借りる手、崩れる道
右手を持ち上げようとした。何の反応もなかった。指はだらりと開いたまま、力の入る気配すらなかった。
ハルは短く息を吐き、いつもの調子で笑おうとした。
「――上等だ。飯より先に手が終わるとはな」
笑いは、喉の途中で止まった。声にならない乾いた息だけが漏れた。
「……ハル」
ミラの声が固まっていた。ハルは横目でミラを見た。「なんだよ、そんな面すんな。ちょっと痺れが酷いだけだ」
「痺れが酷いだけの手が、指開いたまま戻んねえのかよ」
ミラの言う通りだった。何度も握り込む真似をした。指は震えるだけで、拳の形にすらならなかった。焼けるような痺れならまだ良かった。今のこれは、痺れているのかどうかさえもう分からなかった。感覚そのものが遠のいたまま、戻ってこなかった。
ハルは答えなかった。答えられなかった。
そこへ、奥の暗がりから低い軋みが響いた。結晶の胎の明滅が一段と速くなり、壁の亀裂から粉のような瓦礫が零れ落ち始めた。
「――おい、まずいぞ、これ」ミラが天井を見上げた。「崩れる」
「分かってる。動くぞ」
左手だけでミラを支え、右手はだらりと下げたまま、二人は入ってきた通路へ引き返した。だが通路は既に様子を変えていた。以前より狭まり、壁のあちこちに新たな亀裂が走っていた。灰塚そのものが軋みながら形を変えているようだった。
「こっちだ!」
ミラが叫び、狭い隙間へ滑り込んだ。ハルもそれに続こうとした瞬間、足元の瓦礫が崩れた。
本来なら、崩れかけた足場に触れて軽くし、体ごと持ち上げてしまえば済む話だった。今までも、幾度となくその一手で切り抜けてきた。だが握り込む感覚すら失せた右手は、瓦礫に触れても何も返さなかった。掴んだつもりの重さはそのまま、重いままの体を支えきれずに踏み込んだ足へ流れ込んだ。踏ん張るべき瞬間に踏ん張れず、体が大きく傾いだ。
「――っ」
左手だけで岩肌を掻いたが、指先が滑った。体が完全に落ちる、その直前――
「馬鹿、こっち!」
ミラの手がハルの手首を掴んだ。引き上げようとする力に、ハルはようやく足場を取り戻した。荒い息のまま、二人はどうにか隙間の先の細い通路に転がり込んだ。
背後で、瓦礫が崩れ落ちる音がした。数瞬遅れていれば、生き埋めだった。
「――助かった」ハルは荒い息の下で、それだけ言った。柄にもなく素直な礼だったが、今は強がる余裕もなかった。
「礼を言ってる場合か」ミラは短く返したが、その声にはいつもの軽口の勢いが無かった。「……瓦礫、まだ来るぞ。この先も崩れてる。まっすぐは無理だ」
通路の先は半分ほど瓦礫に埋まっていた。人ひとりが這って通れるかどうかという狭さで、その隙間の縁にも新しい亀裂が走っていた。長くは保たなかった。
「――両手なきゃ渡れねえ足場かよ」ハルは吐き捨てた。強がりを乗せようとした声は、途中で萎んだ。右手は相棒を引っ張ることも、瓦礫を掻き分けることも、なにひとつできなかった。
――使えない手が、こんなにも重かった。
自分の腕の付け根から、そのまま切り落としてしまいたいような苛立ちが湧いた。そんな考えを持つ自分に、余計に腹が立った。
「――ハル」
ミラの声が、いつもの軽さの欠片も無いところまで落ちていた。ハルが視線を戻すと、ミラは自分の右手を、じっとハルの垂れた右手に伸ばしていた。
「なにして――」
「いいから黙ってろ」
ミラの手のひらが、ハルの手のひらに重なった。指を絡めるように、強く握り込むように。
「あたしの手を借りな」
崩れる通路の軋みが、また一段近づいてきた。




