垂れ下がる手
頬を張られた痛みで、意識が引き戻された。
「――っ、ぐ」
古い街の景色が、まだ目の奥にこびりついていた。塔、通り、見たこともない建物の群れ。それが一瞬で吹き飛び、代わりに灰塚の暗い天井が視界いっぱいに広がった。
「起きたか、馬鹿野郎!」
ミラの声だった。頬がまだ熱い。張られたのだと分かるまで、少し間があった。
「……お前、何回叩いた」
「三回だよ! 一回じゃ目ぇ開けなかったんだから文句言うな!」
軽口のつもりだったのだろうが、声は掠れきっていた。手のひらはまだ結晶の塊に触れたまま、指が白く強張っている。剥がそうとした瞬間、痺れが焼けるように走った。
「――くそ」
低く呻きながら、ハルはどうにか手を引き剥がした。同時に、結晶の胎の明滅が一段と激しくなった。まるで何かを呼び覚ましたかのように。
奥の暗がりから、複数の足音が近づいてきた。四つ足でも六つ足でもない、もっと不規則な、引きずるような足音。
「――来るぞ」
ミラの声が硬くなった。暗闇からにじり出てきたのは、これまで見たどの変異獣とも違う姿だった。継ぎ接ぎのような節だらけの体、皮膚の下に薄く紋様が透けて見える。灰塚の主の欠片が、勝手に体を成したような――そんな成り立ちに見えた。
「新手か」ハルは吐き捨てた。「上等だ。今のこっちで相手できるかは知らねえけどな」
「軽口叩いてる場合かよ」ミラが小刀を構え直す。「頭の中、まだぐらついてんだろ」
図星だった。視界の端に、まだ古い街の残像がちらつく。塔の輪郭が、目の前の変異獣の影に重なって見える瞬間があった。意識を保つだけで精一杯だ。
「――そっちこそ、足元見てろよ。俺の頭がおかしくても、お前の腕は借りるからな」
「へっ。そういうことは先に言えっつの」
一体が跳んだ。ハルは咄嗟に自分の手のひらを己の胸に叩きつけ、体を軽くして横へ跳んだ。着地の刹那、重さを戻して繰り出した拳が、節だらけの体を弾き飛ばした。手応えのあった一撃だった。崩れ落ちたそいつは、二度と動かなかった。
だが、それで終わりではなかった。奥からまた次の影が湧いて出た。数を数える余裕などなかった。ミラの投げた小刀が一体の目を潰し、怯んだ隙にハルが軽量化からの一撃で仕留めた。息をつく間もなく、また次が迫った。
「掴む→軽く→懐→戻す」――頭の中で繰り返す呼吸のような手順すら、街の景色の残像に何度も飲まれかけた。それでも体は動いた。動かし続けるしかなかった。
何体倒したのか、もう自分でも数えていなかった。意識のどこかが古い街の幻影に食われかけるたび、右手だけが機械のように「掴む→軽く→懐→戻す」の手順を繰り返し続けた。
その中の一体に触れた瞬間、右手から伝わる痺れが今までとは質が違うことに気づいた。焼けるような熱ではなく、感覚そのものがすっと遠のいていくような、冷たい痺れだった。
「まずい」
小さく呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。だが止まれば終わりだ。次の一体に飛びつき、重さを叩き込んだ。倒れた。まだ、いる。
「ハル、あと三体!」
「……分かって、る」
答えた声が、思うように出なかった。腕全体が鉛のように重く、それでいて指先の感覚だけが薄紙のように失われていく。最後の一体を掴んだ瞬間、ハルは違和感の正体に気づいた。
――握れていなかった。
軽くする、戻す、その切り替えの感覚は確かにあった。だが指が、獲物の体表を掴み続けているという実感がどこにもなかった。最後の一体が悲鳴じみた声を上げて崩れ落ちたのは、辛うじて間に合ったからだ。運が良かっただけだ。
静寂が戻った広間で、ハルは荒い息を吐きながら右手を持ち上げようとした。
上がらなかった。
「……おい」
自分の右腕を見下ろす。指は開いたまま、拳を作ることも、何かに触れることもできず、力なくだらりと垂れ下がっていた。握力そのものが、そこにはもう残っていなかった。
「ハル?」
ミラの問いに答える言葉が、すぐには出てこなかった。




