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掴み屋ハル ―手のひらひとつの、生存戦線―  作者: SG


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動かない手、知られた名

右手を晒せば、雑用職にすら戻れない。


分かっていた。だが分かっていることと、腹が減ることは別だった。垂れたままの右手を晒さぬよう、ハルは指をだらりと袖の中に隠し、さも力の入った握り拳のように見せかけながら出張所の戸を潜った。


「柄にもなく緊張してんな」隣でミラが小声で言った。「そんな顔すんなよ、余計に怪しまれる」


「うるさい。お前こそ余計な口挟むなよ」


軽口を叩き合いながらも、腹の底は冷えていた。灰塚から戻って以来、右手はミラの手を借りなければ指一本動かせない。荷運びも、素材の選別も、まともにできる仕事がほとんど無かった。それでも飯代は要る。手持ちの屑素材を抱え、いつもの受付へ向かった――そこで、足が止まった。


カウンターの向こうにいたのは、グレタではなかった。


見覚えのない男が、書類の束を几帳面に整えながら座っていた。歳の頃は分からない。落ち着いた仕立ての上着、抑揚の薄い顔つき。グレタのような剥き出しの見下しはないが、値踏みするような視線だけは同じだった。


「グレタは」ハルは短く聞いた。


「彼女は別の窓口に。私はソレルと申します」男は一拍置いてから、口元だけで微笑んだ。「――掴み屋のハル様、でお間違いありませんね」


蔑称のはずの呼び名に、様、が付いていた。ハルは何と返せばいいか分からず、黙って屑素材を机に置いた。爪の欠片、皮の切れ端。灰塚から命懸けで持ち帰った、それだけの代物だった。


ソレルはそれを一瞥し、数字も見ずに紙へ何かを書きつけた。


「相場通りです。数字にならないものは、値段もつかない――そう教わりましたが、あなたは少し違うかもしれませんね」


差し出された硬貨は、案の定わずかだった。ハルは受け取ろうと右手を出しかけて、寸前で止めた。指が動かなかった。慌てて左手に持ち替えた。


「――右手、お怪我ですか」


「……使い過ぎだ。大した怪我じゃねえよ」


ソレルは何も言わず、それ以上は追及しなかった。だがその沈黙こそが、何かを見透かしたようで薄気味悪かった。


「実は、荷運びの臨時依頼が一件出ておりまして」ソレルは書類を一枚滑らせた。「掴み屋のあなたなら、造作もないかと。少しばかり、実演していただけますか」


奥から運ばれてきた木箱に手を伸ばした。掌が木の肌に触れた瞬間、いつもの動作のはずだった。だが右手の指は硬直したまま、内側に丸まろうとしなかった。握れなかった。それでも掌だけは、確かに箱の面に触れたままだった。


「――っ」


「どうかしましたか」


「なんでもねえよ」


言いながら、ハルは箱に触れたままの右手を隠すように、わずかに体をずらした。その隙に、隣に立ったミラが素早く自分の掌を重ねてくる。ハルの手はまだ箱から離れていない――その上から、ミラの掌が同じ面を捉えた。重なった二つの手のひらが箱の木肌を挟み込む。掌越しに伝わる感覚が、いつもの半分の速さで箱を軽くしていった。危なっかしい、綱渡りの技だった。それでも箱は浮き、ハルはどうにか持ち上げて見せた。


(……借りができたな)


ハルは胸の内でだけ舌打ちした。礼は口に出さない。だがこの後、飯くらいは奢ってやらねえと収まりがつかねえ、とだけ思った。


「……ご覧の通りだ。大した見世物だろ、雑用係の実演ってのは」


ソレルはしばらく黙って二人を見ていた。表情は変わらなかったが、目だけが、動作の不自然さを丁寧になぞるように動いていた。


「見事です」やがてそう言って、ソレルは書類を束ね直した。「――ですが、あなたの手が今、以前のようには動いていないことくらいは、私にも分かります」


ハルは答えなかった。強がりの軽口すら出てこなかった。


「ご心配なく。今日のところは、詮索はいたしません」ソレルは席を立ち、去り際に一度だけ振り返った。「――コルドー様が、あなたに興味を持たれています」


聞き慣れない名だった。だが口にされた瞬間、背筋を冷たいものが伝った。ソレルはそれ以上何も言わず、奥の扉の向こうへ静かに消えていった。


硬貨を握れない右手を見下ろしながら、ハルはミラと顔を見合わせた。何も言わなかったが、さっき肩代わりしてもらった借りのぶんだけ、目を逸らせなかった。何かがまた、動き出していた。


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