大異変の前から、その口で
「――で、坊やの手は結局、いつになったら握れるようになるんだって?」
安酒場の隅、欠けた木の卓についた途端、ミラがそう切り出した。ここしばらく、ヴェインだの中央理事だのという物騒な名前ばかり耳にしてきたせいで、こういう軽口が逆に懐かしく感じるくらいだった。
「知るかよ。医者じゃねえんだから聞くな」
ハルは酒精の薄い安酒を舐めながら、痺れの残る右手を軽く握ってみせた。指先が震えるだけで、力はまるで入らなかった。それでも、以前よりはほんの少しましになった気がした。
「……本気で心配してんだよ、こっちは。柄にもなく」
ミラが目を逸らしながらそう言った。
「……知るかよ、そこまで湿っぽくすんな」
ハルは素っ気なく吐き捨てて、視線を杯に落とした。それ以上は続けなかったが、痺れの残る右手をそっと卓の下に隠した仕草だけが、照れ隠しの代わりだった。
聞き覚えのある間延びした声が、そこに割り込んできた。
「おお、兄ちゃんに嬢ちゃんじゃないか。しばらく見ん間に、また一段と顔つきが強張っとるのう」
オルグだった。既にできあがっているらしく、酒瓶を片手に断りもなく卓に着いた。
「じいさん、勝手に座るんじゃねえよ」
「まあまあ。爺の奢りじゃ、今日は」
「本当かよ、じいさん、今日は妙に気前がいいじゃないの」ミラが片眉を上げた。「――で、その分、何か聞き出そうって腹だろ」
「わかっとるなら話が早いわい」オルグは悪びれもせず笑った。「灰塚の主とやら、結局どうなったんじゃ。屋根の上だ、ヴェインだ、ギルド中央だ――物騒な噂ばかり耳に入ってくるが、当の兄ちゃんの口から、まともに聞いたことがまだ一度もないでな」
「……別に、大した話じゃねえよ」
ハルは素っ気なく答えたが、オルグの目がまだこちらを見据えたままなのに気づき、渋々といった調子で続けた。
「――生きてるかどうかまでは知らねえよ。骸も残らなかったんだ、確かめる術がねえ。ただ……あの紋様の光だけは、前よりも強くなってる気がしてる。掴んでもまるで手応えがなかった、あの感覚も、まだ手に残ってるくらいだ」
震える右手を一瞥して、それ以上は言わなかった。オルグはそれを見て、ふん、と鼻を鳴らしただけで深追いしなかった。
「言いたくないなら、それでいい。儂はもう潜らんし、口を出す立場でもないでな」
そう言いながらも、手酌で杯を重ねる速度は上がる一方だった。ミラが呆れ半分で「じいさん、飲みすぎ」と釘を刺すが、オルグの呂律はもう半分ほど怪しくなっていた。
「――なあ、兄ちゃん」
不意に、声の調子が変わった。酔いのせいで間延びしていた語尾が、妙にはっきりとしたものに戻る。ハルはその変化に気づき、思わず杯を止めた。
「灰塚の壁が脈打っとった、そう言うたな。奥の方で、瘤のような、亀裂のような」
「……ああ」
「儂が昔潜った迷宮も、こんな風に脈打っておったわい」
オルグは杯を卓に置き、ぼんやりと宙を見た。目の焦点は、ここではないどこか遠くを見ているようだった。
「――大異変の前からな」
酒場の喧騒が、一瞬だけ遠くなった気がした。ハルは、震える右手をきつく握り込もうとした。
「じいさん、今……」
「大異変の、前?」ミラの声も強張っていた。「じいさん……本気か、それ」
オルグはそれには答えず、ただ空になった杯の底を、じっと見つめ続けていた。




