声のする方へ
闇の奥から、掠れた悲鳴が聞こえた。
「ハル……!」
短く途切れた声だったが、それだけで十分だった。声のする方へ、ハルは迷わず踏み出した。
覆面の男に引きずられてから、どれだけ路地を折れたのか覚えていない。裏路地を三つ、四つ抜けた先の廃倉庫に押し込まれ、気づけばミラとは別々の戸口に分けられていた。
――お連れの方は、こちらでお預かりいたします。ハル殿お一人が大人しく付いてきてくだされば、それで済む話です。
灰色の使者はそう言ったはずだった。だがハルが一度でも足を止めようとするたび、覆面の男たちの手は余計に強く肩へ食い込んだ。約束が違う、と喚く暇もないまま、気づけばミラの姿も一緒に引きずられていた。舐められないための保険、ということか。安く買い叩く側は、いつだって手札を余分に持っておきたがる。
腕を捻り上げられたまま、痺れの残る右手はろくに握り込めもしない。それでも板戸の向こうからミラの声が漏れた瞬間、体の方が先に動いていた。
肩からぶつかる形で戸を破ると、埃と黴の匂いが鼻を突いた。奥の暗がりに、縄で縛られたミラと、それを囲む覆面の男が三人。得物に埋め込まれた石片が、灯りに鈍く発光している。灰塚の壁と同じ、あの色だった。
戸口の脇、少し離れた暗がりに、灰色の使者が佇んでいるのが見えた。手を出すつもりはないらしい。ただ、値踏みの続きを見届けにきただけの目をしていた。
「――丸腰で来るとは、随分と威勢がいい」先頭の男が嗤う。
「知るかよ」ハルは低く吐き捨てた。「お前らがミラを無事に帰す道理が、どこにある」
「道理なら、ちゃんと用意してある」男は肩をすくめた。「大人しく身柄をこっちに渡せば、女の方は帰してやる。損な取引じゃねえだろう」
一瞬、頭の隅で算盤を弾く自分がいた。ミラだけでも逃げられるなら――そこまで考えて、すぐに苦い笑いで打ち消す。道具として散々値踏みされた挙句、次は大人しく差し出せというのか。冗談じゃねえ。信じられる保証なんぞ、どこにもねえのに。
「上等な取引だな」ハルは口の端を歪めた。「――で、それを信じろってのか。テメエらの言うことを真に受けるほど、俺はめでたくねえよ」
答える代わりに、男が踏み込んできた。避ける間もなく肩を殴られ、視界が揺れる。それでも倒れなかった。痺れきった右手を自分の胸に押し当てる。掴む。軽くする。
殴られた勢いを利用して後ろへ流れるふりをし、相手の間合いの内側へ逆に転がり込む。狙うのは足首――触れた瞬間、右手に走る焼けるような痛みを噛み殺し、重さを引き戻した。
「――っ!?」
自分の足の重さに耐えかね、男が崩れる。だがそれで終わりではない。残る二人が同時に得物を構え直す。数の差は動かない。右手はもう限界に近く、次に触れる余力があるかどうかも怪しかった。
一人がミラへ切っ先を向けた。庇う位置に踏み込む余裕はない。ハルは考えるより先に、自分の胸へ触れていた。掴む。今度は――重くする。
刃が肩を捉える寸前、鉛のように重くなった体がその場に沈み込み、切っ先は空を切って板戸に食い込んだ。骨まで響く衝撃に息が詰まる。受けきれず膝が落ちる。右手はもう指の感覚さえ怪しかった。それでも、ミラの体に刃は届かなかった。
「ハル、後ろ……!」
振り向く暇もなく、頭上から風を切る音がした。
黒い影が一つ、音もなく降り立ち、男の得物を弾き飛ばす。刃も抜かず、拳ひとつで沈黙させたその動きに、迷いも無駄もなかった。残る一人が身構えるより早く、影は懐に潜り込んで打ち倒す。
薄闇の中、その手首に一瞬だけ鈍い光が走った。見覚えのある紋だった。瓦礫の屋根から金属片を落としていったあの晩、オルグが「潰された仲間と同じ紋だ」と言っていた、あの意匠――ヴェインの息のかかった連中の証だ。
――なんでだ。同じ根から出てきた奴が、なんで俺たちに手を貸す。
答えの出ない問いが喉の奥で渦を巻いたが、確かめている暇はなかった。
いつの間にか、戸口の暗がりから灰色の使者の姿は消えていた。踏み込まれた瞬間から、争いには一切手を出さない男だった。値踏みが済んだら、あとは黙って引くだけ――そういう決め事でもあるように。
「――ハル、縄……!」ミラの声で我に返る。震える指で結び目をほどき、二人はもつれるように倉庫を飛び出した。
裏路地を抜け、息の切れる場所まで来て、ハルはようやく足を止めた。
「……大丈夫かよ、お前」
「大丈夫なわけあるかよ、こんなの」ミラは強張った声のまま、それでも笑おうとして失敗した。「でも、生きてる。それで十分だ」
少し間を置いて、ミラが息を整えながら付け足した。「――灰塚だけの話じゃなくなってきてるらしいじゃないか。この前、別の迷宮でも似たような噂を耳にしたって、じいさんが言ってたな」
「ああ」ハルは短く頷いた。それから、まだ手首に焼き付いたままの紋のことを思い出し、言いかけて口をつぐむ。「……いや、今はいい。生きて帰れただけ儲けもんだ」
腹の底では別のことを考えていた。第3話のあの護衛依頼も、依頼主不明、前金なし、荷の中身も明かされないまま人を使い潰す手口だった。今日のこれと、同じ臭いがする。だとすれば、あの依頼もまた、ヴェインの筋に繋がっていたのかもしれない――確かめる術は、まだない。
答える代わりに、頭上から声が降ってきた。
見上げた屋根の上、月を背にした人影があった。今まで一度も口を利かなかった、あの監視者だった。
「……まだ潰れてねえとはな」
嗄れた、低い声だった。抑揚は薄いが、フードの人物の乾いた平叙文とは違う、もっと荒々しく息の混じった声だ。初めて紡がれた言葉に、ハルは思わず身構えた。
助けられた戸惑いと、値踏みされることへの苛立ちが同時に喉を焼いた。灰色の使者に散々品定めされた挙句がこれだ。今度は上から眺めていた奴に、命が保つかどうかを試されていたというなら、笑えない冗談だった。
「……テメエ」ハルは掠れた声で言った。「命の恩人面する気か。それとも、これもまた値踏みのつもりかよ」
「勘違いすんな」影の声が低く返った。抑揚は薄いままだったが、そこにだけ僅かな棘があった。「紋は同じでも、俺が向いてる先は違う。……あの家に飼われちゃいるが、飼い犬にだって噛みつく牙くらいはある」
それだけ言うと、あとは低く笑うような息だけが返ってきた。
「その手――思ったより、粘りやがる」
言い捨てると、影は屋根の稜線の向こうへ、足音もなく消えていった。手首の紋だけが、ハルの目に焼き付いて残った。




