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掴み屋ハル ―手のひらひとつの、生存戦線―  作者: SG


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符丁の名

灰塚帰りの疲れはまだ骨の芯に残っていたが、今日ハルとミラが呼び出された用件は、それとは別の話だった。


人気のない河岸の倉庫の陰。約束の刻限きっかりに、リードが音もなく現れた。相変わらず抑揚のない足取り、感情を読ませない顔。ハルは前置き抜きで切り出した。


「――コルドー」


名を口にした瞬間だった。リードの顔から、何かが抜け落ちた。瞬きが一拍遅れ、口元の線がわずかに強張る。目だけが、誰かに見られていないか確かめるように一度だけ周囲を走った。


ほんの一瞬だった。次の瞬間にはもう、いつもの平静な顔に戻っている。だがハルは見た。この男の化けの皮が剥がれる瞬間を、初めて見た。


「――知ってる名前だってツラだな」ハルは皮肉を隠さずに言った。「新しい査定官が、あんたに興味持たれてるとかぬかしてよ。その名前、聞いた途端そのザマかよ」


「……新任の査定官が」リードは短く聞き返した。声は淡々としていたが、間の置き方がいつもよりわずかに長かった。「ソレル、だったな」


「知ってんのかよ、そいつのことも」


ミラが横から口を挟んだ。「ねえ、リード。あんたが顔色変えるくらいだ、ただの偉いさんの名前ってわけじゃないんだろ」


リードは答えなかった。代わりに、周囲の気配を確かめるように倉庫の陰へ一歩下がった。荷積み場の方角から、遠く犬が一声だけ吠え、すぐに静まった。その静けさの底に、足音とも風とも判別のつかない物音が一瞬だけ混じった気がした。リードの視線がそちらへ流れ、しばらく戻ってこない。


「ここでする話じゃない」


「上等だ」ハルは動かなかった。「じゃあどこならいいんだよ。次にあんたが呼び出せる場所があるって保証、どこにある」


言葉に詰まったのは、リードの方だった。ほんの数秒、視線が伏せられる。それだけで、答えが出るまでの重さが分かった。


「……書付の符丁を、覚えているか」ようやくリードが口を開いた。「お前らが持ち込んだあの一枚。ヴェイン家の名以外に、まだ照合できていない記号が残っていた」


「ああ」ハルは頷いた。「あんたが前に言ってた、ギルド中央に繋がるかもしれねえってやつだろ」


「調べた」リードは一拍置いた。核心の一言の前に、いつもより長い間があった。「――コルドーという名は、その記号の一つと一致する。ギルド中央の理事の一人だ」


風の音が、やけに大きく聞こえた。


ミラが息を呑む気配がした。ハルは何も言わなかった。言葉が出てこなかった。貴族の私兵、灰塚の荷、借金の利率、ギルド出張所の腐敗――バラバラに転がっていた欠片が、たった一つの名前で繋がった。


「……つまり」ようやく声を絞り出した。「ヴェインも、ギルドの上も、同じ穴の狢だったってわけかよ」


「断定はまだできない」リードは平坦な声で言ったが、その声から普段の余裕は消えていた。「だが、可能性は消せない。……そして俺は、これを調べていることを、コルドー本人に知られるわけにはいかない」


「あんたの立場、そんなにやばいのか」


リードは答えなかった。ただ、初めてハルの目を真っ直ぐ見た。


「次に会う時、俺がまだこの仕事をしていられるとは限らない」


(――こっちの尻拭いのために、首の方まで賭けてやがる)ハルは胸の内でだけ毒づいた。礼を言う柄でもない。だが右手を見下ろして誤魔化すには、いささか重すぎる借りだった。


「……勝手に賭けてんじゃねえよ、そんなもん」ハルはぶっきらぼうに吐き捨てた。それだけだった。それ以上は続かなかったが、皮肉の抜け落ちた声の方が、余程正直だった。


リードは短く息を吐いただけで、何も答えなかった。ただ一拍、口の端がわずかに緩んだように見えたが、すぐにいつもの無表情に戻る。その一言だけを残し、来た時と同じように音もなく夜の中へ姿を消した。


ハルは握れない右手を見下ろし、ミラと顔を見合わせた。二人とも、しばらく何も言えなかった。


やがてミラが、リードの去っていった路地の先へ目を細めた。


「……なあ。今の、リードだけだったよな」


「どういう意味だよ」


「気のせいならいいけどさ」ミラの声は、さっきより低かった。「あの倉庫の屋根、誰か立ってた気がした」


ハルも釣られて視線を上げたが、そこにはもう夜と月明かりしかなかった。それでも、うなじの辺りに纏わりついた視線の感触だけは、消えずに残っていた。


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