心当たりがある
「ギルド中央、って名が漏れたこともあるぜ」――昨夜、屋根の上で聞いた一言が、朝になっても腹の底から消えなかった。
声は低く抑えられていたが、あの嗄れた、実戦者めいた伝法な口ぶりではなかった。ミラを庇って覆面の男たちを追い払った時の声とは、纏う気配からして違う。同じように屋根の上から降ってきた言葉でも、あれは別の誰かだった――ハルはそう確信していたし、名乗らず姿も見せずに消えたその何者かが敵か味方かすら、今もって分からないままだった。
ハルは痺れの残る右手を握り込もうとして、震えるだけでうまく力が入らないのを確かめてから、リードが仮に使っている裏の詰め所――出張所の奥、書付や証拠品を扱うための小部屋の戸を叩いた。
「入れ」
短い返事。リードは書類の山を前に座ったまま、視線だけをこちらへ寄越した。相変わらず纏う空気は平坦で、感情の色を探る余地がなかった。
「話がある」ハルは前置きも省いて切り出した。「――ギルド中央。その名前、あんたに聞いてほしい」
リードの手が、書類をめくる動きで止まった。ほんの一瞬。だがハルは見逃さなかった。
「どこで聞いた」
「言えねえ相手からだ」ハルは短く答えた。「けどな、あんたの目の色が変わったのは分かったぜ」
「変わってはいない」
「変わってんだよ、あんたにしちゃ分かりやすくな」ミラが横から口を挟んだ。腕を組み、あんた呼びの慇懃さを保ちながらも、その声には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。「ヴェインの私兵に、ヴェインの紋の刺客に、ヴェインの当主直々の勧誘――今度はギルド中央かよ。あたしらの命、いったい何枚使う気だ」
リードは何も言わず、椅子の背に体を預けた。天井を仰いだのは一瞬だけで、すぐに視線を戻した。
「屋根の上の、何者かか」
図星を突かれ、ハルは黙った。それが答えだと悟ったのか、リードは小さく息を吐いた。
「――座れ」
促されるまま、二人は硬い木の椅子に腰を下ろした。リードは机の抽斗から、あの日の書付の写しを取り出し、卓上に広げた。焦げた端、割り当てを示す記号の羅列。ヴェイン家の名を割り出したあの符丁の隣に、まだ意味の分からない記号がいくつも残っていた。
「この中に、ヴェイン以外の名がある。それはお前らにも前に話した」リードは指先で一つの符丁をなぞった。「――だが正体まではまだ割れていない。中央の役職に連なる何かだろう、というところまでしか」
「その『何か』の名を、屋根の奴が漏らしやがった」ハルは低く言った。「――ギルド中央、ってな」
リードは黙って符丁を見つめ続けた。長い沈黙だった。普段ならすぐに次の言葉を継ぐ男が、今は指先で紙の端をなぞるだけで動かなかった。
「あんたが黙るのは、初めて見たな」ハルは皮肉で間を埋めようとした。「――何だよ、都合の悪い話か」
「都合の悪い話だ」
意外にも、リードはそのまま認めた。ハルとミラは思わず顔を見合わせた。この男が事実をぼかしたことは何度もあったが、こんな風に苦く認めたことはなかった。
「符丁の一つに、俺も覚えのある記号がある」リードは静かに続けた。「ギルド中央の理事の一人が使う印に、似ている」
「――理事」ミラが繰り返した。声が硬い。「貴族の私兵より、上ってことかよ」
「上か下かの話じゃない」リードは首を振った。「別の場所にいる、というだけだ。だが別の場所にいる者が、同じ符丁で繋がっているとすれば――」
言葉が途切れた。リードは書付から顔を上げ、初めて、ハルの目をまっすぐに見た。
その顔に、ハルは見覚えのない色を見た。平坦だったはずの表情に、影が差していた。取り繕う余裕すら、今は感じられなかった。
「――ハル」
名を呼ぶその声は、いつもの淡々とした調子ではなく、低く、重く沈んでいた。呼びかけたきり、リードはすぐには続けなかった。視線はまだ卓上の符丁――ヴェインの名の隣に並んだ、まだ誰のものとも知れない記号の上に落ちたままだった。
「――その符丁の名になら、心当たりがある」




