ギルド中央、という名
助けられた借りを、どう返せばいいのか分からない。
覆面の男たちに囲まれたあの夜から、一晩が明けていた。
宿の裏、荷解き用の梯子を上りながら、ハルはそれだけを考えていた。金なら払える。飯なら分けられる。だが命を拾われた借りは、どちらの秤にも乗らなかった。
「――で、ハル、何しに屋根なんか上ってんの」
下から呆れた声が飛んできた。ミラが腰に手を当て、こちらを見上げている。
「決まってんだろ。礼の一つも言っとかねえと、寝覚めが悪い」
「律儀だこと」ミラは軽口を叩きながらも、後から梯子に足をかけた。「――でも、あたしも同じ気分だ。あの野郎がいなきゃ、今頃どうなってたか分かったもんじゃないからな」
屋根の上は静かだった。月は昨夜より少し欠けている。ハルは瓦の縁に腰を下ろし、闇の稜線を睨んだ。
「……出てこいよ。まさか呼ばれもしねえのに顔を出すほど、律儀じゃねえって面してたよな」
しばらく答えはなかった。それでも、根気よく待っていると、少し離れた棟の陰から、ふっと息の混じった気配が動いた。
「……礼を言いに来たのか」
嗄れた声が低く響く。フードの人物の乾いた平叙文とは違う、荒っぽく息の削れた喋り方――間違いない、あの監視者だった。
「礼つうか」ハルは軽く肩をすくめた。「借りっぱなしってのが、性に合わねえだけだ。……何が欲しい。金か、それとも別の何かか」
「いらねえ」短い返事だった。「借りだのなんだの、抱え込む柄でもねえ」
「じゃあ何のために手を貸した」ミラが横から割り込む。声には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。「タダ働きする趣味でもあんのかよ、あんた」
一拍、間が空いた。息の混じる低い音だけが、屋根の上を渡っていった。
「……気に食わなかっただけだ」ようやく返ってきた声は、それだけ言うと途切れた。「道具みてえに値踏みされて、諾々と差し出される――そういうのが、な」
ハルは思わず口をつぐんだ。灰色の使者の慇懃な取引、アルダスの穏やかな脅し――散々値踏みされてきた記憶が、喉の奥で苦く疼く。この男もまた、同じ何かを見てきたのかもしれない。そう思うと、素直に礼を言う気にもなれず、かといって突っぱねる気にもなれなかった。
ヴェインの当主は、まだ諦めちゃいねえだろう。この右手を諦めるくらいなら、次の手を打ってくるに決まってる。結晶がどうのという話も、まだ土の下に埋まったままだ。厄介事の種は、一つも片付いちゃいねえ。
「……あんた、ヴェインの紋、持ってるんだよな」ハルは低く切り出した。「なのに、ヴェインの企みには手を貸さねえ。おかしな話じゃねえか」
「おかしくて、悪いかよ」
素っ気ない返事だった。それ以上は続かないかと思われたが、ふいに影の声の温度が、わずかに変わった。
「……ヴェインだけの話じゃねえよ」
「――どういう意味だ」
「あの家が動く時、たまに名前が漏れる」影は言葉を選ぶように、一拍置いた。「――ギルド中央、って名が漏れたこともあるぜ」
ハルの背筋が冷えた。ミラが息を呑む音が、隣で小さく聞こえる。貴族の私兵、灰色の使者、それだけでも十分厄介だった。だがそこにギルド中央という言葉が絡んでくるとなれば、話の根は自分たちが思っていたより、ずっと深いところまで伸びていた。
――そういえば、最初からそうだったのかもしれねえ。
ハルの脳裏を過ったのは、まだ右も左も分からなかった頃に受けた、灰塚での護衛依頼だった。依頼主不明、前金なし、護衛対象すら明かされなかったあの仕事。あの時はただの怪しい小遣い稼ぎだと思っていたが、今ならわかる。あれもきっと、同じ穴の狢――ヴェインの筋が絡んでいたのだ。振り返ってみりゃ、最初から敵の庭で踊らされてたってわけかよ。
「……じゃあ、俺たちが証言してるのは、貴族一家の悪事だけじゃねえってことかよ」ハルは掠れた声で問い詰めた。「ギルドの中にまで、繋がってるってのか」
答えは返らなかった。
「おい――」
ハルが身を乗り出した時には、もう影の輪郭は屋根の稜線の向こうへ滲むように消えていた。足音一つ残さず、後にはただ、月明かりに照らされた瓦の連なりだけが広がっている。
「……逃げ足だけは一人前だな、あいつも」ミラが強張った声で吐き捨てた。だがその声には、いつもの軽さがまるでなかった。
ハルは黙って、消えた闇の奥を見つめ続けた。ヴェインの家という、目に見える一つの敵を追ってきたはずだった。だが今しがた落とされた「ギルド中央」という一言が、腹の底に重く沈んだ。
貴族だけが敵じゃねえのかもしれねえ。俺たちが縋ろうとしてきた場所――ギルドそのものの奥にも、同じ闇が巣食っているとしたら。
「……ハル」
ミラの声に、ハルは我に返った。強がりの抜けた、素の声だった。
「――大丈夫かよ、お前」ハルは短く言った。
「大丈夫なわけあるかよ、こんなの」ミラは笑おうとして、失敗した。それでも、その目にはまだ光が残っていた。「でも、まだ立ってられる。それだけで十分だ」
月は雲に隠れ、屋根の上には二人の吐く白い息だけが残った。ギルド中央、という言葉の重さが、静かに、しかし確実に、二人の足元へ根を張り始めていた。




