねえんだよ!」
軋むような掛け合いの間にも、三人目、四人目が距離を詰めてきた。ミラが小刀を抜こうと手を離した瞬間、ハルの右手はまた重みも軽さも失い、ただの垂れた肉に戻った。
(――一人じゃ何もできねえ手だ、分かってる。今はそれでいい)
物を掴む力すら怪しい右手を庇い、ハルは肩から体当たりで割り込んだ。力比べになれば分が悪いが、相手の得物の軌道を逸らすだけならまだできた。転がりながら、ミラの投げた小刀が一人の膝裏に刺さり、動きが乱れるのを見た。
「(あいつら、痛みに悶える演技すらしねえ)」ハルは肌が冷えるのを感じた。呻き声も上げず、倒れてもすぐ這って態勢を立て直す。私兵の粗さも刺客の殺気もない。まるで駒だ。
膝裏を刺されて倒れた一人が、這ったまま血の気の薄い声で呟いた。「……あの男は、もう用済みだ」
まるで暗号を読み上げるような、抑揚のない声だった。
ハルの背筋が冷えた。――リードのことか。考える暇はなかった。
五人目の拳がミラの側頭を狙った瞬間、ミラの手がまたハルの右手を掴んだ。触れた瞬間だけ、重さが戻る。ハルは自分の体を一息に重くして、拳と拳の間に体を割り込ませた。衝撃は鈍く肩に響いたが、倒れずに済んだ。
「っ、悪い」
「今更だよ、それ!」ミラは息を切らしながらも笑ってみせた。
「――そっちは平気かよ」ハルは肩をさすりながら、なおも確かめた。「顔、まともに向いてなかったよな今の」
「平気平気。巻き添えで転ぶ方はもう慣れちまったよ」
転がりながらもミラは笑っていた。強がりだ。分かっている。放り出されたその手は、まだハルの手首に半ば絡んだままだった。
最後の一人――輪の外側で動かなかった男は、崩れ落ちる仲間たちを一瞥もせず、ただ静かにハルとミラを見ていた。
「まだ立てるか」男の声は変わらず平坦だった。「上の判断は、変わらない」
「上、上って――お前らの上って誰だよ」
答えはなかった。男が最後の間合いを詰め、ミラへ棍を振り上げた。
ハルは考える前に踏み出した。半ば絡んだままだったミラの手を、指先で強引に引き戻す。触れた瞬間、鈍い痺れの底に重さが戻った。握るための力はいらない。ハルはただ、自分と男の手首、その両方に等しく重みを乗せた。
男の手首が、鉛のように沈んだ。振り上げた棍がぴたりと止まり、行き先を失う。
掌に走った灼けるような痺れが、いつもより深く突き刺した。二人分の重さは、二人分の代償を連れてくる。
男の腕が軋み、袖が裂けた。捲れた布の下、前腕に黒い記号が覗いた。焼き印でも刺青でもない、皮膚に直に刻まれたような紋だった。
重みに耐えかねた男が体勢を崩し、壁に肩から叩きつけられて、ようやく動かなくなった。
肩で息をしながら、ハルは裂けた袖の下をもう一度見た。
「……これ」ミラが息を呑んだ。「見たことある、この形」
書付の符丁と同じだった。ライグが解いた記号――ギルド出張所を束ねる名の欄に並んでいたのと、同じ形だ。
ハルは震える息を吐いた。私兵でも刺客でもない、ギルド中央の名を掲げて動く駒たちの正体が、腕の下からようやく顔を出した。
「……冗談だろ、まだ来るのかよ」
路地の奥、乱れた足音がひとつだけ近づいてきた。規則正しく揃っていた駒たちの歩調とは違う、切羽詰まった、たった一人分の足取りだった。ミラが握り直した小刀には、もう笑いの気配は残っていなかった。




