借り物の秤
ミラの手のひらが重なった瞬間、いつもとは違う感触が掌の奥を走った。
秤の手を使う時、いつもは自分の中だけで完結する感覚だった。掴んだ対象の重さが、まっすぐ自分の手の中に流れ込んでくる。だが今は違った。ミラの手のひらから流れ込んでくる何かが、ハルの意志と絡み合い、せめぎ合っていた。まるで、重さの取っ手を二人で同時に握っているような、妙な引っ張り合いだった。
「――なんだ、これ」ハルは掠れた声で呟いた。
「動いてんな。動いてはいる」ミラの声も強張っていた。「けど、あたしが意識すると軽くなって、ハルが意識すると重くなる。……どっちに合わせりゃいいんだよ、これ」
答えている暇はなかった。背後で瓦礫がまた崩れ、粉塵が舞った。
「合わせなくていい、力技で行くぞ」ハルは吐き捨てた。「その瓦礫、二人で掴め。軽くする、それだけ考えろ」
「言われなくても」
二人の手が重なったまま、目の前の瓦礫の山に触れた。掴む、という感覚がいつもの倍近く濃く伝わってきた。だが軽くなる速度は、いつもの半分にも満たなかった。安定しない。今にも千切れそうな細い糸を二人がかりで手繰っているような、頼りない手応えだった。
それでも、瓦礫はゆっくりと軽さを増していった。二人がかりで押しのけ、隙間に体を滑り込ませた。
「――っ、待て、軽すぎる!」
ミラの叫びに、ハルは咄嗟に重さを引き戻そうとした。だが加減が分からなかった。軽さが行き過ぎて、瓦礫の一部がふわりと浮き上がり、二人の頭上でぐるりと回転した。
「伏せろ!」
二人揃って身を伏せた瞬間、浮いた瓦礫が背後の壁に叩きつけられ砕けた。危うく直撃を免れた。
「……上等だ。加減も知らねえ技だな、こいつは」ハルは荒い息で吐き捨てた。強がりの軽口すら、震えていた。
「文句言ってる場合か! 抜けるぞ、ここを!」
崩れる音を背に受けながら、二人は瓦礫の隙間を潜り、細い通路を這うように進んだ。崩れた岩の隙間から、灰塚の壁によく似た仄かな光が一瞬滲んだ――そういえばアルダスの指先の結晶も、同じ色に瞬いていた。確かめている暇はなかった。何度か軽さが暴れ、天井の破片が意図せず浮き上がったが、その都度どうにか押さえ込み、灰塚の入り口の光が見えるところまで辿り着いた。
外に出た瞬間、二人はどちらからともなくその場に座り込んだ。
「……生きてる」ミラが空を見上げて呟いた。「生きてるよな、これ」
「あたりまえだ。舐めんな」
軽口の後、ハルはミラの肩口――爪撃の古傷が残る側――にちらりと目をやった。「……お前こそ怪我はねえだろうな。さっきの瓦礫、まともに喰らってねえだろうな」
「平気だよ、そっちより先にあたしの心配かよ」ミラは肩をすくめたが、さっきまで強張っていた声からは、いくらか力が抜けていた。「――ま、心配してくれるだけマシか」
軽口を叩きながらも、ハルは自分の右手を見た。ミラの手が離れた途端、いつもの感覚が消えていた。指はやはりだらりと開いたままで、握り込む気配すら無かった。
「……戻ってねえな」ミラが横からハルの手を覗き込んだ。「さっきのあれ、あたしの手があったから動いただけだ。ハル一人じゃ、まだ何にもできねえ」
「分かってるよ、そんなこと」
分かっていた。だが分かっていることと、認めることは別だった。二人がかりでどうにか一度、力を動かせた。だがそれは安定した技でも何でもなく、綱渡りの上でさらに綱を渡るような、危なっかしい代物でしかなかった。次に同じことができる保証はどこにもない。
「なあ」ミラが膝を抱えたまま、珍しく低い声で言った。「この先、ずっとこうなのか? あたしの手を借りねえと、ハルは何にもできねえ。……それで、これまで通りの稼業、続けられると思うか」
ハルは何も返さなかった。返せる言葉がなかった。
垂れた右手を見つめながら、腹の底に鉛のような重さが沈んでいくのを感じた。飯のために迷宮に潜る。それだけが目標のはずだった。だがその目標を支えていたはずの右手は、今、誰かの手を借りなければ何もできない、ただの重荷になっていた。
「……考えなきゃな」ようやくハルは、それだけを絞り出した。「このままじゃ、次の依頼にも出られねえ」
灰塚の入り口に差し込む夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。生き延びたはずの安堵の裏で、これからどうやって飯を食っていくのか――答えの出ない問いだけが、重く残っていた。
……そういえば、あの日屋根の上から降ってきた声も、コルドーとかいう名を知っていたんじゃなかったか。ふとそんな記憶が頭の隅をよぎったが、今のハルには、その糸を手繰る余力すら残っていなかった。




